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はじまりの朝と、さよならの月夜(6)





雨の中、紫苑を待っていてくれた赤い傘の色が、瞼の裏に鮮やかに浮かんだ。
沙布。
大切なぼくの親友。
ずっと一緒だと思っていた。
たとえ専攻が違っても、そんなの関係ない。
ずっと同じように目標を持って、共に歩んでいけると思っていた。
だけど、ごめん。
もうぼくは、きみと同じ道を歩くことはできない。
できなくなってしまったという意味じゃない。結果のことじゃない。
ぼくは、ぼくの意志でそれを選んだ。
彼とこの先も共に在りたい。
これが今ぼくの望む、たった一つの未来だ。
だのに。ああ、どうして。
――どうしてぼくは、こうも脆弱なんだ。



ネズミの腕に抱えられて、朦朧としていく意識の中、ぼんやりと紫苑が想う。
銃声の音、鼠の鳴き声、叫び、悲鳴。
心を不安にざわつかせる音が、ぎゅっときつく抱き寄せられた腕の中で一時遠ざかる。
代わりに聞こえるのは、心臓の音だ。
規則正しく、あたたかな、きみの音。
呼吸はもう、乱れに乱れているけれど。
ごめん、ぼくのせいだ。
背におぶされば、少しは楽だろうに。
そうやって、きみは、ぼくが背後から撃たれる可能性から護ってくれている。
自分の背を盾にして、ぼくを護っている。
やさしいね。ほんとうに、きみはやさしい。
ぼくは、そんなきみを護れただろうか。
きみを護れたと言えるだろうか。こんな風で。
それでもね、ネズミ。
何だかこの2日で、ぼくは、一生分の人生を経験したような気がするよ。
他人とこれほどまでに深く濃厚に交わるなんてことは、たとえ90年生きたって、そうそうはないだろうと思う。
…ねえ、ネズミ。
きみにとって、ぼくはどうかな…。
ぼくは、きみにとって……。
意識を手放しそうになって、だらりと紫苑の手が落ちる。指の先から血が滴り落ちた。
耳のそばで、ネズミの怒声を聞いた。
起きろ、目を開けろと叫ばれて、紫苑が薄く、重い瞼を持ち上げる。
ああもう、そんなに大きな声を出さなくったって聞こえてる。
大丈夫。ぼくは、ちゃんと、最後まで、ぼくの役目を全うするんだ。
そのために今、ここにいる。
きみの負担になることに、甘んじている。



