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きみのそばで、きみと見つめる


バザールを抜け、なだらかな丘を登り、夕日に燃える道を塒へと急ぐ。
地下室への階段が見え始めると、無意識に歩を進める速度が上がった。
熱は下がっただろうか。吐き気はどうだろう。大人しく寝ているだろうか。
(…別に、案じているわけじゃない)
心中で、自身にごちる。
朝に、熱さましの薬草を煎じて飲ませた。そのせいか、部屋を出る時、紫苑はよく眠っていた。
今もまだ眠っているかもしれない。
発熱は相変わらずだが、昨夜ほどの高熱でもないし、顔色も幾分ましになっていた。2、3日寝ていればすぐに良くなるだろう。
そもそも、ただの風邪だ。心配するほどのことじゃない。
寄生蜂にやられた時でさえ、しぶとく生き延びたやつだ。
ああ見えて、意外にタフなのだ、あいつは。
身体も、そして心も。
「……」
心、と考えて、不意にネズミの足取りが重くなる。濃灰色の瞳に陰りが落ちた。
原因は明白だ。
まったく、と舌打ちする。
(これだから、厄介だと言うんだ)
少し前までは、他人の心模様など想像したこともなかった。
どうでも良かった。考える必要もなかった。
自分一人、今日を生き延びることだけを考えればよかった。それだけで事足りた。
今思えば、気楽だった。
ところがどうだ。現状は。
投げつけた言葉に、泣き出しそうな顔をされた。たったそれだけのことで、このザマだ。
(馬鹿馬鹿しい。そもそも悪いのはあいつの方だろう。何で、おれがこうも引き摺る必要がある?)
言い過ぎたとは思っていない。間違ったことを言ったつもりもない。
此処で生きていく上での術と正論を述べたまでだ。


事の発端は、昨日の夕刻。
犬洗いの仕事からの帰り道、紫苑は川に落ちた子供を助けようと手を伸ばしたところで、逆に腕を捕まれ、川に引き込まれた。
子供は、瞬時に紫苑の上着のポケットから胴貨を盗み取ると、鮮やかに川を泳ぎきって岸に上がり、笑いながら駆けて行ってしまったという。
イヌカシがつけてくれた護衛の犬が川に飛び込んで助けてくれなければ、紫苑は今頃冷たい流れの中で溺れ死んでいたかもしれない。
風邪をひくどころの騒ぎでは、たぶん済まなかった。
それでも、紫苑を助けた後、子供を追いかけようとした犬を紫苑は止めた。
もういいんだ、追わないであげて、と。
そして、ずぶ濡れのまま、とぼとぼと地下室に戻り、ネズミにこっぴどく罵られた。というわけだ。


『ろくな力もないくせに、中途半端に他人に親切の手を伸ばそうとするのは、偽善以外の何ものでもない。ましてや、自分の身を犠牲にしようとするなど、無知で馬鹿のすることだ!』
いつまでもNO.6でのお坊っちゃんぶりが抜けない、甘い考えを捨てきれない紫苑に対し、むしょうに腹が立った。
『でも、あの銅貨で、もし今夜少しでもあの子がましなものを食べられるなら…それでもいいかなって、ぼくは』
『あんた、いったい何度言わせる気だ!? そんなぽっちの施しで、今日、腹が満たされても明日はどうなる? 一時満たされたら、その分明日の空腹がより辛くなる。そいつの明日のことまであんたが面倒見れるのか!? 飢えたことない人間のそれが傲慢だってなぜわからない!?』
『わからない、わからないけど…! でも、一時の幸せで、それが明日を生きることの力に繋がるかもしれないじゃないか…!』
『その考えが傲慢だって言うんだ!どん底の不幸を知らないお坊っちゃん、教えてやろうか。他人から奪った金をろくでなしの親に奪われ、そいつは何ひとつ口にすることができず、親ばかりが満たされ肥えて、子供は飢えて泣きながら冷たい床で丸くなって眠る。そういうところなんだよ、此処は、この西ブロックは! あんたのきれいな理想なんか、これっぽっちも通用しないんだ! 此処で生きていきたきゃ、いい加減覚えろ!』
『ネズミ…』
『あんたのそういうところ、本気で苛つく…!』
胸に込み上げてきた怒りの感情にまかせ、吐き出した。
他にも何か言ったかもしれないが、激昂のあまり、よく覚えていない。
気がつけば目の前で、紫苑がずぶ濡れのまま、項垂れていた。
はっとなり、とにかくさっさと風呂に入ってこいと促して、その後はほとんど会話のない夕食を済ませ、早めに床に入った。
隣に眠る紫苑の身体が発熱していることに気づいたのは、真夜中になってからだ。


