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はじまりの朝と、さよならの月夜(4)




これで良かったんだろうか…?
治安局との連絡を終え、その車を見送った後。
火藍は、リビングに戻ると、脱力したようにソファに坐り、凭れ込んだ。ひどく疲労していた。
長い1日だった。そして、夜はまだこれからが長い。
「…紫苑……」
どこにいるの。どうしているの。酷い目に遭っていたらどうしよう。怖くて泣いているんじゃないのかしら。
だけど、疲労は、息子の安否を心配する心痛とは、また別のものだった。
『ご心配なく。我々は、息子さんの身の安全を最優先にVCの確保に努めます』
治安局員は、神妙な顔で火藍にそう言った後、『場合によっては、VCは射殺しても構わない』と部下に命じた。
人質の安全を最優先に、と繰り返し続いた言葉に、なぜか火藍は強い不快感を覚えた。
VCを射殺する。
その口実を与えてしまったように感じたのだ。
どうしてだろう。
あの人たちは、息子・紫苑を犯罪者の魔の手から、確実に救出すると約束してくれている。
だのに、

『――心配するな。必ず無事返す』

背を向けた少年の言葉の方が、火藍にはずっと重みと誠実さを感じられた。
嘘は言っていない。そう思った。
紫苑とそう変わらない年頃の、こんな少年がVC? なんだか信じられなかった。
それに、言葉ほどの卑劣さも非情さも少年からは感じなかった。
それでも迷った挙句、治安局に『息子がVCの人質にされている。脅されている』と通報したのは、彼が火藍にそう告げたからだ。
治安局のやつらに伝えろ、と。
確かに彼は言った。
しばし逡巡する。
普通なら、逆じゃないだろうか? 
人質の命が惜しかったら通報するなと。黙って見逃せと、そういうべきじゃないのか。
そもそも、紫苑は治安局に疑われていた。
VCの隠匿と逃亡の幇助。自らそれに関与したのではないかと。
だが、人質として無理矢理連れ去られたのであれば、紫苑は間違いなく被害者だ。協力者ではなく、被害者である。
それを伝えろと言われた気がしたのだ。
彼は、紫苑を庇おうとしてる? まさか。
(……考えすぎかしら)
良い方向に考えすぎだろうか。判断は間違っていなかっただろうか。不安が募る。
それどころか、本当に脅されて連れていかれたのかもしれない。今まさに、酷い目に遭っているのかもしれない。
だけど、信じたかった。
一瞬だけ垣間見えた少年の灰色の瞳は、強い光を宿しながらも、ひどく穏やかに凪いでいたから。
人を愛することが出来る者の瞳だと思ったのだ。








シェルターの冷たい床で、すやすやと眠っている紫苑の髪の先に、ネズミが血の滲んだ指先をそっとふれさせる。
濃灰色の瞳が、穏やかに細められた。
そして、考える。
この感情は何だろう。
なぜ、どうしてこうまで、この少年のために懸命になっているのだろう。
不意に戒めのように、老婆のしゃがれた声が頭の隅の方で聞こえた。

よせ、ネズミ。近寄るな。
これは魔だ。
手を差し伸べてはならない。隙を見せてはいけない。
棄てろ。
今すぐ捨てろ。
この先も生き抜きたければ、捨てておけ。

(ああ、そうだ。その通りだ、お婆。わかっている)

決して荷物を背負いこんではならない。身軽でなければならない。
お婆は、そうも言った。
ならば、問いたい。今更だが。
なぜ。お婆はおれを背負って逃げた? 
おれはお婆の荷物じゃなかったか?
一人でも逃げられた。いや。一人の方がなお安全に逃げられた。その筈だ。だのに、なぜ。
誰かに託されたのだろうか。
最後の一人になった『歌う者』を護れ、と。
いつか『彼女』を鎮める歌が必要になった、その時のために。
強く生きぬく術を、この子に教えて――と。

