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きみに逢いたかった

◆「きみの夢を見たんだ」の続きで、ネズミ視点になります。アニメ最終回後設定。
アニメの方の最終回後の紫苑は、ネズミがもう戻ってこないんじゃないかとどこかで思っていて、自分から探しに行ったりするんじゃないかなと漠然と思っていました。
(原作のネズミは、再会を約束したからきっと帰ってくるよと思ってた)
最終回を見た後にどんな形の再会をするのかなと考えた時、このお話で書いたのが一番最初に思い浮かんだシーンでした。
また番外編のようなお話も書けたら良いなあ。
◆BGMにNオト・インティライミさんの「愛してた」http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=k-120328-304を聴きながら書きました。切ない…。この曲、歌詞がネズミ過ぎてもう…。
「きみに逢いたかった」もよい曲ですよね…!泣ける…!



















NO.2から砂漠地帯へ出て、半日と少し。
太陽が照りつける広大な砂地を、布を被って身体を覆い、ラクダの背に揺られて移動する。
近くに見えるようで案外遠い砂漠の町は、その昔ながらの移動手段にどうやら問題があるようだった。


「よう、イヴじゃないか。しばらく顔を見なかったな」
「どこに行ってたんだ。急にいなくなっちまったから、踊り子たちが心配してたぜ。もうあんたが帰って来ないんじゃないかってな」
市場に入るなり、顔見知りの店主らから声をかけられた。
それに短く応じながら、いつも通り口数少なく、両側に店の立ち並ぶ通路を進んで行く。
埃っぽい市場。喧騒。活気。
思えば、懐かしい風景だ。
ここは、かつての西ブロックの市場とよく似ている。
もっとも治安の悪さと品物の粗悪さでは、西ブロックの右に出るものはないが。
それでも、決して裕福ではないこの町の奔放さは、あの町と共通するものがあった。
そのせいか、ここを歩くときはいつも紫苑のことを思い出す。
よく一緒に歩いた。主に食材の調達に。
最初こそ、おっかなびっくり、先を行くネズミの背を追うように早足で歩いていた紫苑だったが、すぐに馴染んで、やがて顔を覚えた店主らと談笑するまでになった。
案外逞しい。
口や態度には出さずとも、実はひそかに感心していた。
ひょろっとした、育ちの良いNO.6のお坊っちゃんが。
なかなかやるじゃないか。
が、そのくせ値切るだのの交渉ごとはちっとも上達しなかった。
おまけしてやるよと上乗せしてもらうのは得意だったが、それがかびたパンや茶色に変色した野菜やら、そんなものばかりだったから、ネズミはあんた馬鹿かとしょっちゅう呆れなければならなかった。
それでも、紫苑は満足そうだった。
歯が折れそうな固いパンでも、腐りかけのベーコンでも、気にせず美味しいと笑って食していた。
今にして思えば、清潔な聖都市で育ったNO.6の坊やが、よくあそこまで西ブロックの生活に順応できたものだ。不思議で仕方が無い。
それだけあいつが変わり者だった、とそういうことなのだろう。
世界中を旅して回っても、あんなやつはそうそういない。

