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はじまりの朝と、さよならの月夜(5)






予感はあった。
明け方、風が変わったのだ。
雨の匂いがした。
程無く、小雨がNO.6を覆うだろう。
水のベールのように。
罪も穢れもひた隠すベールのように、
聖都市を覆うだろう。



「降ってきちゃったねぇ」
シェルターを出て、丘を駆け降りながら、紫苑が空に向けて手をかざした。
ああ、と応えてネズミが灰色の空を見上げる。
ゆうべの晴れた夜空が嘘のようだ。どんよりと曇った空は、ぽつぽつと地上へと大きな雨粒を落とし始めている。
朝の人の流れに紛れる算段でいたが、さてどうする? 自問する。
何せクロノスの住人は、雨の日に傘を差してまで外を歩こうなどという酔狂なことはしない。
子供だって登校には車を使うだろう。
こうも人通りがまばらとなると、目立つ上に、治安局の連中を動きやすくしてしまう。
だが、地下は既に包囲網が張り巡らされている筈だ。そして、住民の目がないのを良いことに、容赦なく発砲してくるだろう。数日前と同じように。
小汚いドブネズミ一匹始末するくらい、何とも思っていないのだ、やつらは。
だとすると、少しでも地上にいた方が安全性は高いと言える。
雨の中、行くか。
「……」
ネズミの目が、ちろりと隣の紫苑を見た。
ひ弱そうに見えるこのクロノス育ちの坊っちゃんが、果たして雨の中走れるだろうか? 
が、すぐさま思い出した。
隣にいるのは、クロノスで唯一かもしれない『例外』だ。
雨を嫌うどころか、嵐の中、好んでずぶ濡れになって叫ぶような物好きな人間だった。
「えーと、傘、かさ、っと」
紫苑が意気楊々とリュックの中に手を突っ込み、奥底から折りたたみの傘を取り出した。
小さな傘だが、ボタン一つでサイズ調節が可能な優れモノなんだと、ゆうべリュックの中身を披露したついでに自慢していた。
つまり、一つしかないけど二人一緒でも充分入れるよ、ということだ。
パンと軽快な音がして、傘が開く。
それは、さらに、まるで羽を広げるように元の直径よりも1.5倍近く大きく開いた。
「はい、ネズミも入って」
「はぁ、冗談だろ。あんたと一緒じゃ動きにくい」
「でも濡れちゃうだろ」
「濡れる方がましだ」
「風邪ひくよ」
「まさか。あんたみたいにやわじゃない」
「何、照れてるんだよ」
「なっ、別に照れてない」
「だったらほら。IDブレスレットもしてないんだから、誰が見たってぼくら怪しいんだし。それにきみ、顔見られちゃマズイだろ。傘に隠れていった方が絶対安全だ」
得意気に言われて、ネズミがむっとする。
が、紫苑の言う通りだった。
NO.6の住人はすべてIDブレスレットの装着が義務づけられている。腕にそれがないということは、暗に外部からの侵入者であるということを意味しているのだ。
ましてや、ネズミは手配中のVCだ。治安局からのメールには、その容貌がくっきりと映し出されていた。  もし気付かれたら、閑静な住宅街はパニックに陥るだろう。面倒だ。