じっと紫苑の寝顔を見つめて考えに耽っていたネズミの足もとで、ふいに小ネズミがチチ…と鳴き声を上げた。
はっとネズミが我に返る。
その眼下で、紫苑の長い睫が震え、ゆっくり持ち上がった。
丸い茶色の瞳が、きょとんと目の前のネズミを見る。見つめる。
あまりに凝視されるので、どうにも落ちつかなくなったネズミの方が、フイとバツが悪そうに視線を逸らした。
「ネズミ…!! 何それっ!」
「はっ?」
何が何それだと聞き返す暇もなく、紫苑ががばっと身を起こし、ネズミの両腕を強く掴んだ。突然のことに、ネズミがぎょっとなる。
「あー! もう何それ、何だよ、傷だらけじゃないか!!!」
「え、いや、おい」
「うわあセーターも泥だらけだし、ほつれてるし! あああ、あちこち血が出てて、もう、ひどい有り様だ!!」
盛大に嘆かれ、その言われように、ネズミがついむくれ顔になる。
ひどいのは、どっちだ。
「って、あんたな。いったい誰のために、おれがこんな…!」
言いたくないが、言いたくもなる。
が、紫苑はにべもなかった。
「そんなのいいから!」
「そんなのって、おい、紫苑」
良くない。ちっとも良くない。そんなのって何だ。
そもそも、あんたが追ってきたりしなかったら、こんな苦労などせずに済んだんだ。それを何だ。
ネズミが、心中で毒づく。
わざわざ言葉にしなかったのは、しなかったのではなく、そんな暇さえ与えられなかったせいだ。
「早く手当てしなくちゃ…!」
言いながら、自分のリュックを片手で乱暴に引き寄せる。小ネズミが紫苑の剣幕に驚いて、さっとネズミの肩に逃がれた。
それにしても、ぼくのためにこんなひどい怪我を…と泣きべそをかかれることを多少なりと想像したが〈期待したわけじゃない、断じて〉、相変わらず紫苑のリアクションは予想の斜め上をいく。
ネズミが辟易としているうちに、紫苑は再びリュックの中から救急セットを取り出すと、はいと手を差し出した。
「ほらネズミ、見せて」
「大した傷じゃない」
「わかってるよ、縫うほどの怪我はないって。でも消毒はした方がいい」
「縫うほどの怪我じゃなくて、残念だったな」
「強がり言ってないで、ほら、袖まくって」
「…あんた、おれのママかよ」
「うるさい、早く。バイ菌入っちゃったら大変だろ」
「今更だ」
「もうほんとに、ああ言えばこう言うんだから、きみは」
まるで昔からネズミを知っているかのような口調でそう言うと、救急ケースを開き、消毒液とコットンを取り出し、紫苑がてきぱきと手当てを始める。
「すっかり手馴れたな」
「きみのおかげでね」
「嫌味の言い方も板についてきた」
「それもきみのおかげだよ。ありがとう」
「へいへい、どういたしまして」
返して、ネズミが両肩を軽く竦める。
「それにしても、もうっほんとに、こんなにケガして血だらけで。ぼくのあげたセーター、台無しじゃないか。沙布にもらった誕生日プレゼントなのに、もうこんなにぼろぼろにしちゃって」
「…あーそー、悪かったよ。何なら今すぐ脱いで返すぜ」
「いいよ、今更返してなんかいらないから。きみにあげたんだし、それに」
「それに、何だよ」
「セーターより、きみがぼろぼろの方が、ぼくは」
ぶつぶつ文句を言っていた口が、そこまで言って、きゅっと真一文字に結ばれた。そのままぐっと息を止め、無言になる。
「紫苑?」
「何でもない」
「なんだ、泣いてるのか?」
「泣いてないよ、ばか!」
涙ぐんでしまいそうになるのをぐっと堪えて、目許を赤く染めた紫苑が怒鳴る。
そして、そんな自分に自分で驚いたかのようにはっとなると、慌てて口をつぐんだ。
「ごめん、怒鳴るつもりじゃなかった」
「いや、あんた、怒った顔もなかなかいけてる」
「茶化すなよ」
「褒めたつもりだが?」
「…心配、したんだ」
俯き加減に、紫苑が小さく呟くように言う。ネズミがすっと瞳を細めた。
「小ネズミと遊びながらか?」
それでも口調は変わらず、からかうように言われて紫苑がむっとなる。
「小ネズミと遊びながらだって、心配はできる」
「へえ、開き直りも覚えたんだ」
大したもんだと笑われて、ますます紫苑の頬がむくれて膨れた。
それが面白くて、怒らせると知りながらも、ネズミはついからかってしまう。無意識の照れ隠しであることには、まったく自覚なく。