いや、たぶんどこにもいない。
紫苑のような、特別な存在は。

西ブロックの荒んだ人や凶暴な犬たちまでを魅了した、あのやわらかであたたかい笑みを想い出す。
「あれ、イヴじゃねえか。帰ってたんだ」
「ああ」
マーケットの外れで露店を開いていた雑貨屋の若い男が、顔を上げてネズミを見た。
年齢はわからない。まだ少年なのかもしれない。
広げた敷物の上には、指輪や髪飾りやブレスレットが所狭しとごちゃごちゃと並べられている。
父親がそこいら中を旅して集めてきた雑貨や布を、彼はこうしてせっせと売りさばいているのだ。
幼い頃からそうして生きてきたせいか、客扱いはうまい。
頭から被った茶色の布の隙間から、肩までの黒髪と黒い瞳を覗かせている。
どこかイヌカシを彷彿とさせるその容貌や口調は、ネズミに愛着を感じさせた。
普段は口が重く、口数も少ないネズミが、この町で唯一仕事以外で自ら言葉を交わす相手だ。
「いつ帰ったんだ?」
「さっきだ」
「へえ。えらく長く滞在してたんじゃねえか。その間、可愛い子ちゃんとしっぽり良いことしてきたのかい」
ひやかすように笑う少年に、淡々とネズミが応える。
「NO.6にいたのは一晩きりだ。帰りにNO.2に立ち寄って金を作っていた」
「なんだそりゃあ、もったいない。だから帰りが遅かったってのか」
「そういうことだ」
風が吹き、砂埃が市場の通りを舞っていく。
布でそれを遮りながら、雑貨屋の少年が片目を瞑り、ネズミを見た。
感情をほとんど映すことのなかった濃灰色の瞳が、青い空の下でどこか切なげに見える。
黒い瞳が、その心中を探るように数度瞬いた。
「…イヴ、おまえ」
「対のやつがあっただろう。あれを売ってくれ」
少年の言葉を遮って、ネズミが言う。少年が首を傾げた。
「対の? あぁ、お前さんに売った赤い線の入ったリングのことか」
「あぁ」
頷首するネズミに、少年が先立ってのことを思い出す。
ネズミが所望した指輪は、実は最初からペアリングとして値がついていた。
が、ネズミはその一つだけを売ってくれと持ちかけたのだ。
生憎だがバラ売りはしていないと断る少年に、ネズミは、どうせそんな高値じゃ売れ残るさ、一つでも金に換えておいた方が利口だぜと、得意の口八丁で持ちかけた。
結果として交渉は成立したが、ネズミはそれと引き換えに、毎日パン一個と水だけの食事で2週間を過ごさなければならなかった。
大都市であるNO.2とは違い、貧しい砂漠の町で、ジプシーの踊り子たちの輪の中で歌うだけでは、さして収入にはならなかったからだ。
だが、後悔はしていない。
―あんたなら、きっと同じことを思うだろうな。
ふと、考える。
偶然、この露店で指輪を見つけた時も、すぐに紫苑の顔が浮かんだ。
上品な白銀。そこに捲きつくような赤く細いライン。囁くように小さく記された愛の言葉。
かつてこの地に栄えた王国で、砂漠の民が使っていた古い文字で記されたそれは、直訳すればいたってシンプルな愛の告白になる。
『 きみを 永遠に ぼくは 愛しつづける 』
もっと深く読み解けば、至上の愛の誓いだとか、様々な意味も含まれているのだろうけれど。
そこまでは、学者でもなければ理解不能だ。この町の人間でさえ、今はもう知り得ない。
一方的に、そんな告白を紫苑に届けたくなったのは、衝動からだろうか。
NO.6を離れて3年。
離れれば離れるほど、時間が経てば経つほど、自分の中の紫苑の存在は大きくなる一方で。
忘れるどころか、日々、何を見ても誰といても紫苑を恋しく感じた。
正直、自分の中にそこまでの情があるとは知らなかった。ここまで想いが深いとは気付いてなかった。
別れたあの時は、まだ。
もっとも、それを自覚をしたところでどうなるわけもなく、ただ、気持ちを持て余した。
無理をしてでも高価な指輪を手に入れようとしたのは、NO.6に帰る理由が欲しかったからかもしれない。
長居をするつもりはなかった。
顔を見られれば、それでよかった。一方的な再会で良かったのだ。
真夜中にこっそり部屋に侵入して、顔を見て、寝顔にキスを一つ残して、あとは指輪を置いて立ち去るだけ。
指輪のメッセージは、気付かれなくて良い。
3年前、二度と会わない決意で紫苑を、NO.6を離れた。
だから。
想いを直接伝える気はなかった。
ただ、それでも。
遠く離れた空の下で、今もあんたを想っていると、忘れてなんかないと、その想いだけは残していきたかった。