地下室への階段を降りながら、ネズミが考える。
今思い出しても腹立たしい。腸が煮えくり返る思いだ。
だが、自分を憤らせたものは、果たして本当に、紫苑のお人好しな言動故だったのか?
自身に問い正す。
…いや。違うだろう、ネズミ。
丸1日近くが経って、冷えた頭でよくよく考えてみれば、真の怒りの矛先はそこではなかった。

紫苑の無垢な善意に付け込む、この町のすべての悪意が呪わしい。

つまりは、そういうことだ。
ネズミの口元に、皮肉げな笑みが浮かぶ。
まったく、大した過保護だ。
自分の欲の中に、まさか庇護欲というやつが存在するとは、ゆめゆめ思ってもみなかった。
呆れたように溜息を一つ落とし、今のは無意識の溜息ではないと己に言い訳しながら、扉のノブに手を掛ける。
ふと、その足元にある草の束に気付いた。屈み、手に取り、匂いを嗅ぐ。
濃灰色の瞳が驚きを映した後、フ…ッとやさしげに細められた。
鍵を開け、扉を開く。
ギッ…と軋んだ音が響き、灯りの落ちた部屋の中で、ベッドの上で丸まっていた影が微かに動いた。


「…おかえり、ネズミ」
少し掠れた声が言い、上体を起こそうと身じろぐ。
「外、寒かった? ごめん、ストーブ、いつのまにか消えちゃってる」
「ああ、いい。おれがやる。あんたは寝てろ」
起きようとするのを制し、ネズミが市場で買ってきたものをテーブルに置いて、素早くストーブに火を入れる。
燃える炎に、一瞬、部屋の中がオレンジに染まった。
ランプにも灯りを入れ、ネズミが、ベッドに横たわる紫苑を振り返る。
「具合はどうだ」
「うん、ちょっとまし…かな」
とはいえ、答える声は、まだ少しつらそうだ。
ネズミがベッドの脇に屈み、前髪を上げさせ、紫苑の額にそっと自分の額を合わせた。
こうやって熱を計るのだと、4年前、ネズミは紫苑に教わった。
「まだ、高いな」
それでも、ゆうべよりは大分下がっている。薬草が効いてきたのだろう。
「ん。でも、朝より大分楽になった。きみが薬を飲ませてくれたから」
「苦いと文句を言って、何度も顔を顰められたけどな」
「でも、全部飲んだ」
「ああ、おりこうさんだ。夕食の後、また飲ませてやる」
「うわー…」
苦さを思い出して、紫苑が顔を顰める。それがおかしくて、ネズミが小さく笑いを漏らした。
紫苑がそれを見上げ、ほっとしたような顔になる。
「…良かった」
「何だ?」
「まだ、きっと怒ってるだろうって思ってた」
「別に。おれは最初っから怒ってなんかないぜ」
「嘘だ。ぼくが馬鹿だから、きみを怒らせた」
「あんたの馬鹿さ加減にいちいち怒ってたらきりがない。おれも、そんなに暇じゃないさ」
「…ひどいな」
ふて腐れたように頬を膨らませる紫苑に、ネズミが笑いながら、ベッドの端に腰掛ける。指先がそっと、熱を帯びて赤さの目立つ、紫苑の頬の痣にふれた。
紫苑が瞳を閉じ、笑みを浮かべる。
「どうした?」
「ネズミの手、冷たい」
「あぁ、悪い」
外気ですっかり冷えていたのを思い出し、ネズミが慌てて手を引こうとする。それを紫苑の手が止めた。