そんなネズミを睨むように上目使いで見上げると、紫苑が報復のように、消毒液を含ませたガーゼをぺたん!と腕の傷口へと勢いよく押し当てた。
「てっ、おい、乱暴だな」
「この程度で大袈裟だよ」
紫苑がさらりと返して、包帯を取り出し、くるくると腕へと巻き付ける。手際がいい。
自分ならこんなにきっちりと巻けないなと思いながら、ネズミがつい紫苑の手元を見入ってしまう。 
「彼が行くなって伝えにきた。ネズミがそう言っているって」
彼と呼ばれて、小ネズミが前足を上げてチチッと鳴き、紫苑を見上げた。肩口へと駆け上がり、肯定のようにまたチチ…と鳴く。ネズミが、いぶかしむように眉を寄せた。
「言葉、理解できたのか、あんた」
「言葉…なのかな。よくわからないけど、確かにそう言ってるってわかった。だから、待つって決めたんだ。きみとも約束したしね、信じて待つって。でも」
「でも、何だよ」
「知らなかった」
「何が」
「ただ待つだけが、こんなにつらいって」
手を止め、絞り出すように言って、ぎゅっと唇を噛む。肩で小ネズミが見守る。ネズミは、一瞬詰めた息を吐き出した。予想外の言葉だった。
もっとも、紫苑の言葉はネズミにとって、ほとんどがそうだけれども。
「あんたがちょろちょろしたところで、この小ネズミほども役に立たない。此処で大人しくしてくれてて正解だ」
淡々とネズミが返す。
怒るかと思ったが、紫苑はそうだねと呟くように答えただけだった。
ネズミが、ふとその横顔を見つめる。
何か決意めいた光が、垣間見えた気がしたのだ。紫苑の瞳の中に。
「…紫苑?」
「はい、手当て終わり」
包帯を巻き終わり、先を結んでハサミで切る。問おうとするより早く、紫苑が笑みを返し、救急ケースが閉じられた。
何かはぐらかされた気分になりつつも、ネズミが『あぁ…』と肯いて返す。
「あ、そうだ。おなかすいてない?」
「は? ああ。そりゃあ」
「だよな。よし、じゃあ、晩ごはんにしよう」
笑顔で言って、紫苑がリュックの口を大きく開き、ごそごそと中を物色し始める。
ネズミが、目の前でくるくると変化する紫苑の表情に、我知らずと笑みをこぼした。
まあ、良い。こういう顔をしてくれていた方が、心がざわめかずに済む。
ネズミが、今巻かれたばかりの包帯の白さを見つめ、安堵のように瞳を細める。
そんなネズミの胸中も知らず、紫苑は広げたランチョンマットの上に、楽しげに食べ物を並べ出した。知らないうちに、ペーパートレイや紙ナプキンまで登場している。用意周到だ。
「えーと、ロールパンとハムとスライストマトとチーズと、ハッシュポテトにフライドチキンと、あとリンゴにクッキーとチョコレート…」
「あんた、何それ。本気でピクニックのつもりか?」
「とりあえず、朝ごはんの用意が冷蔵庫にあったから、母さんには悪いけど、それを拝借してタッパーに詰めてきたんだ。あ、カフェオレは、母さんが寝てからぼくが作った。飲む? ちょっと冷めてるかもしれないけど」
言って、携帯用のポットから蓋になっているカップにカフェオレを注ぎ込む。湯気が上がった。
「甘そうだな」
「ココアほどじゃないけど。はい、どうぞ」
「どうも」
一口飲んで、ネズミが息をつく。あたたかい。ちょうどよい甘さだ。
「おいしい?」
「あぁ、うまい」
「良かった」
「あんたも飲む?」
「うん、ありがとう。飲む」
カップが一つしかないため、3口ほど飲んで、紫苑の手に戻す。ネズミの唇がふれたのとほぼ同じ位置に、紫苑はそっと唇を寄せた。
ネズミがはっとし、慌てて一点を凝視していた瞳を逸らした。
(何を見てるんだ、おれは)
頬のあたりが熱く、胸の鳴る音も、なぜだかいつもより大きく聞こえた。
隣でネズミが一人赤面しているとも知らず、紫苑が、こくりとカフェオレを飲んで満足げに微笑む。その肩で、チチッと小ネズミが鳴いた。
「ん? おまえも、おなかがすいたのかい?」
葡萄色の瞳が紫苑を見つめ、チチチッと鳴く。
「わかった。ほら、チーズがあるよ。食べるだろ?」
チーズを小さな一かけにして手渡すと、小ネズミは鼻先を紫苑の頬に寄せ、嬉しそうに声を上げた。
「わ、あはは、わかったわかった、くすぐったいよ! お礼はいいから、早くお食べ」
楽しそうに笑いながら小ネズミと戯れる紫苑に、ネズミが眉を潜めてそれを見つめる。
「え、何?」
「いや。そいつ、おれ以外の人間には慣れない筈なんだがな」