傍にいることはできなくても、おれはいつだってあんただけを想っている。
あんたひとりを想い続ける。

それが、紫苑にとって糧になるのか、それとも枷になるのかはわからないが。
せめて支えになればいいと思った。


「残念だが、それはもう無いぜ」
返された答えに、、計らずとも、自分の内を見透かされたような気がして、ネズミがはっとなる。
現実に引き戻されるように、顔を上げた。
一緒に旅をしてきた小ネズミが、超繊維布から顔を出して耳元でチチッと鳴く。
「何だって?」
「おまえさんのご所望の指輪、実はついさっき売れちまったんだ」
「…本当か?」
睨むように瞳を鋭く剣呑とさせるネズミに、少年がおいおいと僅かに後退さった。今にも首をナイフでかっ裂かれそうな殺気を感じたのだ。
「別に、嘘を吐いてさらに高値をふっかけようとか、そんなことは思っちゃいないぜ。他のやつならともかく、お前さんにそんなことはしない」
「…」
「売れたのは本当だ。ここじゃあまり見ない容貌だったからな、旅人じゃねえか。土産にでもするつもりなんだろう」
土産? それにしては高価過ぎるが。
ネズミが、両の双眸を眇める。
が、無いものは仕方がない。
1歩遅かった。
縁がなかったということだ。
せっかくNO.2の劇場で金を稼いできたというのに、徒労に終わったか。
失意はあるが、まあ、致し方ない。
もともと自分用にと思っただけだ。紫苑に贈ったのと同じものを、誓いの証のように自分も持っていたかった。それだけのことだ。まるで、少女の恋だ。
「そうか。邪魔をしたな」
気付かれないように自虐の嘆め息を一つ落とし、踵を返す。
もう用は済んだ。
「あ、おい、イヴ…!」
待てよ、似たようなのでよければ…!と、背に少年の声が続く。
だが、似たりよったりなものを求める気はなかった。
紫苑に似た容貌には、旅の途中に何人か出逢ったが、あの宝石のように強く輝く内面には、まったく出逢うことはなかった。

当然だ。
誰ひとり、似た者などいない。
紫苑は、この世で、たったひとりしかいない。


市場を出て、砂塵の中、ジプシーらが棲むテントの集落へと向かう。
そろそろ仕事の時間だ。
昼間はテント小屋で、夕刻は噴水広場で歌と踊りを披露する。
娯楽の少ないこの町では、1日の仕事の終わりに人々が集い、露店の店で食事や酒を調達して、陽気に歌や踊りに酔いしれるのだ。
テントに足を1歩踏みいれるなり、着替えをしていた踊り子たちから歓声が起こった。
口々にイヴの名を呼び、叫び、駆け寄り、抱きつき、キスの雨を降らせる。
どこに行ってたの、もう帰ってこないと思ってた、さびしかったわ。
そんな言葉を聞きながら、ネズミは淡々とそれに薄い微笑を返して応え、歓迎を軽くかわし、テントの奥へと急ぐ。
服を脱ぐと、自分の衣装へと袖を通した。
帰着を歓迎されることは悪くはなかった。むしろ、安堵さえ感じる。
だが、同時にささやかな違和感をも齏した。
それが、かえってネズミに実感させる。

本当に還りつくべき場所は、此処ではない。

「イヴ、またあなたの素敵な歌が聞けるのね」
踊り子の一人が、着替えを手伝いながら、感慨深げにそう言った。
それには答えず、衣装を纏い、髪を下ろして、テントを出る。
夕刻の渇いた風に、長く伸びた髪が靡いた。
オレンジの空の下、曲が流れる。
軽やかな足取りで噴水広場の中央に出ると、既に集まっていた多くの客から歓声が湧いた。
口々にイヴの名を呼び、坐っていた者たちは椅子から立ち上がって拍手をおくる。
皆、ずっとあなたを待っていたのよ、と、近くにいた踊り子が嬉しげに耳打ちした。
軽く一礼する。
そして、はじまりを告げるタンバリンが鳴り響いた。
盛大な拍手が起きる。
イヴの歌う恋の歌に合わせ、美しい衣装の踊り子たちが一斉にその周りで踊り出した。