フンと鼻を鳴らして、ネズミが渋々紫苑が開いた空色の傘に入る。紫苑がくすりと笑むのを、忌ま忌ましげに睨みつけた。
「かせよ、おれが持ってやる」
「いいよ、ぼくの方が背が高いもん」
「変わんないだろ。あんたじゃ、いざって時に役に立たない。よこせ」
「あぁ、もう。強引なんだから」
紫苑の手から傘の柄をむしり取り、ネズミが周囲の様子を窺いつつ、丘を下った道から整備された舗道へと出る。
表情が俄に険しくなった。
明らかに当局の連中と見られる怪しげな男が、雨の中、遠巻きに点在している。僅かに生活路に出ている人たちも、善良な市民に見せかけた局員かもしれない。
無意識に紫苑を傍らに引き寄せて、ネズミが自身の行動にはっとなった。
いや、間違ってはいない。
紫苑は人質なのだ。人質は自分の身の安全のためにも、片時も傍から離してはいけない。鉄則だ。
ポケットの中のナイフを、いつでも取り出せるように一度ぐっと握る。
「それにしても、返って目立つんじゃないか、この傘の色。あんた、本当に趣味悪いな」
「うるさい、これしかないんだから仕方ないだろ」
「セーターといい、傘といい」
「セーターは沙布に貰ったんだ、って、もう、着ておいて文句言うなよ」
「あんたがこれ着ろって言ったんだろ」
「だって、ちょうどそれがベッドにあったから…」
緑の多い道を歩きながら、紫苑が唐突にはっと口をつぐんだ。
前方にある赤い傘を見つめ、瞳を凝らす。  
唇が、呟くように小さく名を呼んだ。
「…沙布」
そういえば、彼女も紫苑と同じく、雨の日は傘を差して歩きたいタイプだった。傘に当たる雨音を聞くのが好きなんだと言っていた。
雨の中、まるで誰かを待つようにゆっくりと歩く沙布の背に、紫苑が切なそうに瞳を細めた。
たぶん、同じように傘を差してくるであろう紫苑が、後から追いついてくるのを待っているのだ。
「さふ?」
ああ、このセーターの…と言いかけて、ネズミが紫苑の横顔を見る。
何を考えているのか、そんなことまではわからない。だが、今まで脳天気だった紫苑の顔が、瞳が、微かな陰りを見せていた。
ネズミが、それらから視線を逸らし、ぎゅっと拳を握り締める。改めて気付いた。
紫苑はもう、たとえネズミと別れて母の元へ戻ったとしても、元の生活には戻れない。
幼馴染みの彼女とも、二度と同じ位置に立つことはない。同じ道を歩くことはない。一度脱落したものには、2度と這い上がるチャンスを与えないのだ、この聖都市は。
隔たりを作ってしまった。
そのことが重くネズミに圧し掛かる。目を伏せた。
「……ごめん、沙布…」
紫苑が赤い傘に向かって小さく呟く。
まるで、決別の言葉のように聞こえた。
「…紫苑、あんたは」
「行こう、ネズミ」
ネズミが何が言おうとするのを遮って、紫苑が意を決したようにきっと前を向き、ネズミの腕を引く。
向かう先は、彼女の進む方向とは逆だった。
背を向けるように、道を逸れる。足早に歩き出した。
突然強さを増した雨脚に、ふいに不安げに赤い傘が振り返る。
誰かに呼ばれたような気がしたのだ。
「……紫苑?」
だけども、彼女が探し求めた姿はそこにはなく、呼ぶ声に答える者もなかった。