「え、そうなの?」
信じられないというように、紫苑が自分の肩先にいる小ネズミの額を撫でる。小ネズミは指にじゃれるように前足を上げると、また嬉しそうにチチッと鳴いた。
「まあ、いい。とにかく腹ごしらえだ」
「うん! さあ、ぼくらも食べよう」
紫苑が、切り込みを入れたパンにスライストマトとハムを挟んでネズミに手渡す。同じように自分の分も作ると、二人同時にパンにかぶりついた。
何しろ、今朝から何も食べていないのだ。今まで空腹を忘れていられたのが不思議なくらいだ。
マットの上にセットされた食べ物は、おやつ類とりんごを残して、あっというまにたいらげてしまった。
最後のチキンを口に放り込み、油のついた指を舐める。ネズミがそうするのを見て、紫苑も同じようにした。火藍が見たら、行儀が悪いときっと笑うだろうけど。
「はぁ、おいしかった」
「あっというまに食べちまったな」
「うん。おなかすいてしね。ぼく、おなかが鳴る音って初めて聞いたよ」
「お幸せなことだ。NO.6の坊っちゃんには、人が極限の空腹に陥った時、いったいどんな行動を取るかなんて、まったく想像もつかないだろうからな」
「…どういうこと?」
「あんたは聞かない方がいい。せっかく食ったものをリバースされちゃ堪らない」
だったら言うなよ…と小さく反論して、紫苑が壁に凭れて膝を抱える。
おやつ類は、またリュックにしまい込んだ。
日もちの良い食料は、これから重宝する。少しずつ食べなければ。
「ところで、これからどうするつもり?」
同じく壁に凭れるネズミに、紫苑が尋ねる。そういえば、どこに向かうのかさえ、まだ聞いていなかった。
「いつまでも此処にいたって埒があかないからな。明日の朝、ここを出て地下水路の入り口へ向かう」
「入り口って、どこにあるんだ?」
「この丘のずっと下った辺りだ。クロノスの西の端。つまり、あんたのせいで、おれは真逆に来ちまったわけだ。登る必要のない丘を登って」
「あ、そうなんだ。ごめん」
悪びれず、さらりと詫びられて、ネズミがやれやれと両の肩を竦める。まったく責め甲斐がない。
「目的地までは、クロノスの居住区を横切ることになる。この際だから、人気の多い時間帯を選ぶつもりだ」
「クロノスの人たちが行き交う、その中に紛れて移動するのか」
「そうだ。高級居住区の住人たちを危険に晒すわけにはいかないからな。居住区内では、やつらも下手な手出しはしてこない。あんたという、大事な人質もいるしな」
「えっ」
「そうあんたは、地下水路の入り口に辿りつくまで、おれの人質になってもらう」
「だいじな、人質…」
「待て」
ネズミの顔が、一気に怪訝そうになる。
「え、何?」
「あんた、おかしいだろ。何でそこで顔を赤くする必要がある」
「え、えっ? いや、別に、そんな、ことは、ただその…!」
なんだ、そのリアクションはと指摘されて、どうやらうっとりした表情をしたらしいことは自分でも想像がついた。
紫苑が慌てて弁解する。
だけども、『大事』という言葉と、『人質』という危険で甘い匂いがするワードに反応してしまったのは間違いなかった。
真っ赤になっている場合じゃないのに。
だが、その甘い幻想も、僅かな時間で憂いに変わった。
そこまで、ということは、そこから先はない。
ネズミの言葉は、案にそういうことを含んでいる。
「そこで、あんたと分かれる」
きっぱりと宣言され、紫苑の胸はずきりと重い衝撃を受けた。
言葉が胸に突き刺さる。本当にそういうことがあるのだと、紫苑は12年間生きてきて初めて知った。
わかっている。わかっていた。
だけど。
現実として突き付けられると、あまりにもつらい。
無言になってしまった紫苑を、ネズミの濃灰色の瞳がちらりと視界の隅で窺う。
腕で自分の体を抱くようにして項垂れる紫苑に、ネズミもまた視線を落とした。
仕方が無い。
どう考えても、地下の下水道を紫苑を連れて移動することは不可能だ。まちがいないく足手纏いになる。
きれいなところでしか生きたことの無い温室育ちの坊っちゃんに、汚物と悪臭の中を走らせるなどどう考えても無理だ。
仮に下水処理場まで辿りつけたとしても、その先はもっと過酷なのだ。
いづれ別れるなら、断然、紫苑の身がより安全な方法が良い。
朝の人の流れのある時間帯なら、治安局もそうそう強引な真似は出来ないだろう。