「いい。このままにしてて」
「気持ちいいか?」
「うん」
大きな掌で熱を帯びた額を覆うようにしてやると、紫苑が目を閉じたまま、ふっと身体の力を抜く。ややあって、何かに気づいたようにはっとなると、泣きそうな顔で微笑んだ。
「…ごめん、ありがとう」
「ん?」
「犬洗いの仕事、代わりに行ってくれたんだ…」
しみじみ言われて、ネズミが瞠目する。そして、やれやれ参ったというように肩を竦めた。
「鼻が効くようになった。大したもんだ」
「朝のこと、ぼく、あまり覚えてないんだけど。仕事があるって、きみに言った?」
「ああ。熱があるのに、犬洗いの仕事があるからどうしても行くって、あんた大暴れしたんだ」
「うわ、ごめん…。それで、代わりに?」
「もっとも3時間で首になったぜ。あんたに比べて、仕事が荒くて大雑把すぎるとさ。それに、おれだと犬共が反抗的でやりづらくてな。まぁ、イヌカシとは本気でやり合ったこともあるからな。奴らも、いつ身体を洗うふりをしておれに皮を剥がれるかと、気が気じゃないんだろうぜ」
ネズミのふざけた言いように、紫苑が声を上げて笑いを漏らした。
寒かった部屋の中にも、ストーブの温もりがじわじわと広がっている。
紫苑の代わりに仕事に来たと仏頂面で告げたネズミを、イヌカシはあんぐりと大口を上げてしばし見つめ、その後盛大に笑いころげた。
予想できた反応だけに、ネズミはそれに一瞥をくれただけで仕事に取りかかったが、3時間でクビになったのは犬たちとの相性のせいばかりではなかった。
『…おまえ。天然坊やのことが気になるんだろう。いいから、さっさと帰ってやれ』
心此処に有らずなネズミに、ついには呆れたようにそう言うと、紫苑に見舞いだとイヌカシは1枚余分に賃金をくれた。
まあ、犬洗いの仕事から開放されたのは、ネズミにとっても犬たちにとっても幸いだったろう。
「ありがとう、ネズミ」
「礼を言われるほどのことじゃない。さあ、飯にするぞ」
照れ臭さを隠すように視線を逸らし、ネズミが立ち上がる。
スープは、昨夜の残りがあった。紫苑の食が進まなかったせいで、まだ鍋にたっぷり残っている。
ネズミは、その中に固いパンをちぎって放り込んだ。そのまま、ストーブの上でコトコトと煮込む。
ほどなくして美味しそうな香りが漂い、紫苑の空腹の胃を刺激した。
ぐうう…と腹のなる音が、静かな部屋に響き、ベッドで一緒に眠っていた小ネズミたちが驚いたように跳ね起きる。
そんなに驚かなくてもいいのにと赤面する紫苑に、ネズミがくっくっと笑いを漏らした。
紫苑の瞳が不思議そうにネズミを見る。
何だか妙に機嫌が良い。めずらしい。
ここのところ、苛立っているネズミばかり見ていたから、余計にそう思うのかもしれない。
(…苛立たせているのは、きっとぼく、なんだろうけど…)
昨夕の激昂するネズミをふいに思い出した。そっと毛布を引き上げて、表情を隠す。
怒るだろうと覚悟していた。叱られても仕方ないと思っていた。
彼の言葉は辛辣で時に乱暴だけれど、いつも真意をついていたから、返す言葉も見つからなかった。
だけど。