学校に来ない紫苑を、彼女はどう思うだろう。
心配するだろうか。
もしかすると、家を訪ねてくるかもしれない。
だとしたら、母は彼女に何と説明するだろう。
ネズミと行くということは、同時に、母は勿論、彼女とも決別するということだ。
このまま一生会えないかもしれない。
考えて、心が揺らぐ。
何一つ言葉も残さずいなくなる自分を、彼女らはどう思うだろう。
せめて何かひとこと、そう思うが、この状況下では無理な話だということも知っている。わかっている。
きゅっと唇を噛み締める。
それでも、ネズミと行く方を選びたかった。
理由は、何だろう。
これまで生きてきた全部捨ててもネズミを選ぶ、その理由は何なんだろう。
自分でもよくわからない。
ただ、その先にあるものに価値を見出しているわけではなくて。
ネズミと別れたくない。
もっと一緒にいたい。
いくら考えても、理由はそれ以外見つからなかった。



無言になってしまった紫苑を気にしながらも、ネズミはこれからのことを考えなければならなかった。
そうだ、天然坊っちゃんは利用するだけ利用したら置いていくだけだ。関係ない。気にするな。
本気でついてくるつもりでいるらしいが、地下の状況を見れば気も変わる。たぶん、入り口で鼻をつまんだまま、1歩も動けなくなるだろう。
紫苑はそこで置いていく。それでいい。
だから、気にしている場合じゃない。
廃棄ルートK0210の入り口は、多分、治安局に先回りして包囲されている。だったら。
頭の中で地図を描く。
K0210から枝分かれしている狭い通路のうちの一つを使うか。L015なら、此処から近い。
小ネズミから得た情報によれば、内部が入り組んでいてかなり狭い。大人では中腰に成らざるを得ないが、子供なら少し屈んだだけで駆け抜けられる。
K0210に合流後は、西へ移動。
さらに別の横穴を通り、森林公園の地下まで辿りついたあとは、車を奪い、ロストタウンを抜けて、ゲートを壊してゴミ処理場まで一気に走り抜ける。
車の運転は数度やっただけだが、仕組みは知っている。動かすくらい、わけない。
大丈夫だ、やれる。
ぐっと拳を握り締めた。
走り寄り、肩に乗ってきた小ネズミにその旨伝え、行けと命じる。チチ!と鳴くと、小ネズミが肩を駆け降り、伸ばしたネズミの指の先から跳び出すと、素早く脇の茂みへと姿を消した。
ややあって、ルートを確認した小ネズミが戻ってき、再びネズミの肩に駆け上がり、盛んに首を振ってチチチと鳴き、報告をする。
よし、とネズミが頷首すると、再び駆け出し、ネズミを追い抜き、茂みへと飛び込んだ。
「走るぜ」
傘を下げて顔を隠し、ネズミが紫苑の耳に囁く。
えっと驚く間もなく腕が強く引かれ、走り出したネズミに引っ張られるようにして、紫苑は道の脇へと進行方向を変えた。
強い風に、空色の傘が煽られ、宙を舞う。
だがもう、気にしている余裕はない。
あとはもう、ただ引っ張られるままに、雨の中、道なき道を走り回った。