犯罪がないと人々に信じられているこの聖都市で、まさか治安局自ら、銃を携えて子供を狙い撃つなど有り得ない。
だから。
そこで、お別れだ。
「寒いのか?」
「え。あぁ、うん」
めずらしく、やさしく声をかけられて、紫苑がはっと顔を上げる。気遣うようなネズミの声音に、無理にでも薄く微笑んでみせた。
「さすがに、夜になるとちょっと冷えるね。あ、そうだ」
言うと、リュックを引き寄せ、一番底の方へと手を差し入れる。引き出されたものに、ネズミが呆気に取られてそれを凝視した。
「やっぱり持ってきて良かった。薄手だけどあったかいんだ、このブランケット」
「あんたのリュックの中は、いったいどうなってるんだ。まさか4次元に繋がってるのか?」
「まさか。そんな魔法のリュック、あったらぼくも欲しいけど。きみ、そっち持って」
「って。まさか一緒に被れってのか。おれは必要ない」
「遠慮はいらない。一緒にくるまった方があったかいだろ。はい、持って」
「…あんた、本当強引だな」
「うん。自分でも驚いてる」
「あぁ?」
「今まで、そういうことなかったから。本当、きみといると、自分でもびっくりすることばかりだ」
しみじみと言って、紫苑が微笑む。
「きっと、誰かとそんな風に関わったことがなかったせいだろうな」
沙布の意見に微笑んで肯き、友人たちの意見にも特に反論もせず、ただ微笑んでいた。
それは違うんじゃないかと思っても、押し切る力に反発するほどの熱い気持ちもなかった。
きっと紫苑にとっては、さほど重要じゃない、言ってみればどうでもいいことだったんだろう。
そんな煮えきらない態度に付け込むように、クラスメイトの男子たちは、紫苑に面倒な係や役割を押し付けた。
それでも微笑んでいた。
別に嫌じゃなかったし、面倒だなあと少し思う程度のことだったから。断る理由も思いつかなかった。
だけど、沙布はそのことにしょっちゅう立腹して、他の男子らとやり合った。
あんたたち、ずるい、卑怯、いい加減にしろ。
だのに、紫苑はといえば、激高する沙布の後ろで、ただおろおろするだけだった。
その後、男女逆転カップルなどとからかわれたり、ひどい時はノートにいたずら書きをされたり、無視されたりもした。
もしかするとあれは、俗に言う『いじめられていた』ということなのかもしれない。
でも、正直、どうでも良かった。
その程度には、他人に無関心だったのだろう。
「あんた、やっぱり変わってるな」
渋々持たされたブランケットの端を肩に掛けて、ネズミが言う。
「そう? そうかな。そんなこと今まで言われたことないけど」
「周りの目が節穴ってことさ。あんたみたいに変わってるやつ、そうそういないだろ」
「うーん。NO.6には、ってこと?」
「NO.6以外でもだ。稀少価値だぜ」
言って、ふっと笑う。何かを思い出したらしかった。
きっとあれだ。ゆうべ台風のさなか、絶叫していた紫苑の姿を思い出したにちがいない。
紫苑は軽く赤面すると、ぷいとネズミから顔をそむけた。
そしてふと。ずっと聞いてみたかったことを口にした。
「ネズミ。きみは、いったいどこから来たんだ?」
「聞いてどうする」
隣で笑っていた顔が、急に真顔になる。
紫苑ならずとも、ネズミもまた短時間で表情がよく変わる。たぶん、本人は少しも意識していないだろうけど。
「聞いちゃマズいのか」
「別に。だが、あんたの知ったことじゃない。おれが何処から来たのか、何処に行くのか」
「ぼくには関係ない?」
「ああ、そうだ」
「でも」
「でも、何だ」
「知りたいんだ」
「は? 何だって」
「きみのことが、もっと知りたい」
頬がくっつくほどの至近距離で、紫苑のまっすぐな瞳が濃灰色の瞳を見つめる。
今まで何もかもに無関心だったことが嘘のように、紫苑のすべての関心は、今、目の前のネズミに集中していた。
心の奥底でずっと眠っていた、紫苑の好奇心が疼く。
知りたい、知りたい。どうしても知りたい。一部じゃ嫌だ。全部知りたい。
ネズミ、ぼくは、きみの全部が知りたいんだ。
それは一度覚醒してしまったら、留まることを知らなかった。
懸命なほどまっすぐに見つめてくる瞳に、表面上は淡々とネズミが返す。内心は、かなりたじろいていた。
「知ってどうする」
「ただ、知りたいんだ」
「だから、知って、それでどうするつもりだ」