『あんたのそういうところ、本気で苛つく…!何もできないくせに、知識や道徳ばかり振りかざして! あぁそうだ、おれが一番嫌いなタイプの人間だ!』

瞬時、はっと息が詰まり、身体が硬直した。
『嫌い』という言葉の剣先が鋭すぎて、かわすことも出来ないまま、それは、ぐさりと紫苑の胸に突き刺さった。
自己嫌悪に陥ってる際中だっただけに、痛みはあっという間に胸いっぱいに広がった。気持ちは重く沈んだ。
何も今そんなことまで言わなくてもいいのに、と目前で向けられたネズミの背を睨めば、じんわりと悔し涙が溢れてくる。
泣いてしまうのも悔しくて、紫苑は唇を噛み締めて両の拳をぎゅっと握った。
『いいから、とっとと風呂に入れ』
冷たく命じられ、その後は、夕食の時も床についてからも、ずっと無言のままだった。心配そうにする小ネズミたちと紫苑の間で、ささやかな会話が成された程度だ。
なかなか寝付けず、身体がだるい、熱っぽいと気付いたのは、やっと眠りについてしばらく経ってからのことだった。
その後、どうやら一気に高熱に達したらしく、意識が朦朧としていたせいで、朝のことはあまりよく覚えていない。
何か喚いて暴れたことだけは、うっすらと記憶にある。
どうやら、何がなんでも仕事に行くと言い張ったようだけれど、実際のところは、そうやってネズミを困らせたかっただけなのかもしれない。
そんな子供じみた方法で、報復しようとしただなんて。
考えて、恥ずかしくなる。
「どうした?」
「えっ」
「顔が赤いぞ。熱が上がってきたんじゃないか」
「あ、いや。ちがうよ、これは」
弁解するより早く近づいてきた手に、赤らんだ頬を撫でられる。冷たい手にふれられて、紫苑の頬はますます熱を帯びた。
怒られることはしょっ中で、さすがにもう慣れてきてしまったけれど、こんな風に甘やかすようにやさしくされるのはごく稀で、おかげでちっとも慣れてはいない。
なんだか、どうしていいかちょっと困る。
思ったままの呟きが、つい口をついて出た。
「明日は、きっと雨だろうな…」
「は? 何だ、藪から棒に」
「きみがやさしい」
紫苑の言葉に、再び鍋を掻き回し始めたネズミが背を向けたまま答えた。
「おれはいつだってやさしいぜ? あんたを甘やかしてばかりいる」
「そうかな」
「そうだ。そのせいで、あんたが風邪をひいた」
「……えっ」
「馬鹿だからと侮っていた。反省している」
「どういう意味だよ、それ」
「そのままの意味だ」
「馬鹿は風邪を引かないっていうから侮ってた、ってこと?」
「なんだ、知ってるのか。せっかく教えてやろうと思ったのにな」
「それくらい、ぼくでも知ってる」
「あぁ案外賢い。いや、もともと頭は良いんだったな」
「頭でっかちって言うんだろう。知識ばっかりで実践が伴わない。何もできないくせに、知識や道徳ばかり振りかざして」
「わかってるじゃないか」
「きみの……一番嫌いな人間、なんだろ? ぼくは」
ふざけて言い合っていた筈が、ふいに語尾が震え、涙声になってしまった。
しまったと紫苑が慌てる。
別に、こんな風に言うつもりじゃなかった。
どんな人間を好きだろうが嫌いだろうが、それは彼の自由であって…。
「は?」
突然涙ぐんで言葉を詰まらせる紫苑に、ネズミが驚いたように振り返った。
「何だ、それは」
「何って、だから、きみが昨日、ぼくに」
「おれが? あんたに何か言ったか?」
「な、何かって」
ベッドの傍に近づき、いぶかしむように覗き込んで、ネズミの指が紫苑の眦に溜まった涙を拭う。
本気で驚いているような瞳に、紫苑が困惑したように瞳を瞬かせた。
「きみに、嫌いだって言われた。…あ、少し違う。きみに、嫌いなタイプの人間だって、そう言われた」
「おれが、あんたを?」
「もしかして…覚えてない?」
「覚えがないが」