小ネズミが見つけたきた地下の入り口は、噴水公園を取り囲む木々の中に存在した。
天気が良ければ、のんびりと犬でも連れて散歩を楽しむクロノスの住人たちに、さぞや怪しまれたことだろう。
マンホールの蓋に手を掛け、慎重に開ける。
長く使われていなかったそれは、周囲が錆びついていた。が、ネズミが渾身の力で引き上げれば、軋んだ音とともにぱくりと開いた。先に小ネズミが入り、内部の情報をネズミ知らせる。
どうやら、このルートはマークされていないらしい。
そもそも、廃棄ルートがどこにどう繋がっているかなど、治安局は勿論、保健衛生局でも把握しきれていないんだろう。
不必要なものの管理など、誰が好んでするものか、このNO.6で。
そうして、汚水はろくに処理もせず、西ブロックに流される。
汚いものは、全部壁の外に捨てればいい。
物も人も。
そうして、内側の衛生と健全が保たれれば何も問題はない、表面上は。
(…傲慢なことだ)
ネズミが忌ま忌ましげに内心で吐き捨てる。
ふと紫苑を見た。
彼もまた、NO.6を象徴するひとつだ。
無知で傲慢で、そして恐怖心もろくに知らない。
怖いもの知らずだ。
自身の夢や希望は、すべて叶えられると信じている。
思い上がっている。
「わ、この穴の大きさじゃ、リュック背負っては無理かな。先に下に落としたほうがいいかな」
「必要ない」
「え?」
「聞こえなかったか? 必要ないと言ったんだ」
ぴしゃりと言われ、紫苑がきょとんとする。
「え、でも。救急ケースも入ってるし、まだ食料も少しなら」
「残った食料は、あんたが家に帰ってから食えばいい。遠足のおやつのあまりだとでも思って」
「…どういうこと?」
「言っただろ。ここで、バイバイだ」
感情を入れずに、ネズミが告げる。紫苑の瞳が大きく見開かれた。
「ネズミ、ぼくは一緒に行くって昨日もきみに…!」
「おれとあんたは互いに相容れない、異質のものなんだ。一生かかっても理解できない、この先も道が交わることはない。だから一緒には行くことはできない」
「ネズミ…」
「あんたはあんたの行くべき道に戻るんだ。多少逸れたとはいえ、今ならまだ軌道修正が可能だろ」
「ぼくは、ぼくの行く道は、きみの進む道とも交わってると思うよ、きっと、だから…!」
「幻想だ」
「ネズミ!」
「夢見がちな坊っちゃん。冒険は終わりだ、もう充分楽しんだだろう。それで満足しろ。ここから先は『冒険』じゃない。生きるか死ぬかの本気の戦いだ。あんたじゃ戦士になれねえよ」
「きみの言いたいことはわかる、ぼくが足手まといだってことも知ってる」
「なんだ、わかってるじゃないか。だったら話は早い。これ以上おれの邪魔をするな」
「きみは一人で逃げたらいい。ぼくは勝手についていく。ゆうべもそう言った。それにまだ先は長いだろ? ゲートを突破するまで、人質がいた方がきっと逃げやすい。必要だって、きみ言ったじゃないか、だったら最後まで有効に使えよ…!」
息つぎもろくにせず、一気にまくしたてる紫苑に、ネズミが言葉を詰まらせ、怪訝そうに眉を潜ませる。
なるほど。ネズミに言われることを予測して、反論する台詞を予め用意していたのか。
まったく、何でも言葉で解決できると思っている、頭の良いお坊っちゃんはこれだから。
こんな状況下だというのに、まったく呆れる。
そして一時、言いくるめられている自分にも驚く。
だが、驚いている場合ではなかった。公園内の入り口から治安局の車が入ってきた。まずい。
「あんたは、そこでいつまでも御託を並べてたらいい」
冷たく言い放つと同時に、ネズミが紫苑に背を向け、大人がやっと通れるほどの狭いマンホールの中へと、ひらりと身を翻す。
はっと振り返り、治安局の車に気付くと、紫苑も遅れてマンホールの梯子へと足を掛けた。狭い穴にリュックが引っ掛かり、邪魔になる。投げ落とそうかとも思ったが、下が水路であることに気付くと腕に掛けた。重みでバランスを崩しそうになる。
そうして、苦労しつつも内側から蓋を閉めると、中は薄暗がりの闇に包まれた。
同時に、目や鼻を汚物の悪臭が襲う。今まで嗅いだことのない強い刺激臭に息が出来ない、目が開けられない。
目を刺すような痛みに涙が滲んだ。胸がむかつく。胃が逆流する。
梯子から、半ばずり落ちるようにして、紫苑は足元のぬかるみに降り立った。途端に、胃が押し上げられ、嘔吐感が込み上げてくる。