「ぼくも、きみと行く」

口調は強く、きっぱりとしていた。
「――今。何て言った?」
空耳か?
再度、問う。
だが、空耳でも幻聴でもなかった。
「きみと一緒に行くことにした」
「……は?」
近くで聞こえた筈の紫苑の声が、ネズミの鼓膜を突き破って、脳内で遠くこだまする。雷鳴のようだ。
「きみをここで待つ間、ずっと考えてた。どうしたら、もっときみと一緒にいられるだろうって。でも、よく考えたら簡単なことだった。ぼくが、きみの行くところについて行けばいい」
ネズミが呆気に取られる。
驚きのあまり、嘲笑さえ出てこない。
「…あんた、正気か?」
「もちろん」
自信たっぷりな紫苑の言葉に、ひとつだけわかったことがあった。
一人で此処において行ったのは、どうやら失敗だった。
小ネズミが、その足元で肯定のようにチチッと鳴く。
ネズミは、脱力したように肩で大きく溜息をついた。
いったい何度めの溜息だろう。
お婆。おれはいったい何度、禁を破った? 内心で問う。
「おれは、まだあんたに、どこから来たのかもどこに行くのかも言っていない。なのに、よくそんなことが言えるな。さすが、NO.6育ちの人間は違う。まったくもって、無知で傲慢で鈍感…」
「西ブロック」
「え?」
「そうなんだろ? きみが向かおうとしている所」
ネズミの目が、瞬時に小ネズミをぎろりと睨みつける。小ネズミははっとなると、違う違うと反論するように声高に鳴き、頭を激しく上下させた。
「あ、彼に聞いたわけじゃないよ。ただ、きみが向かっていたルートと方角から推察して、地下の廃棄ルートを使うつもりなら、向かう先は西ブロックしかないかなと思ったんだ。もし、地下でどこかに枝分かれしたルートがあるのなら別だけど」
ネズミがやれやれと肩を落とし、頭を抱えた。これだから、頭のいいやつは厄介だ。
「なら聞くが、西ブロックがどんなところか、あんた知ってる?」
「治安がひどく悪いって聞いた。あと生活環境も劣悪だ、と」
「その通りだ。貧困と暴力が横行する町。銃の所持が許されているのは、ここNO.6じゃ狩猟クラブだけだって、あんた言ったよな。だが西ブロックじゃ、おれたちより小さい子供が銃を持ち、場合によっちゃあ、それで相手を射殺する。そうでもしなくちゃ生きていけないからだ。自分が生きるために、他人の命を奪う。生きることに貪欲なやつだけが、明日も生きられる。そんな町だ」
辛辣な言葉に、紫苑の眉がしかめられる。表情が曇る。
確かに、想像もつかない現実があるのだ、NO.6の外には。
「あんたなんか、それこそ1秒と持たずに殺されてる」
そして、ネズミの言う、それもまた現実なのだろう。
だけど。
「それでも」
きっと顔を上げる。
だからこそ、知りたいのだ。
『現実』を、この世界の本当のすがたを。
自分の目で確かめたい。ネズミの傍らで体感したい。
このNO.6が紛いものの世界なら、リアルというものがどんなものか知りたい。