あっさり言われて、紫苑が何ともいえない表情になる。
覚えてないと言うならまだしも、覚えがないと言われてはどうしようもない。
今日1日、熱に浮かされながら、ベッドの中で悶々としていたのはいったい何だったんだろう。
紫苑が脱力したように、はあと一つ溜息をつく。
昨夜は、たまたま少し心が折れかかっていて、その上体調も悪かった。だから、いつもより堪えたんだろうか。それだけのことだったんだろうか。
よくよく考えれば、その程度のことは今までも言われてきた気がする。
見かけと相反したネズミの口の悪さは、今に始まったことじゃない。
出逢った4年前のあの夜から、彼はこんな風だった。
鋭くて険しくて辛辣で粗暴で。
そして、たまにやさしい。
「…紫苑」
やや神妙な顔つきになって、ネズミが紫苑を呼んだ。ベッドの端へと腰掛ける。
「おれがあんたに何を言ったか知らないが。おれには生憎、あんたみたいなボランティア精神なんてものはこれっぽちもないからな。もしあんたが本気で嫌いで面倒だと思っているなら、どれだけ熱があろうが死にかけていようが、自分のベッドを半分譲ったりしない。それどころか、とっくに追い出してる」
「…うん」
「知識や道徳ばかり振りかざして何もしない人間は確かに嫌いだが、じゃあ、あんたはどうなんだ?」
「ぼく? ぼくが何?」
「何もしない人間なのか? そうだったか? だとしたら、昨日のことも間違っていたと後悔している筈だ。何もしないで放っておくべきだったと」
問い詰められて、紫苑が首を横に振る。
「ぼくは、間違っていたとは思ってない。でも、結果的に、きみやイヌカシに迷惑をかけた。ぼくを助けてくれた『彼』にも風邪をひかせていたかもしれない。軽率だった。それはすごく反省してる」
彼、と呼ばれて、床に寝そべっていた犬が、クゥンと鼻先を上げた。そんな心配などご無用だとそう言っているような顔に、ネズミがそら見ろと笑む。
「あんたは、方法は拙いながらも、ちゃんと動いてきただろう。ただの頭でっかちとは違う。そのことに、もっと自信を持てばいい。もっとも、おれに反論されたぐらいで怯むようなら、最初から何もするな」
「…何か、矛盾してる気もするけど」
「ああ、そうだな」
矛盾していることは、自覚している。だが、何もするなというのも、好きにやればいいというのも、どちらもネズミにとっては本心だ。複雑だが、それが真実だ。
短的に言ってしまえば、紫苑が無事ならどちらでも良い。そういうことだ。
「それに、あんたのお人好しが、気まぐれに、こんな結果を生むこともある」
言って、ネズミがぱさりと野草の束をベッドに投げた。
「これは?」
「扉の外に置いてあったぜ。森の奥で取れる薬草だ。風邪に効く」
「そうなんだ。でも、いったい誰が」
「さあな? だが、誰かがあんたのために、わざわざこれを取りに森に入ったってことは確かだろ?」
ネズミに言われ、紫苑が野草を手に取り、匂いを確かめる。
(そうか。ネズミの機嫌の良い理由は、これだったんだ…)
考えて、嬉しくなる。
ネズミが自分のことを想ってくれていたことが、たまらなく嬉しかった。
野草を届けてくれたのは、もしや、昨日のあの子だろうか。
笑いながら逃げて行ったと思ったけれど、紫苑が無事に岸に上がるのを、どこかで見ていてくれたのかもしれない。
冬のさなか、ずぶ濡れになってしまった紫苑に、少しでもその小さな胸が痛んだのなら。
それはそれで、良かったのかもしれない。
紫苑が思う。
もっとも、西ブロックではそんな痛み、返ってこの先、生きる邪魔になるのかもしれないが。
それでも、とネズミが思う。
うわべだけのものじゃない真直ぐで純粋な想いは、たまに、気まぐれに、人の心を揺り動かすこともある。
―こんな荒廃した西ブロックでも。
それを知った。
また、紫苑に教えられた。