地上に上がった瞬間。刺すような太陽の光に、一瞬意識が飛びそうになった。目が眩む。
廃棄ルートを紫苑を抱えたまま駆け抜けたネズミの肉体は、既に疲労を訴え、両腕は痺れて感覚が無かった。
だが、休んでいる暇はない。
紫苑を一旦茂みに隠し、森林公園の中のパーキングに停車中の濃紺の車に接近する。
車中の人間を確認するや、肘で窓を割り、素早くロックを解除し、運転席のドアを思いきり開いた。
キスの真っ際中だった若い男女が、度肝を抜かれたようにネズミを見る。無粋ではあるが、構ってなどいられない。
運転席の男を外へ引き擦り出し、女にも降りろと命じる。もっとも車内に侵入してきた溝鼠の群れに、女は悲鳴を上げると、ネズミに命じられるまでもなく、あっさりと恋人を放って逃げ出した。好都合とはいえ、少しばかり男に同情する。
ネズミは、背凭れを倒したサイドシートへと紫苑を横たえ、シートベルトで固定すると、運転席に回り、エンジンをかけた。行けそうだ。
頭の中で、ゲートまでの道をシュミレーションする。行ける。大丈夫だ。
自分に言い聞かせ、アクセルを踏み込むと、車は唸りを上げてパーキングを走り出た。
森林公園からロストタウンのメインストリートを抜ければ、そこからゲートまでは一本道だ。
だが、恐らくはその手前で検問が行われる。
そこさえ突破できれば。
ネズミの顔に緊張が走る。
ここまで来たんだ。何が何でも逃げきってみせる。
生き延びて、やがて、その喉元に喰らいつき、息の根を止めてやる。たかが鼠一匹とあなどっているがいい、NO.6。
いつかお前に、滅びの歌を歌って聞かせよう。
その時になって気付くがいい。
数多の犠牲の上に成り立っていた聖都市は、数多の呪縛を受けて崩壊するのだ。
ざまあみろ。
バックミラーに遠くなる『月の雫』を睨みつけ、ネズミが冷笑を浮かべる。
―その時。あんたはどうするだろう。紫苑。
NO.6崩壊の時、あんたは何を見、何を守り、何を望もうとするだろう。
(…あんたがもし望むなら、おれが、いつかあんたを此処から連れ出す。必ず)
決意のように胸で呟く。
もっともその頃には、紫苑はもうネズミとはまったく違う未来を見ているかもしれないけれど。
「……う…っ」
サイドシートに横たわる紫苑が、ふいに小さく呻きを漏らし、身じろいだ。ネズミがはっとなり、隣を見る。
腕の出血は治まっている。どうやら、凝固阻止剤は使われなかったらしい。安堵すると同時に、自然と瞳が細められた。
気配を察したのか、紫苑が薄く瞳を開く。
運転席のネズミを見上げると、不思議そうに数度瞬いた。
「ネズミ…?」
「気がついたか?」
「うん…。あれ、もしかして、ぼくたち車に乗ってる…? きみが運転してるのか…?」
「ああ、見ての通りだ」
「へえ、すごいな。免許とか、持ってるんだ」
「まさか。この年で免許なんか持ってたら、そいつは偽造だろ、まちがいなく」
「あー、そうか。そうなるな…。あ、ってことは、もしかして、無免許…?」
「当然」
すまして答えるネズミに、瞬く間に紫苑の眉が潜められ、怪訝そうな顔になる。
「ちょ、だ、だいじょうぶ、なの? まさか、運転ははじめて、ってことは…」
「無いさ。2度めだ」
「そう、なら安心って、えええ…っ」
控えめに驚愕する紫苑に〈怪我をしていなかったら、もっと盛大に驚いただろう〉、憮然とした横顔でネズミが返す。
「いいから、あんたもう喋るな、気が散る。それに、また舌噛むぞ」
「でも、だって、この状況で黙ってろ、っていわれても…! つっ」
「どうした?」
「…舌、かんだ」
「言わんこっちゃない」
「きみの、運転が、荒っぽい、からだろ」
「こっちも必死なんだ、黙ってろ」
ハンドルを握る顔が、紫苑が見てもそうとわかるほど真剣だ。尚更こわい。
左右に揺れる車中で、紫苑がシートの上でもそもそと体勢を変え、いざという時の衝撃に備える。
車は、どうやらロストタウンのメインストリートに差し掛かっているようだった。見覚えのある風景が、窓の外を流れて行く。
どうにか運転にも慣れてきたらしいネズミが、ゆっくりと両肩の力を抜いた。ふうと一息つくと、ちらりと紫苑を見る。
「傷はどうだ? 痛まないか?」
「え、うん。さっきより大分まし、かな。というより、きみの運転が心配で、怪我してることも忘れてた」
「そんな減らず口がきけるぐらいなら、もう大丈夫だな。ここで降りるか」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ…!」
「冗談だ」
慌てて言い募る紫苑に、ネズミが不意に表情を和らげ、フ…ッと笑んだ。紫苑がそれをじっと見上げる。
「……」
「なんだよ?」
「…きみが笑ってる」
「…は?」
「良かった。うん、なんか、良かった…」
ひとりごとのように呟いて、紫苑が微笑んだ。
紫苑が撃たれた時の、ネズミの懸命の叫び、狼狽した声、顔。泣き出しそうな悔恨の瞳を、虚ろになっていく視界で間近に見た。
心で詫びた。ぼくのせいで、きみにそんな顔をさせてしまった、ごめん、と。
その瞳の陰りが今は見えない。それに安堵した。
ほっとしたようなやわらかな笑みに、ネズミもまた瞳を細めた。茶色のくせのある髪をネズミの指が掻き回す。紫苑がくすぐったそうに小さく笑い声を上げた。
が、指の関節で赤みの差した頬にふれ、ネズミがはっと瞠目した。慌てて額に掌を置く。
やはり身体が熱い。発熱している。しかも高熱だ。気丈に微笑んではいるが、これでは相当つらいはずだ。
濃灰色の瞳が苦く眇められた。
ああ、確かにおれはあんたを見くびっていた。
大した坊っちゃんだ。度胸もあるし、根性もなかなかだ。肝も据わっている。
ついていきたいと言った、その本気を見抜けなかった。決意をあっさりと退けた。
だが、その割には、心のどこかで期待していたんじゃないか? あともう少し。もう少しだけなら、一緒にいていいのでは、と。
紫苑の願いを聞くふりをして、そこに自身の願いを重ねていた。連れて行けるものなら連れて行きたいと、たぶん、そう望んでいた。
浅はかだった。
それが、結果として、あんたをこんな目に遭わせた。
仮に、このまま西ブロックに辿りつけたとしても、医者もいない、手当ても出来ない、ろくに薬も手に入らない西ブロックでは、紫苑は死んでしまうかもしれない。
NO.6ではどうといったことはない夏風邪でも、西ブロックでは命とりになる。それが現実だ。
わかっていた筈なのに。つくづく馬鹿だ。
甘ちゃんはおれの方だ。
ネズミがハンドルを握る手に、ぐっと力を込める。悔恨が胸にせり上がる。
そう甘かった。紫苑にも、自分自身にも。
紫苑の傷は、その代償だ。おれのせいだ。
唇を噛み締める。
だが、おかげで目が覚めた。