「ぼくは、きみと行く。もう決めたんだ」

そこにどんな困難が生じても。危険だらけだとしても。
「たとえ、たった数秒の人生だとしても。きみと離れて、永遠を一人で生きるよりはずっといい」
赤面しそうな告白の言葉に、ネズミはあきらめたようにただ笑んだ。
「…好きにしろ」
「いいの?」
当然来ることを覚悟していた罵詈雑言は、予想外なたった一言であっさりと決着した。
やや肩透かしな反応に、紫苑が思わずきょとんとなる。
「ああ、勝手にすればいい。ただし、おれがあんたの身を守るのは、地下水路の入り口までだ。そこから先のことはおれは知らない。あんたが勝手に追ってきて転ぼうがおれを呼ぼうが、おれは顧みない。あんたを助けない。おれはおれで勝手にやる。ここまできて捕まるわけにはいかないからな」
「うん、わかってる。脱落したら、そこで置いていってくれて構わない」
「まあ、いい。あんたが『現実』ってもんを知るいい機会だ」
「どういうこと?」
「下水処理場の汚水の中を泳ぐんだぜ。顔も手足も口の中まで汚れた油やヘドロでべったべたになって、しばらく目もろくに開けられない。清潔な水しかしらないあんたにそんなことができるか?」
「それは…やってみなくちゃわからない」
「そう思うところが、お坊っちゃんなんだ」
そこまで言って、何となく察した。
本気にされていない。
ネズミは、本気にしていない。口だけだと思っている。
やってみて、どうしようもならないと知ったら諦める。そう思われている。見くびられている。
もっとも、本当にできるかどうかなんて、紫苑にさえわからないのだが。
だが、やりもしないで出来ないと尻ごみするのと、実際やってみて出来ないのは違う。
やってみせる。ネズミと一緒に、逃げきってみせる。
決意のように、ぐっと拳を握りしめる。
その腕に、昨日まで紫苑のすべてを管理していたIDブレスレットはもうない。
「紫苑、IDブレスレットのことなら心配ない、あれは」
言いかけたネズミの言葉を、紫苑は笑顔で遮った。
「あれは、もういいんだ」
もしかすると、あれがないせいでクロノスには帰れない。紫苑がそう案じているのでは、とネズミは思ったようだった。
だが、違う。ブレスレットがあろうがなかろうが、選択は変わらなかった筈だ。
「いいって、紫苑」
「取って、手首が軽くなってせいせいした。だから、もういらないんだ」
手首をぶらぶらさせて笑む。
事実、ブレスレットのなくなった腕は、手枷を外されたかのように自由だった。