「さあ、飯にしよう。起きられるか?」
「え、あ、うん…!」
ネズミの腕に支えられながら身を起こし、ベッドの端を椅子代わりに坐る。テーブルが近づけられ、ストーブも近くに移動した。
「寒くないか?」
「うん。平気」
「無理をするな」
言いながら、ネズミの手が、愛用の超繊維布を紫苑の肩に掛けてくれる。
「あ、ありがとう」
なんだか、やさしすぎて逆に居心地が悪いなと戸惑いながら、紫苑がストーブの上の鍋の中を首を伸ばして覗き込む。とたんに満面の笑顔になった。
「わあ、パン粥にしてくれたんだ。美味しそう…!」
紫苑のお腹は、すでに盛大に空腹を訴えている。
小ネズミたちも駆け寄って来て、紫苑の肩や膝に跳び乗った。
ネズミが木の器を取り、そこに粥を盛り付ける。歯がたたないほどの固いパンが、スープで煮込まれ、とろとろに蕩けていて、いかにも美味しそうだ。
「熱いぞ、気をつけろ」
器を渡されるなり、紫苑がわくわくと木の匙で粥を掬う。
「ん、あちっ」
が、一口食べる以前に熱さに悲鳴を上げて、粥の入った器はすぐさまネズミの手に奪われた。
「あぁもうあんたは…。寄越せ、冷ましてやる」
ネズミが一匙掬った粥にふうふうと息を吹きかけ、冷ましてくれる。
その何でもない所作がきれいで、紫苑はついぼんやりと見とれてしまう。
「何やってる。早く口を開けろ」
「へ?」
はたと気づくと、目の前に匙が差し出されていた。紫苑の瞳がそれをじっと凝視する。
「何だ」
「まさか、食べさせてくれるのか? ネズミが?」
天地がひっくり返るほど驚いて問えば、憮然とした声が返ってくる。
「あんたにやらせてたら朝までかかる」
「え、でも」
「嫌なのか? だったら良いが」
「え! いや、そんな、とんでもない!」
慌てて、紫苑がネズミの腕を掴んで、雛鳥のように大きく口を開けた。ネズミがフ…と笑むと、親鳥よろしくそこに冷ました粥を流し込む。
紫苑の口中に、まろやかな味が広がった。舌の上でパンが蕩ける。
西ブロックに来て初めて、頬が落ちそうなほどおいしいと言えるものを食べた気がした。
いや、今まで生きてきて一番かもしれない。(母さん、ごめん)
「うまいか?」
「うん、すごくおいしい…!」
きみが食べさせてくれるから余計に、と言おうと思ったが、それはやめた。
きっと照れたネズミは天の邪鬼になって、そんな調子の良いことが言えるくらい元気なら自分で食べろと、逆に匙を押し付けてくるに違いない。
思い、大人しく食べさせてもらっていれば、やけに満足げに微笑まれた。
口の端から溢れるスープを、ネズミの指が度々やさしく拭ってくれる。
なんだか、夢を見ているようだ。
「ずっと、熱が下がらないといいのに」
つい本音を漏らせば、あっという間にからっぽになった器をテーブルに戻し、ネズミがやれやれと肩を竦めた。
「冗談じゃない。この時期、熱さましの薬草を手に入れるのも一苦労なんだぜ」
「…いや。そういうことじゃないんだけど」
イヌカシにはずんで貰った金で買った葡萄の房を、二つに分けながらネズミが訊く。
「じゃあ何だ。理由は?」
「きみにやさしくしてもらえる」
片方の房を紫苑に手渡したところで、ネズミがぴたりと動きを止めた。
「…ママが恋しくなったんだろう、あんた」
「どうしてそうなるんだ。きみは母さんじゃない」
葡萄を受け取り、一つもいで、紫苑が口を尖らせる。
「当たり前だ」
その手からネズミの指が葡萄を奪い取ると、紫苑の口に放り込んだ。指先が唇にふれる。紫苑の胸がどきりと鳴った。
少しまだ固いが、種がないので食べやすい。
ネズミも同じように口に入れた。皮は薄いのでそのまま食べる。
「きみが母さんなら、こんな風にどきどきしないよ」
紫苑が、隣に坐ったネズミを見上げ、責めるように言う。
ネズミが表面上は変わりなく、内心ぎょっとしながら紫苑を見下ろした。
熱で潤んだ瞳がまっすぐにネズミを見つめている。桃色に染まった頬も、何だかやけに艶っぽい。
「あんたなぁ…」
言葉と同時に、盛大な溜息が漏らされた。
「言語能力の問題以前だ。もう少し、よく考えてからものを言え」
「うん?」
憮然として言われ、紫苑がきょとんと小首を傾ける。
やけに可愛らしいしぐさからフイと視線を逸らすと、ネズミは自分の葡萄を一つもぎ取り、再び紫苑の口へと押し込んだ。
「いいから、あんたは黙って食べてろ」
「う、うん」