――今度こそ違えない。
おれは、あんたを全力で拒絶する。

「ネズミ…」
紫苑の熱い手が伸び、何か言いたげに、そっとネズミの膝にふれた。片手にハンドルを持ち換え、その手を包むように、ネズミが手の中で握り締める。

忘れないでいよう。
傍にこのぬくもりがあったことを。
忘れない。たぶん、死ぬまで。
忘れられない。

胸の奥が、きりきりと痛んだ。
それを打ち消すように、アクセルを踏み込む。
治安局の車が、ロストタウンの出口で待ち構えている。
ここからはカーチェイスだ。一気に突っ切る。後戻りはできない。もう突き進むしかないのだ。
「いいか、頭を下げて、しっかり掴まってろ!」
前方を睨み、ネズミが低い声で紫苑に命じる。
さらに強くアクセルを踏み込むと、車は唸りを上げて猛スピードで検問システムへと突っ込んだ。



そこからは、もう会話をしている余裕もなかった。
振り子のように左右に揺れる車の中で、紫苑はシートにしがみついているのが精一杯だった。
サイレンの音が近づく。左右から接近してくる赤いフラッシャーの光に、両側を包囲されているのだとわかった。
が、ネズミの顔は少しも焦っている様子はなかった。
「ゲートを突破するぜ」
「え…っ」
ゲートというのは、NO.6の内と外を分ける壁のゲートのことだろうか。紫苑が逡巡する。
だが、当然ながら許可証無くゲートは開かない。
突破ってどうやって?と疑問を口にする前に、上から頭をぐいと押さえつけられた。
「頭を低くして、じっとしてろよ。さもないと、首がフッ飛ぶぜ」
にやりと笑って、そんな恐ろしいことを口にする。紫苑が緊張の面持ちで身を強張らせた。
次の瞬間、強い衝撃が来た。
破壊音が耳をつんざく。
思わず、耳を押さえて叫びを上げていた。
フロントガラスが粉々に割れ、車の上半分は、降りてきたゲートの扉に引っ掛かり、ひきちぎられて後方にふっ飛んだ。キキキ――ッ…!とタイヤが摩擦で軋む音がして、車は大きくスピンすると壁に激突して何とか停止した。
ばらばらと身体の上に降ってきたガラスの破片を払いながら、シートの上で恐る恐る身を起こす。
まったく、生きているのが不思議なくらいだ。
「大丈夫か?」
「う、うん。きみこそ大丈夫?」
「ああ、何とかな」
ネズミもまた浴びたガラス片を払い落としながら、運転席で身を起こした。
途端に目線が鋭く、険しくなる。
どうやら計画通り、ゴミ処理場の内部へと入り込むことには成功したようだった。だが。
「そこまでだ」
「手こずらせてくれたな、VC」
先回りしていたらしい治安局員が、大破した車の周囲を取り囲んでいた。四方から銃口がネズミへと向けられる。
背後では、ゴォンゴォンと巨大なロウト型の処理機械が唸りを上げていた。燃料やリサイクル原料として再利用できない最終ゴミは、ここで乾燥チップになり焼却炉に送られる。機械から出た汚水は、足元のプールに溜められていた。
濁流のような音が耳に聞こえる。汚水はそれ以上処理されることもなく、一定量に達すると、ダムが放水するように西ブロックへと流されるのだ。
こんな腐臭のする水を、そのまま流すだなんて酷い。紫苑が、自分の置かれている立場を忘れ、ついそんなことを考える。
と、いきなり背後から、ぐいと乱暴に髪を鷲掴まれた。痛みに思わず悲鳴を上げる。が、構わず、シートから力まかせに引き起こされた。
抗議をする間もなく、紫苑の首筋に冷たいものが押し当てられる。びくりとする。それがナイフの刃と知って、息を飲んだ。
「降りろ」
「…ネズ、ミ」
「早くしろ!」
「…うっ」
背後から腕を強く取られ、車から引きずり下ろされる。殺気を感じた。
本気の殺意だ。
本能で感知して、紫苑がぞくりと身を震わせる。
僅かに振り返って見たネズミの表情は、すでに豹変していた。
その顔で、もしも部屋に侵入して来られていたら、紫苑といえど、たぶん恐怖を覚えただろう。そんな悪辣な形相だ。
冷たい汗が紫苑の背を伝い落ちる。
まさか、ネズミ、本気でぼくを…?
「ネ、ズ…」
「貴様…っ!」
「近づくな!」
「…っ」
人質を盾に取られ、治安局の男たちがやや後退した。
「1歩でも近づいたら、この坊っちゃんの首があんたらの足元に転がるぜ?」
片腕で紫苑の身体を拘束し、ナイフを首に突きつけたまま、ネズミが階下のプールの際までじりじりと後退する。
「残念だが、そんな脅しには乗らん」
「へえ? クロノスの坊っちゃんが人質にされてるってのに、あんたら見殺しにするんだ? 度胸あるねえ」
ネズミが強気でせせら笑う。
今の今まで一緒にいたネズミと、まるで別人のような声色と顔つきに、紫苑が混乱したように見開いた瞳を震わせた。
男の一人が、指令官らしき男に耳打ちする。にやりと嗤った。
「人質に危害を加えた場合は、貴様はこの場で射殺刑に処して良いとの許可が降りている。矯正施設へ送られることなく、ここでくたばるんだ」
「だから、馬鹿な真似はやめて、その少年をこちらへ渡せ」
もっともらしい説得に、ネズミが笑いながら両肩を持ち上げた。