切ない戯曲の一節を歌い上げながら、ネズミが、この町よりずっと春の訪れの遅いNO.6に思いを馳せる。
星も凍るような、冷たい真夜中の大気を思い出した。
あれはまだ、つい3週間前のことだ。

一大決心をして、買ったばかりのリングを手に、この町からNO.6へと旅立った。
それでも道中、迷いはつきなかった。
男が指輪なんかを貰って、果たして嬉しいものだろうか。
しかも、一方的なプロミスリング。いわば、感情の押しつけだ。
それでも。
あんたに持っててもらいたい。そう思ってしまった。その感情は止められなかった。
会うつもりは、毛頭なかった。
そっと置いてくるだけで良かった。
あわよくば、あんたの寝顔を見て、やわらかな髪にそっと唇でふれられたら、もうそれだけで。
たまらなく至福だろうと、想像した。
本当に、それだけで良かったんだ。


星のきれいな夜だった。
流星群が、NO.6の夜空を、涙のように流れていた。


そんな寒空の下。
そっと忍びこんだベランダで、あんたは、肩を震わせて泣いていた。
ひどく淋しげに、つらそうに、全身をふるわせて。

あんたが、おれの名を呼ぶのを聞いた。
かなしげな、消え入りそうな声で、なつかしいあんたの声がおれを呼んだんだ。



――たまらなかった。



会わずに去ろうと決めていた誓いなど、一瞬で霧散した。
そっと近づき、背後から目隠しをする。
突然の侵入者に目隠しをされても、あんたは、あの嵐の夜と同じく、抗うことをしなかった。
声を発することもなく、気配さえ消して接近したのに、あんたにはそれがおれだとわかったのか?
はっと細い肩がわななき、掌の中で、見開かれた大きな瞳が新たな涙を流すのがわかった。
『ネズミ…』
呼ぶ声がふるえる。
いとおしさに、胸がはり裂けそうだった。
息がつまり、ただ背中から強く狂おしく抱きしめる。
頭上で、星が瞬いて流れた。



泣きじゃくる紫苑を抱きしめ、なだめて、2人で星を見上げ、少し話をした。
とりとめもない話だった。
イヌカシがどうとか、火藍は元気だとか、力河のおっさんが相変わらずだとか。
聞きたいことはもっとあった。話したいことも。
だが、紫苑が今こうしておれの腕の中にいる。
それ以上に大事なことなど、この世に存在しない。
大げさかもしれないが、あの時、おれは本気でそう思った。



腕の中で眠ってしまった紫苑の、無防備に預けてくる身体の重みと体温がいとしくて、いとしくて。
それを再び手放すことが、たまらなく、つらかった。
空が明るい茜色になるまで、やわらかな髪を撫で続け、ほのかに赤みのさす頬に、額に、瞼に、鼻筋に、薄く開いた唇に、何度も何度もキスをした。
そうして、紫苑の身体を腕に抱き上げ、部屋に入り、ベッドへと横たえる。
白い手をそっと掬い上げ、左の薬指に指輪をはめた。その上から、誓いのように口づける。
自然と一筋、涙が頬を伝った。


そうか。おれはこんなにも、あんたのことが好きなんだな。


一目、顔を見られればそれでよかった。
だが。
一度声を聞いたら、見つめられたら、ふれてしまったら。
もう二度と忘れられなくなると、痛いほど知っていた。



あんたにはわからない。
大事すぎて近づけない。



3年前。おれはあんたから奪うばかりだった。
沙布。
彼女のように、あんたに与えることができなかった。
何ひとつ、あたえてやることができなかった。
今も、悔やむ。
悔やんでいる。