「…うっ」
滑った壁に手を掛け、慌てて口を押さえたが間に合わなかった。紫苑は蹲るように身体を折って、その場で激しく嘔吐した。
暗闇の中、ネズミの声がした。
「分かっただろう。あんたには無理だ」
静かな声が頭上から降ってくる。
それは蔑んでいるわけでもなく、罵っているわけでもなく。どこか哀れんでいるような、そんな声音だった。
「あんたとおれでは、住む世界が違うんだ」
その声が、紫苑に現実を突き付ける。
どれだけ求めようと、一緒にいることはできない。頭で考えても解決しない。感情だけではどうにもならない、これが現実なんだ。
「ここまでだ。あんたとは」
まるで自身に言い聞かせるようにネズミが言い、背を向ける。小ネズミが、何か言いたげに足元からネズミを見上げ、小さくチチッと鳴いた。
「ネ、ズミ…」
こんなところに置いていくのは偲びないが、やがて治安局がこの中にも踏み込んでくるだろう。発見されるまで、少しの我慢だ。ネズミが、胸で呟く。
それでも一緒に行きたいと言ってくれた紫苑の言葉は、素直に嬉しかった。
だが、もう充分だ。
「――悪かった。あんたを巻き込んだこと、すまなかったと思ってる」
背を向けたまま、噛み締めるようにネズミが言った。紫苑が荒い息を吐き出しながらも、はっと瞳を見開く。
暗がりの中、向けられたその背がやけに小さく見えた。
「待っ、て」
紫苑がぬかるみの中で、這い擦るようにして手を伸ばした。
このまま、行かせたくはなかった。
「ネ、ズミ…っ」
ネズミが、ビクリと動きを止めた。走ろうとした足首に、紫苑の指が掛かる。
力が入らないまま、それでも懸命に掴んだ。
縋るつもりはない。
待って、というつもりもない。
ただ、伝えたかった。
「ぼくはきみに、謝られることなんか、なにもない…っ! それに」
リュックを足元に捨て置き、吐き気が止まらない口を押さえながらも、紫苑がよろよろと立ち上がった。
「言っただろう。ぼくはぼくで、勝手についてくから、って。まだ、ギブアップ、なんてしてない、無理かどうか、まだわからない、だろ。あんまり、ぼくを、見くびるな…っ」
強気の発言にも関わらず、声は震えていた。膝もがくがく震えている。振り返らなくても、かなり悲惨な有り様だということは安易に予想がついた。
それで、ついてくるだって?
あんた、本当にどうかしてる。
不意に、ネズミが笑った。
だけど。そんなあんただから――。
「なるほど、よくわかった。あんたは、おれが思ってたよりずっと、負けん気が強いんだ」
「今頃、わかったの、か?」
「あぁ、わかった。だったら好きにするといい。おれはおれ、あんたはあんたで勝手にするさ」
「望むところだよ…」
今一つ迫力に欠ける声で返せば、フッと笑って、ネズミが合図のように走り出した。ついてこれるものならついてきてみろ、とそんな風に。
小ネズミが、紫苑を気にしながらも慌ててネズミを追いかける。水先案内人の役目を果たすべく、ネズミを追い越して前方に回った。
紫苑も急いで後を追う。もたついていては、この薄暗がりの中、あっという間にネズミの姿を見失ってしまう。
ぐいと口の汚れを手の甲で拭い、滑る足元にスニーカーの靴底を捕われながらも走り出す。
やがて、暗さに目が慣れてくると、縦横無尽に走る地下水路が闇の中に浮かび上がってくる。嘔吐で汚れたベストを脱ぎ捨てると、少しだけ身軽になった。
鼻も馬鹿になってしまったのか、異臭もあまり感じない。
―行ける、追いつく、絶対に。
唇を噛み締めて、前を見つめた。
ぬかるんだ通路に足を取られ、少し走っては、何度も転んだ。その度、懸命に立ち上がる。身体中が痛かった。でも休むわけにはいかない。
勝手についていくと言ったのは自分だ。ネズミは好きにすればいいと応えた。
その代わり、おれはあんたを助けない。
ついてきたいのなら自分の力で勝手についてこい、と。
だから、そうする。彼にも自分にも甘えない。
足手纏いになるとわかっているけれど、無謀だとわかってもいるけれど、それでも自分の決意から目を背けたくはなかった。
ふいに、足もとでチッと低い鳴き声がした。
小ネズミは先に行ったはずなのにと驚きながら見下ろし、さらに驚愕した。
声の主は、やはり小ネズミではなかった。
それよりもやや大きいサイズの灰色の溝鼠が、隧道の奥から続々と合流してきていたのだ。