「嫌だね」
「何?」
「矯正施設に行くくらいなら、此処で銃殺された方がましさ。どっちみち、献体にでもする気なんだろ、おぞましい。誰がそんな話聞くかってんだ。なあ、酷いよな? あんたからも何か言ってくれよ、坊っちゃん。命乞いでもいいぜ?」
「え、ぼ、ぼくは」
耳元で囁かれて、紫苑がびくりとする。唇が震えて何を言ったらいいかわからない。
「紫苑。きみには、こちらからも聞かねばならないことが山ほどある。VCを隠匿し、治安局への通報を怠り、その挙句に逃亡の幇助をした。これは事実かね?」
「それは…」
「どうなんだ?」
答えを今すぐ要求する空気に、紫苑がしばし逡巡し、狼狽した視線を徘徊させる。
首に当たるナイフが冷たい。
それでも決意したようにゆっくりと顔を上げ、質問した治安局員に答えた。
「はい、事実です」
震えながらも凛とした声が、処理場の壁に反響する。一瞬の緊張と静寂の後、ネズミが唐突に吹き出した。こりゃあいいと盛大に笑い声を上げる。
「はぁ? あんた、正気? というか、天然どころか本物の馬鹿なんだ」
「ネズミ…?」
「騙したままバイバイじゃ、目覚めが悪いからな。最後に教えてやるよ、お坊っちゃん」
言いながら、身体を拘束していた手を伸ばし、紫苑の細い顎を撫でる。性悪な声音で耳に囁きを落とした。
「あんたみたいな天然坊やを騙すのなんて、おれには赤ん坊の手を捻るくらい簡単だったってことさ」
「ネズミ? 何、言って…」
「大人しくここまで人質になってくれてありがとうな。なぁ、どうだった? 楽しかったろう、わくわくしただろう? あんたみたいな温室育ちの坊っちゃんには、たまらないスリルの連続だったよな? けど、もういいだろう。お遊びは終わりだ。さすがにこれ以上、あんたのお守は御免なんだよ」
「ネズミ…」
「そもそも、あんたみたいな家が裕福ってだけの退屈な坊やなんて、利用価値がなきゃ一緒にいたりしない。痛みも苦しみも、本当の不幸がどんなものだってことも知らない、自分の施しで誰かが救えると本気で信じてる、愚かで傲慢な偽善者…! 反吐が出る。なぁ、あんたわかってる? あんたはおれを助けたつもりでも、おれにとってそれは施しでしかないんだよ。あんたは自分の善意に酔って、かわいそうなVCを憐れんで匿って、自尊心を満たしたかっただけだ」
「ネズミ…ぼくは、そんな、そんなつもりで…!」
「なら、どんなつもりだったっていうんだ! あんたは、自分と同じくらいの子供が怪我をして腹をすかせて死にかけているのを見て同情したんだ! 憐れんだんだよ、違うか!?」
「違う、ぼくは、ぼくは…! きみを本当に」
「うるさい、もうあんたのきれいごとなんか聞きたくない! あんたの美辞麗句は、無意識に汚いものときれいなものを分けて蔑むんだ、おまえとは違う生き物なんだって見せつけて、見下して! その度おれがどんな気持ちだったか、あんたにわかるか!?」
「……っ!」
ナイフの刃先よりもずっと鋭い言葉の刃に切り刻まれ、紫苑の心が、身体の内側でどくどくと血を流していく。
こんな風に、言葉で人の心を殺す術もあるのだと、初めて知った。
頭の芯が麻痺している。うまく考えが巡らない。想いが言葉に纏まらない。
何を言っても、自分の言葉が突如彼に届かなくなってしまった。そう思えて、気持ちを言葉にすることが憚られる。こわい。
大きく見開かれた瞳を潤ませ、紫苑が一度ぎゅっと唇を噛み締めた。
「…知らなかった……ネズミ……きみは、そんなに、ぼくのことが、嫌い、だった…?」
涙を懸命に堪えて、震える声が、消え入りそうに弱々しく呟いた。
それでも、ネズミは容赦がなかった。
「ああ、嫌いだ。あんたといると、本当にイラつく。まったく、連れてきたはいいが、足手纏いにばっかりなりやがって。だから、嫌だと言ったんだ、あんたなんか、そもそも人質の価値もない…」
「もういいだろう、そこまでにしておけ…!」
青褪めて俯き、表情を無くす紫苑に、治安局員が同情したように助け船を出した。
そんな紫苑とネズミの背後で、ゴゥンゴゥンと音をたてていた巨大なスプリンクラーが、不意に音を止めた。溜まった汚水が一定量に達したのだ。
ネズミが不敵な笑みを浮かべる。
「そうだな。そろそろ潮時だ」
視界の端を、小ネズミが目にも止まらない速さで横切った。
「バイバイ、坊っちゃん」
「ネズミ…?」
囁かれた別れの言葉に、紫苑がはっと瞳を見開いて振り返る。
「そら、とっとと、ママのところへ帰りな…!」
ネズミが紫苑の背を力強く押すのと同時に、小ネズミが指揮官に飛びかかる。
ネズミはその隙をついて、素早く手すりを飛び越えると、下方のプールへと身を翻した。小ネズミも後に続く。
「ネズミ…!」
「逃げるぞ!」
「撃て!構わん、撃ち殺せ!!」
「待って…! よせ、やめろ、撃つな…っ!」
よろけてもたつく身体を立て直し、紫苑が一斉にネズミを狙う銃身の一つへと飛びついた。
「何をする、離せ、この…っ」
「ネズミ!!」