だったらぼくは、きみに何を与えられただろう。
きみに何を与えることができたんだろう。
きみは、それを教えてさえくれない。
だのに、きみは。


紫苑の言葉が、ふいに遠くから耳に聞こえた気がした。






曲が終わり、拍手喝采が湧き起こり、はっと我に返った。
広場は、歓声と興奮と鳴りやまない拍手に包まれていた。
「イヴ…! 今夜の歌は特に素晴らしかった! 凄く切ない恋情が込められていて、わたしたちまで泣きそうになってしまったわ…!」
客と同じく、高揚した顔と口調で踊り子たちが集い、イヴの歌を絶賛した。
客の拍手はまだ鳴りやまない。
チップを入れる籠は、あっというまに金貨や紙幣でいっぱいになった。
今夜の売上は、きっと過去最高だろう。
ふっ…とネズミが笑みを浮かべる。
そうして、滝のように湧くアンコールの声に、優雅に一礼をして、踵を返した。



まだ広場では、踊り子たちが舞っている。
そして、イヴの歌を求める声も続いていた。
が、それを背に受けながら、ネズミは奥のテントでイヴの衣装を脱ぎ捨てた。
着替えを終え、髪を1つに纏め上げると、テントの裏の酒樽の上に腰かけ、空を仰ぐ。
夕暮れの空は、いつのまにか深い赤紫になり、星の瞬きが見え始めていた。
一番近くに見える小さな星に、ゆっくりと手を差し伸ばす。

あたたかな光を放つ、小さな赤い星。
まるで紫苑のようだ。

NO.6を遠く離れて、旅をして。
だけども、どこに行っても誰といても、思い出すのはあんたのことばかりだった。
ちゃんと食っているか、眠れているか。
今日も、あの無邪気な笑顔で過ごせているか。
泣いて悔しがる日もあるだろうか。

あの夜の涙の理由は何だったのだろう。
ふるえて泣くほど、つらいことがあったのか。
聞けばよかった。
『苦しいことがあるのなら、教えて欲しい。きみのことがもっと知りたい』
いつかのあんたの言葉が、今になって理解できる。

忘れるな。
どこにいても、どれだけ離れてても、おれはあんたの味方だ。
今も、あんただけの味方でいる。



「イヴ」
幼い声が、ふいに背後から聞こえた。振り返る。
小さな少女が、はにかむような笑顔でそこにいた。
「やあ、お嬢さん。どうしたんだ?」
「今日のおうた、すごくよかった。いつもすてきだけど、きょうのはさらにカクベツだったわ、っておねえさんたちもそう言ってた」
「それは光栄だな」
小さなファンに目を細めてそう返せば、頬を染めた少女が背中に隠していた造花を、もじもじしながら差し出した。
「おれに?」
こくんと頷く。
「本物のお花はこの町では売ってないから、おねえさんがつくってくれたの」
差し出された小さな紫の花を受け取り、イヴの顔でネズミが微笑む。
「ありがとう。きれいだな」
「これであってる?」
少女が首を傾けるようにして、イヴの顔を覗き込んで笑む。
「え?」
「イヴは、しおんの花が好きだって。前に言っていたでしょう?」
無邪気な笑顔で言う少女に、ネズミがはっとなる。
そうして一度目を伏せ、微笑みを浮かべると、ああそうだよと肯いて、小さな手を掬い上げ、やわらかな甲にそっとキスをした。
「ありがとう、お嬢さん」
「ううん。じゃあね、イヴ! またおうた聞かせてね! もうどこにもいかないでね!」
キスに頬をバラ色に染め、少女が満面の笑みを浮かべて、手を振りながら、逃げるように走り去って行く。
その後ろ姿を見送って、ネズミが手渡された小さな紫の花に視線を落とした。
自然と、ふっと笑みがこぼれる。
可憐な花びらに、いとおしげに唇を寄せた。





「知らなかった。きみ、紫苑の花が好きだったんだ」





背後からかけられた言葉に、近づいてきた人影に、ネズミがはっと瞠目する。
幻聴か。
いや、それにしては。
まさかという思いで、振り返った。
人影が、少し離れたテントの影で立ち止まる。
濃灰色の瞳が、さらに大きく瞠目した。
まさか、と唇が、声のないまま勝手に呟く。
瞳を見開いたまま、茫然と、ネズミが腰かけていた酒樽から立ち上がった。
名を呼ぼうにも、声が出ない。
驚愕の眼差しを向けられて、灰色の布を頭から被った少年が、ゆっくりとそれをずらし、ネズミを見つめて微笑んだ。
月明かりの下、白銀のように光る美しい白い髪が風に靡いた。