地下の廃棄ルートは、治安局が既に包囲網を張っていた。予想に違わず、だ。
地上での移動は正解だった。
だが、クロノス居住区の入出には、ゲートでIDブレスレットを呈示して、居住権があることを証明しなければならない。ゲートを通らないためには、最終的には地下を使うしかない。
つまり、そういうことだ。
上では泳がせておいたらいい。いずれ、地下に降りるしか手はなくなる。
所詮、やつは溝鼠だ。下水道の汚物が好みなのさ。
下卑た嘲笑が聞こえてきそうだ。ネズミが皮肉げな笑みを口元に張りつかせる。
とはいえ、たかが子ネズミ一匹に大仰なことだ。
さぞや上の者は、嘆きの溜息をついていることだろう。
だがこちらも何の策も持たず、地下に降りたわけじゃない。ネズミがにやりと笑む。
もっとも策があろうがなかろうが、一度この廃棄ルートを使ったことのあるネズミの方が、重装備の局員より断然有利なことは間違いなかった。
それに何といってもあの時は、体力が既に限界値を越えていたのだ。
疲労、空腹、そして、傷の痛みと出血。
まだ走れていたのが自分でも不思議なくらいだった。

生きたい、こんなところで死ぬもんか。
そう思いながらも、意識は次第に朦朧となり、じわじわと諦めがネズミの心を侵食し始めていた。
そんな時。ふと疑念が湧いた。
果たして、生き延びて、その先にいったい何があるというのだろう…?
育ててくれた老婆は殺された。還る森は既にない。
残されたのは、西ブロックの地下室と、本と、小ネズミたち。
待つ人はいない、もう誰も。
たとえ生きることを諦めても、咎める人もいない。だったら。
もういいんじゃないか…?
もう疲れた。眠りたい。たとえ泥水の中でいい。休息が欲しかった。
たとえ、それが永遠の休息となっても構わない。
生きることをもう、このまま手放そうか…?
――出逢ったのは、そんな時だった。
窓が開いた。奇跡の窓が開いたのだ。
笑うかもしれないが、紫苑。
あんたは、死の暗闇でおれが見つけた最後の希望の光だった。

暗い隧道の中、次第に近づいてくる複数の足音を聞きながら、ネズミが笑む。
不気味に地下道を反響しながら接近している靴音に、ナイフを取り出し、走りながら臨戦体勢を取った。
間もなく、K0210に合流する。
狭い横穴から、白いコンクリート壁の広い空洞へと猛然と跳び出した。銃口が向けられる。複数の銃から一斉に発砲された。
パン、パンと連続して放たれたそれを、ネズミは素早く身を低くしてかわし、一気に駆け抜ける。ナイフがきらりと鋭く光った。銃を持った男の腕から血飛沫が上がる。
ぎゃあっと悲鳴を上げたのは、別の治安局員だった。小ネズミが目にも止まらぬ早さで戻ってくる。
チチ!とネズミの肩に登ってかん高く鳴くと、次いで、別の場所からも続々と悲鳴が上がった。
横穴から飛び出した灰色の溝鼠が、無数に白い壁を駆け上がってくる。あちらこちらで局員の悲鳴と銃声が上がり、銃弾が跳ねる音がコンクリートの壁に反響した。その中を、ネズミが駆け抜け、奪い取った銃で応戦する。
パニックに陥った局員らが救援を要請したのか、水を跳ねて近づいてくる足音がまた増やされたようだった。ネズミが舌打ちを落とす。しつこい奴らだ。
だが、あまりここで長居していては不利になる。
ネズミは行く手を塞ごうと目前で銃を構えた男に足払いを掛け、バランスを崩して倒れてきたところを鳩尾めがけ、思いきり膝をめり込ませた。男がぐわぁと呻きを漏らし、顔から汚水に落下する。
別の横穴に飛び込んだ小ネズミが逃走ルートを先導し、ネズミを呼んだ。ネズミがそれに応え、踵を返す。
が、男は、思いのほか、体勢を立て直すのが早かった。蹴り倒した男に足首をつかまれる。
「チッ…」
ああまったく。今日はやけに足を掴まれる日だ。
思いながら、だが、男の割れた額を蹴ろうとして、ネズミは一瞬躊躇した。
この靴は、紫苑のものだ。
紫苑が、ネズミにくれたものだ。
この靴をネズミに履かせるためにわざわざ追いかけてきたのだ。
その靴底が、男の流した血で汚れる。
それは、同時に紫苑の白さをも汚すような気がした。
むろん、そんな躊躇の時間は1秒にも満たなかった。だが、その瞬きほどの空白の時間が、戦いにおいては命取りになる。言われるまでもない、そんなことは身を以って知っている。が、結果として、それは僅かな隙をネズミに齏した。
溝鼠に鼻をかじられていた別の男が、その隙をついてネズミへと銃口を向ける。はっとなる。
小ネズミが素早く銃身に飛びつく。
だが、遅かった。間に合わなかった。

