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眠りにつく前に

「王妃は彼に、おまえは自分が誰にものを言っているか忘れてしまったのかいと尋ねた。ハムレットはこう返した。『ああ!忘れることができればどんなにいいことか! あなたは王妃です。そして、あなたの夫の弟の妻です。そして、私の母上です。そうでなければよかったのに』。それを聞くと王妃は、『そうかい。もしそんなに私を馬鹿にするんなら、ちゃんとおまえと話せる人をここに呼んでこよう』と言い、王がポローニアスを呼んでこようとした」
 そこまで読んで、開いたままの本を胸の上にそっと置く。紫苑は欠伸を噛み殺した。
 そして、眠そうに目をこすって、横たわった肩のあたりに留まる小ネズミに懇願する。
「…続きは明日。そろそろ寝かせてくれよ、ハムレット」
 白い小ネズミはチチッと鳴いて、微かに首を横に振ったようだった。紫苑が、溜息をついて苦笑を浮かべる。
「ええっ、まだ読むのか。さすがに、もう勘弁。続きは明日必ず読んでやるから。な?」
 なだめるように葡萄色の小さな目の間を指先で撫でられ、ハムレットと呼ばれた小ネズミは、チチッと鳴いて本棚の上へと退いた。
 どうやら聞き分けてくれたらしい。紫苑は微笑を浮かべると、ベッドの上ではあ…と一つ息を漏らし、目を閉じた。
 今日は一日、イヌカシの所で犬洗いの仕事をした。おかげで、くたくただ。もっとも、心地よい疲労感ではあったけれど。
「それで?」
「ん?」
 すぐ隣から発せられた声に、紫苑が薄目を開く。紫苑の好きな美しく甘いテノール。
「あんた。いつまでここにいる気だ」
「ここって?」
「読書が終わったんなら、自分の寝床にとっとと戻れ」
 言って、きれいな顎で古びたソファを差し示す。
 声は良いが口は悪い。力河の言うことは確かに当たっている。
「眠いんだ」
「だから、眠いなら」
「今日はここで寝る」
「って、あんたなあ…!」
「いいじゃないか、ネズミ」
「ちっとも良くない。狭い。そもそも、俺のベッドまで来て、わざわざ本を読むことはないだろう、あんたも」
「君も本を読んでいたから」
「それが理由か」
「君の隣に寝そべって、僕も本を読んでみたくなったんだ」
 その言葉に、ネズミがいまいましげに眉間に皺を寄せた。
「迷惑だ」
「一人で読みたかったのか?」
「当たり前だ。気が散る。あんたのへたくそな朗読のおかげで、俺の貴重な読書タイムが台無しだ」
 憮然とした横顔に、それを見上げて紫苑がくすっと笑んだ。
「聞いてたんだ」
「こんな真横で読まれたら嫌でも聞こえる」
「うるさかった?」
「当然」
「でも、やめろって言わなかった」
「あ?」
「嫌ならやめろって怒るだろ。ネズミ」
 屈託無く言われて、ネズミが呆れたように溜息をつく。
「…で? それと、あんたが俺のベッドから立ち退かない理由とどんな関係がある?」
「同じかなって」
「は?」
「だから、ここで寝る。おやすみ」
「ちょ、待て、おい、紫苑」
 だから今、怒っているだろう。何がどう同じなんだまったく。だが、意義を唱える言葉の前に、慌てたような間抜けな声を返してしまった。
 怒鳴るタイミングを逃して、ネズミの眉間の皺がますます深くなる。
「もう今日はくたくたなんだ。動くの、かったるい」
「すぐ目の前のソファまでだろうが。3歩もあれば充分だ」
「その3歩が面倒なんだ」
「どれだけ怠け者なんだ、あんた」
「君が抱いて運んでくれるならいいけど」
「…あのな」
 心底呆れたような顔に、くすくすと肩をすくめて紫苑が笑う。ネズミがその顔にフンとそっぽを向いて、吐き捨てた。
「馬鹿馬鹿しい。どうして俺があんたにそこまでサービスする必要がある」
「うん。そうだね」
 他愛もない言葉遊び。戯れ。
 心地よい穏やかな空気が部屋を満たしている。ストーブの明かりにも似たあたたかい、それ。
 二人のやりとりを書棚の上で見守っていた小ネズミたちが、声を潜めて小さくチチッと囁き合った。
 パチパチとストーブの火のはぜる音だけが、静かな部屋に響いている。
 憮然としながらも、再び枕の上で本を開いたネズミの肘に、紫苑が頭を寄せていく。本に没頭し始めたのか、ネズミはもう何も言わなかった。
 とろりと半分に閉じかけていた紫苑の瞼が、睡魔との戦いに負けてゆっくりと閉じていく。
 ややあって、薄く開いた唇から寝息がこぼれた。
(……わずか一秒で爆睡とは。器用だな)
 傍らで、早くもくうくうと可愛い寝息を立て始めた紫苑に、ネズミが我知らずと笑みを漏らす。
 見下ろせば、そこに子供のような紫苑の寝顔がある。ネズミは、濃灰色の双眸をやさしく細めた。

 4年前の嵐の夜を思い出す。
 この4年の間に、何度も何度も思い返した。
 あの夜。そして、嵐が明けた朝。
 はっと眠りから覚めたネズミの隣で、紫苑はこんな風に安らかな寝息をたてていた。それはもう驚くほど無防備に。
 呆気に取られた。
 紫苑ではなく、自分自身に、だ。
 生きた人間の傍らで安眠を貪ったことなど、かつて記憶にすらない。
 そんなネズミが、出会ったばかりの他人の体温の傍らで、泥のように眠りに落ちた。夢も見ないほど深く。
 逃亡と怪我のため、極度の疲労状態だったことを差し引いても、在り得ないことだった。

 読みかけの本を閉じ、そっと腕を伸ばしてテーブルに置いた。紫苑の胸の上にある本も取り上げ、同じようにする。
 紫苑を起こさないように細心の注意を払っている自身になど、まるで気づきもせず。
 そうして、枕に肘をつき、身体を横にして紫苑の寝顔を見遣った。
(本当に子供みたいに無防備に眠るんだな、あんた…)
 年齢よりも幼く見える童顔は、眠っているとますます幼く、あの夜とそう大して変わらない気がする。
(なかなかの間抜け面だ)
 見つめて、くっくっと喉元でネズミが笑った。
 ストーブのオレンジの炎が映り込み、紫苑の輪郭をそっとなぞる。
 やわらかな面立ち、やわらかな髪、やわらかな頬。
 やわらかそうな唇。
(……)
 光沢のあるきれいな白い髪をそっと撫で、頬の赤い痣を親指の腹で辿って、額にかかる前髪を指先でそっと上げさせる。
 滑らかな額に唇を寄せた。それから頬に一つ。
 薄く開いた唇にも、掠めるように一つ。
 ママの代わりに、おやすみのキスを。
「良い夢を。……紫苑」
 囁き、一度離れ、もう一度、啄むように口づける。
(…これは、ママの代わりじゃないからな)
「…ん………ネズミ………」
 紫苑が夢の中で幸せそうにその名を呟くと、ころりと身体を返し、甘えるようにネズミの胸へと額を寄せた。
 薄い紫苑の背を抱き寄せ、ネズミもまたゆっくりと目を閉じる。
 腕の中の紫苑のいとしい体温は、あの夜とはまた違う安らかで幸福な眠りに、瞬く間にネズミをも誘っていった。



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