テーブルの上では、同じく小ネズミたちが、じゃれるようにしながら葡萄にかじりついている。
鍋の代わりにストーブに置かれたケトルの口からは、白い湯気が細く上がり出している。
二人で並んで黙々と葡萄を食べながら、ネズミは、紫苑が西ブロックに来てからの数週間を思い返していた。

生きていく術をこの町で骨身に染みて体感しながら、それでも紫苑は、基本的には此処にきた当初と少しも変わらない。染まっていかない。
それをネズミは、心のどこかで誇らしく思っていた。
人は変わる。生活が荒めば心も荒み、物が無くなれば余裕が無くなる。
誰かを助けられる、救えるなどという甘い考えは、NO.6に住むような余裕が有る人間の驕りだ。
自分が生きることだけで精一杯のこの町では、誰だってそんな風にはいられない。
そう思っていた。
だけど、それでも紫苑は、たとえ自分の身を削ってでも、誰かを助けようとする。
罵られても、笑われても、皮肉られても、決してやめようとしない。
そうやって、目の前の人間に手を差し伸べずにはいられないのだ。
4年前の、あの嵐の夜のように。

「4年前の嵐の夜。もしも」
「…もしも?」
「あんたの部屋に飛び込んだのがおれじゃなかったとしても、あんたはやっぱり傷の手当てをして、シチューとケーキをご馳走したんだろうな」
一人言のような呟きに、紫苑がふっ…と目を閉じ、微笑を浮かべた。
情景を思い浮かべてみたのだろう。
「…そうだね。そうかもしれない。きっと、そうしたと思う」
その言葉にちくりと、ごく小さな痛みがネズミの胸を突いた。
「…あぁ」
そうだ、たぶん。侵入したのがネズミじゃなかったとしても、紫苑は助けただろう。
同じように手当てをして、同じようにケーキとシチューを振る舞い。
そして、同じように笑ったのだろうか。二人で。
手を繋いで。
「でも、あの夜出逢ったのが、もしきみじゃなかったら。4年もずっと、ぼくは想い続けてなかっただろうな…」
「…え」
ネズミが、はっと瞠目する。
「もう一度会いたいって、ずっと想ってた」
4年の想いを辿るように、紫苑が深い眼差しになる。その想いを溜めた瞳のまま、ネズミを見上げた。真直ぐに、これ以上なくまっすぐに見つめる。
「きみじゃなかったら、こんなに惹かれることもなかった。誰かを想って、心がざわついて、苦しくて泣きたくなることもあるんだって、きっと知らないままだった」
告白を終えて、緋色の瞳がしっとりと潤んで熱を帯びる。
見つめられたまま、逸らすことも出来ず、たじたじとしながらネズミが返した。