――パァン…!

銃声がトンネル内に響き渡った。
ネズミが大きく瞠目する。心臓の辺りがぎりっと痛んだ。

目の前を、
スローモーションのようにゆっくりと、
赤い花のように血が舞った。
紫苑が、
倒れていく。

「紫苑…?」

咄嗟に、倒れ込んできた身体を両腕に抱きとめる。紫苑を撃った男の喉元に、小ネズミが喰らいついた。それを合図に溝鼠たちも男に襲いかかった。悲鳴が反響する。
だが、ネズミの耳にはその声さえ入ってこなかった。
何も聞こえない。
一切、何も。
「紫苑……?」
腕の中でぐったりしている紫苑に、茫然と呼びかける。抱いた手が、べっとりと鮮血に滑った。
ネズミの背をぞわりと冷たいものが走る。それは恐怖と名のつくものだったかもしれない。
「紫苑! 紫苑、紫苑っ! しっかりしろ、紫苑!」
懸命に呼びかける。だが、返事はなかった。
濃灰色の瞳が限界まで見開かれる。

まさか。そんな。
そんなこと、ないよな?
このまま目を開けないなんて、
そんなこと、ないよな…?
あんたがこんなことになるなんて。
おれをかばって、まさか、あんたが。

恐慌がネズミを襲う。
小ネズミがかん高い声を上げた。はっと我に返る。
そうだ、立ち止まっている場合じゃない。
此処に留まっていては、どちらにせよ、二人とも命はない。
先ほど小ネズミが示した横穴へと、紫苑を腕に抱えて猛然と飛び込む。
穴は狭い。子供の背よりも天井は低かった。その分、大人では侵入が困難だ。入り口は、溝鼠たちが護ってくれている。
今のうちなら、少しなら。
「紫苑、しっかりしろ、目を開けろ! 紫苑…! あんた、いったいどうして…!」
「…ネ、ズミ…」
ふいに、ネズミの呼び声に青白い瞼が震え、紫苑が薄く目を開けた。
消え入りそうな声で、ネズミを呼ぶ。 
濃灰色の双眸が大きく見開かれた。
紫苑を腕に抱えたまま、婉曲する壁に凭れ、ずるずると坐り込む。
紫苑が、視点の定まらない瞳でネズミを見上げた。
「けが……して、ない…?」
「おれは大丈夫だ。怪我したのは、あんたの方だ」
言って、切なそうに唇を噛み締める。紫苑が、ほっとしたように肩で息をついた。
「よかった…」
「良くないだろ、ちっとも。なんで、あんたが…!」
悔しげに赤らむ目許に、紫苑が微笑んで、そっと指先を伸ばした。
「ぼくは、だいじょうぶ…かすった、だけ…だから……縫合、の必要も、ない、し……あ、でも、失敗。リュック……置いてきちゃ……た」
「…あんたな」
「まぁ、あっても一緒か、きみじゃ、縫合はできない、よね」
「こんな時に、何言ってんだ。本当に、天然だな、あんた…」
紫苑を腕に抱きしめて、つい涙声になるネズミに、紫苑が安心させるようと懸命に微笑んで言う。
「…あれ? 心配してくれて、るんだ? きみが、心配してくれるなんて、なんかうれしいな……でも本当、大したこと、ない。へーき」
「バカ、平気じゃないだろう!」
ネズミが怒鳴りながら、紫苑のシャツの袖を裂いて傷を見る。確かに弾は掠めただけのようだった。