呼ぶ声に、プールへと落下していきながら、濃灰色の瞳が紫苑を見た。
束の間、邂逅する。
紫苑の唇が声に出さず、懸命に何ごとかを告げる。
そして、涙を浮かべながらも、ふわりと微笑んだ。
「…っ」

だが、それもほんの一瞬のことだった。
ネズミが水面に達するのとほぼ同時に、プールの底が開き、一定量に達した汚水が流されて行く。
ごうごうと音をたてて、西ブロックへ。
濁流の向こうで、紫苑の叫ぶ声が聞こえた。
名を呼んでいるようだったが、もうそれも聞こえない。
浮遊物が漂う褐色の粘りのある水の中では、もう何も考えることが出来なかった。
目も開けられず、息も出来ない。
生きることに意識を集中していなければ、あっという間に呑み込まれる。溺れてしまう。
流れに身をまかせるようにしながら泳ぐ。
ただ、泳ぎきる。
ネズミに出来ることは、後はもう、それだけだった。






出逢いが、
早過ぎたのかもしれない。
求めることに、
急ぎ過ぎたのかもしれない。
もしも、
この出逢いがもっと後であったなら。
こんな風に、
一度繋いだ手を離さずに済んだのかもしれない。





それでも。


拙いなりの、幼いなりの、
これが今の2人の精一杯だった。




せいいっぱいの愛だった――。










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