「…あんた。もしかして、また発熱してるだろう」

原因の違う熱かもしれないが。
いやむしろ、こっちの方が発熱しそうだ。
めずらしく、喜色が滲み出るのを押さえきれず、心中でネズミがごちる。
「うん、そうかも。何かふわふわしてる。あれ? もしかして、きみにも感染しちゃったかな。なんだか顔が赤いけど」
「ストーブを近づけたせいだ。よしてくれ、おれはあんたみたいにヤワじゃない」
片手をひらひらさせて、ネズミが、顔を覗き込んでくる紫苑から瞳を背ける。
「あ、でも良く考えたら」
「え?」
「あの夜の侵入者がもしきみじゃなかったら、怪我の手当てとかどうこう言う前に、ぼくは、あっさり殺されてたかもしれないんだ」
「…おい」
話題が変わったのはいいが、それこそやめてくれと真剣に思う。想像したくない。
確かに、その可能性は無きにしもあらずだが。
「きみで良かった」
紫苑がしみじみ言って、ふふっと微笑む。
あたたかな指先が、ふいにネズミの頬にふれた。熱を帯びた甘い指先。
「ぼくと出逢ってくれてありがとう。ネズミ」
「…紫苑」
見つめ、濃灰色の瞳が細められる。
無垢で純粋で真っ直ぐな好意。
だが、こういうのはおれだけにしておいてくれと切実に願う。
誰も誤解させるな、頼む。
ネズミの指が紫苑の細い顎へと伸べられた。軽く掬う。
そして、唇がそっと、一瞬だけふれ合った。
「おやすみのキスだ。そろそろ休め」
「……うん」
耳元で静かに囁かれ、はにかむように甘く笑んで、紫苑が肯く。
葡萄を食べ終えた紫苑の指先を拭い、空になった皿をテーブルに戻すと、紫苑の薄い背にネズミが掌を添える。静かに横たえた。寒くないように、肩までしっかりと毛布を掛ける。
さりげないやさしさに、紫苑がまた笑みをこぼした。
「イヌカシの天気予報じゃ、明日は午後から雨らしい。良かったな、犬洗い仕事はなしだ」
「それは良かった。これで、明日もきみに代わりに行ってもらわなくて済む」
「おいおい、おれはもう御免だ。早いとこ元気になって、あんたが行ってやれ。その方が犬共も喜ぶ」
ベッドの脇に寄せた椅子に腰かけ、ネズミが読みかけの本を手にする。
それを見て、クラバットとハムレットが、ネズミの肩へと駆け上がった。どうやら朗読をせがむ気らしい。
ツキヨは、紫苑のベッドへと潜り込んだ。
「ひさしぶりに、きみの朗読が聞きたいって」
「それは、あんたからのリクエストか?」
「ぼくと、それからクラバットとハムレット」
「大入りだな」
「頼むよ。ねっ、きみたちからも」
お願いしてよと言われ、小ネズミたちが前足を上げて、チチッ、チチッと声を上げた。やれやれとネズミが笑む。
「…陛下の仰せとあらば」
徐に本を開いて、ページを捲る。
ふと、ネズミの手が止まった。
「紫苑」
ふいに呼ばれ、紫苑が視線を上げる。
本で顔を隠すようにしながら、ネズミが言った。
「本を読む前に、言っておきたいことがある」
「何、あらたまって」
「あんたは、あんたのままでいい。器用になれないところは、おれが傍で助ける。だから」
「ネズミ…?」
「あんたは、そのままでいろ」
それだけだと言って、ネズミの手がページを捲る。しおりを挟んだところで止まった。
やや遅れて、うんと答える紫苑の声が涙でくぐもった。
ネズミは本を掲げると、『マクベス』の朗読を始める。
マクベスならすべて暗唱できる筈だが、今、本は手放せないのだろう。
そんなネズミに笑みを漏らすと、紫苑が横たわったまま、手を伸ばし、本を持たない側のネズミの手にそっとふれた。ぎゅっと握る。
ややあって、同じ強さで手が握り返されてくる。紫苑が嬉しげに微笑んだ。
あの夜も、繋いだ手から互いの想いが伝わっていた。
初めて出逢ったばかりの互いの手が、なぜだかとても大切に思えた。
誰よりもいとおしいと感じた。
それは、今も少しも変わらない。



きみのそばで、きみと見つめる明日がある限り。
ぼくは、ぼくで有り続けることができる。そう思う。
あの日からずっと、ぼくはそう思ってきたんだ。
そして、きっと、これからも、ずっと。





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