シャツを引き裂き、止血のため、紫苑の腕を縛る。
傷は浅い。
だが、出血が止まらない。
腕を伝い、あとからあとから滴り落ちていく。
まさか、血液凝固阻止剤が弾に? 
考えてぞっとする。
同じ目に遭わせてしまう。二日前の自分と同じ目に。まさか、そんな。
青ざめるネズミの顔を見つめ、静かに紫苑が告げた。
「ごめん……行って」
「紫苑…?」
「行って、ネズミ」
「…っ」
意味を解して、ネズミがぐっと言葉に詰まった。
置いていけと言っているのだ。
この状況で。
いよいよ足手纏いになると知って。
馬鹿か、あんた。
今ごろ気付くくらいなら、なぜもっと早く気付かない。遅いだろ。
「ぼくは、大丈夫…」
「…あんた」
「約束だから」
「……紫苑」
「置いていって……ネズミ……」
言いながら、紫苑の瞳から涙が溢れた。
わかっている。かなしみの涙じゃない。悔しいのだ、言わなくてもわかる。
紫苑が、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「自分の力で、ついてく、っていったのに、情けない、な……」
涙が、ぽろりと頬を伝い、流れ落ちた。
それでも、紫苑は此処まで自分の力でついてきたのだ。溝鼠たちに護れと命じたが、連れてこいとは言っていない。自分の意志で、足で、暗闇の中、汚物と悪臭の中、懸命に追ってきたのだ。
「…情けなくなんかない、あんたは、充分、すごいよ。見直した」
そして、凶弾の前に、ネズミを庇って飛び出せるほど、勇敢だった。
「……ありがとう、ネズミ」
ネズミがぐっと奥歯を噛み締めた。
礼の言うのはおれの方だ。
生きることを諦めかけていたおれに、あんたは傷の手当てをしてくれて、あたたかい食事と、やわらかなベッドを与えてくれた。
温もりとやさしさをくれた。
生きる希望を与えてくれた。
誰も信じられなくなっていた、おれに。
あんただけが、教えてくれた。
人は、確かに、人に救われることがあると。
「ち、くしょう…っ!」
言うなり、紫苑を腕に抱えて立ち上がる。
これ以上は此処も危険だ。鼠たちはこの間も応戦してくれている。のんびりしている猶予はない。
「ネズ…ミ?」
「掴まれっ」
怒鳴られ、紫苑が瞳を見開かせる。
「ネズミ、ま、待って…ぼくは、置いていってって…」
腕の中で緩く抵抗して、また怒鳴られた。
「うるさい、あんたは黙っておれに掴まってろ!」
「でも…」
反論しようとする言葉に耳を貸さず、紫苑の片腕を首に無理矢理回させる。
「言っただろう、あんたはおれの大事な人質なんだよ! ここでくたばられちゃ困るんだ! おれがNO.6を無事脱出するまでは…」
「ネズ、ミ」
「あんたはおれから離れるな!!」
小ネズミが足元を駆け抜ける。銃声が近づく。
ネズミは紫苑を腕に抱きかかえたまま、狭い通路を猛然と駆け出した。








つづく
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