「星、きれいだね」
「…ああ」
「こんなにあるんだ。星って。知らなかった」
「あんたらの生活じゃ、夜に星を見ることもままならないのか」
「夜間の外出は市の許可がいるし、夜に窓を開けると侵入者と間違われてセキュリティシステムが誤作動を起こすんだ。母さんは、それが嫌で、時々システムそのものをオフにしてた」
「なるほどな。ま、それでも、この都市で見える星空なんて、おれに言わせれば全部紛いものだ」
「どういう意味?」
「天空には、星なんて、もっと無数にあるってことさ。光をまとった街の中からじゃ、遠い光なんて見えやしない。せいぜい2等星どまりだろ」
「きみの住んでる処からなら見えるのか? もっと小さい星も」
「ああ。弱い光もはっきりとな。闇が深ければ、たとえ消え入りそうな光でも自然と目に入る」
静かに言う横顔を見つめ、ふいに紫苑が呼ぶ。
「ネズミ」
「何だ」
「手、繋いでいい?」
「なんで、手なんか繋ぐ」
「いちいち理由がいるんだな、きみは」
「はーん」
「なんだよ」
「こわいんだ?」
「えっ」
「こわくなってきたんだろ」
「え、違うよ、何を言ってるんだ、そんなわけ…!」
「じゃあ、あれだ。ママが恋しくなってきたんだ」
「それもちがうっ! もうきみは本当に」
「何だよ」
「鈍感」
「はぁ?どうい意味だ」
「もういい」
「何、怒ってんだ」
「別に。もういい、寝る」
「…へんなやつ」
「あ、でも、やっぱり手は繋ぐから。左手貸して」
「って、おい…! まったくあんた、本当に強引だな」
「うるさい、おやすみ」
強引にブランケットの中で手を繋ぎ、紫苑が壁に凭れたまま、くるりとネズミに背を向ける。
チチっと小ネズミが鳴き、ネズミではなく、紫苑の側のブランケットの内にささっと潜り込んだ。
呆気に取られている間に、僅か数分もしないうちに、やわらかな寝息が耳に聞こえてくる。
ネズミは、くくっと笑いを噛み殺した。
寝つきの良さは、超一級だ。大したもんだ。
よくぞ、こんな状況下で、しかもあたたかなベッドもやわらかな布団もない場所で眠れると感心する。
お坊っちゃん育ちのくせに、案外図太い。逞しい。
こんな神経の持ち主なら、もしや大丈夫なんじゃないか?
無意識に、ふと考えてしまい、はっとなる。
即座に打ち消した。
何が大丈夫なんだ? まったく甘いことを。
甘ちゃん坊やに触発されたか。しっかりしろ、ネズミ。
自身を心中で叱咤する。
そんな筈がないだろう。
そもそも人間が生きられる環境下じゃないあの場所で、すべてが整えられ、何不自由なく暮らしてきた紫苑が生きられるわけがない。
到着して僅か数分で、クロノスに帰りたい帰してくれと泣きつかれ、困り果てるのがオチさ。
(…それに、約束もある)
こいつの母親に。
必ず無事返すと、約束した。
約束は違えない。
それは、たった一つ。ネズミが生きる上で護ってきた、自身に課せた掟のようなものだ。
出来ない約束なら最初からしない。守る気のない約束もしない。
それが故に、今まで誰かと交わした約束は、片手の指で充分足りるほどの数だ。
だからこそ。守らねばならない。絶対に。
あの母親は、こちらの思惑通りに動くだろうか。いや、思惑などに気付かなくていい。
子が命の危険に晒されていると知ったら、誰だって助けを求める、守ろうとする。その衝動のまま行動してくれればいい。
治安局は、紫苑をVCの協力者ではなく被害者と断定し、もし万一しくじって捕らえられた時でも、紫苑だけは無罪放免、無事母親の元に帰されるだろう。
それでいい。
無論、しくじるつもりなんてない。何が何でも生き延びる。そのための逃走なのだから。

眠ってしまった紫苑の肩から、ブランケットの端がずり落ちかけている。直してやろうと、繋いだ手を離そうとすると、身じろいで、やけにかなしそうな顔をされた。
舌打ちし、紫苑の右手を自分の右手に持ち代え、自由になった左手で紫苑の肩を抱くようにしてブランケットを掛けた。
その動きに誘われるように、紫苑の身体がネズミにぐらりと凭れかかり、頬がネズミの肩へと乗せられる。
やわらかな息が、ネズミの頬を甘く掠めた。
紫苑の肩を抱くネズミの手に、ぎゅっと力が込められた。
そっと。
ためらいがちに、一瞬だけ、そっと。
唇を重ねる。
刹那の口づけに、胸の奥は切なく痛んだ。


紫苑と、もしも一緒にずっといられたら。
笑って暮らせるのだろうか。
もう一人のつめたさにうちひしがれることもなく。


いや、幻想だ
人が冷たさに打ちひしがれるときは、ぬくもりがなくなった時だ。
失ったものがあるから、その冷たさにうちひしがれる。
だったら、最初から無いほうがいい。
失うものがなければ、温もりを知ってしまわなければ。
冷たさに泣くこともない。


でももう。
手遅れじゃないのか…?


紫苑はあたたかい。
ネズミは、それを知ってしまった。
知らなかった頃にはもどれない。
しらなかったふりなんて、できない。


幻想を抱いている。
紫苑と二人で西ブロックに戻り、お婆が見つけてきたあの本だらけの部屋で、二人一緒に暮らす夢を。


手放したくない。離れたくない。ずっとこのままこうしていたい。
心の中で誰かが懸命に叫んでいる。



だが、ネズミは敢えてその声に、きつく耳を塞いだ。




西ブロックで見上げる夜の空は、空気が凛と張りつめていて澄んでいて、そこに無数の星があることを教えてくれる。
だが。
NO.6で見る夜空も、まんざらじゃない。
紫苑の体温を腕の中に抱き寄せ、髪の先にそっと口づけて、ネズミは濃灰色の双眸に星空を映した。


この空を、星のさざめきを、永遠に忘れないように――と。













(つづく)



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