これは、夢か。
もしくは、蜃気楼が見せる幻影か。


限界まで、さらに目を見瞠る。
少年が近づいてくる。
声も発することができないまま、ネズミが固唾を呑んだ。


ただ、ただ驚くばかりのネズミに、少年は少し困ったような、はにかむような微笑みを浮かべた。
「…来ちゃった」
言って、両方の肩を竦める。
その愛らしいしぐさに、それでも笑みを返す余裕もなく、ネズミがただ立ち尽くす。
まるで魂を抜かれたかのように、接近してくる緋色の大きな瞳を見つめ返した。
「…ネズミ?」
あまりの反応のなさに、やや不安げに少年が呼ぶ。
それにはっと我に返ったように、ネズミがゆっくりと瞬きをした。

(紫苑……紫苑なのか……?)

心の中で、呟きが落とされる。
思考は、その瞬間まで完全に停止していた。
とりあえずは、そこに立つのが夢やまぼろしではない、本物の紫苑だということを、ネズミはまず確かめねばならなかった。
夢に見たのだ、何度も何度も。これまでにも。
夢の中で微笑む紫苑を抱きしめようとして、掻き抱こうとして、懸命に手を伸ばす。
だが、掴まえたと思った瞬間。その姿は砂となり、腕を擦り抜け、風に散っていく。
ああ、また夢か。
おれは、また、あんたのまぼろしを見ていたのか。
そんな絶望感を、もう幾度となく味わった。だから。

怖じるようにゆっくりとネズミの腕が広げられ、紫苑に向かって差し伸べられる。
紫苑がはっとそれを見ると、涙を堪えるように唇を噛み締め、猛然と駆け出した。勢いのまま、首へ飛びつく。
「ネズミ…!!」
「紫苑…っ」
むしゃぶりつくようにしがみついてくる身体を、ネズミがしっかりと腕に抱きとめる。瞳はまだ見開いたままだった。
「会いたかった! 会いたかったよ、ネズミ…! ずっときみが恋しかった…!」
涙声が、ネズミの耳元で告げる。
甘くやさしく透き通った声。
聞き間違えるわけがない。

紫苑。
これは、紫苑だ。

まだ信じられない想いで、ネズミが震える紫苑の身体を掻き抱いた。
骨を折ってしまわないかと危惧するほど、強く激しく。
痛みさえ伴うだろう強い抱擁に、だが、腕の中の紫苑は幸福そうに涙ぐみながら微笑んだ。
「あんた、どうして…」
問うネズミの声が上擦る。
その腕の中で、紫苑が逞しい肩口に頬を寄せ、問い返した。
「きみこそ、どうして」
あの夜、逢いにきてくれた…?
そればかりじゃない、聞きたいことは山のようにあった。話したいことも。
ここまでの旅のことも、ネズミのこれまでの旅のことも。
だが、やはり。
互いの温度が今腕の中にある、現状はもうそれだけで。
すべて後回しで良いとさえ思った。
「ネズミ、ぼくにも」
「…えっ」
「ぼくにも、きみを抱きしめさせてくれ」
目許を上気させ、紫苑が腕をネズミの背に回そうと藻掻かせる。あまりに強く抱き竦められているため、腕の自由が効かないのだ。
「ここまで追いかけてきたんだ。ぼくには、きみを抱きしめる権利がある…!」
必死の形相で言う紫苑に、不意に何だかおかしくなり、ネズミがやっとフ…と笑みを浮かべた。

権利、か。あんたらしい。
変わってないな、そういうとこ。

だが、口をついて出た第一声は、心とは裏腹の、相変わらずひねくれたものだった。
「追ってきてくれなんて、頼んでないぜ?」
つれないネズミの一言に、紫苑がむっと真一文字に唇を結ぶ。
ますます目許が赤くなる。
「…ずっと待ってた。ぼくは、ずっときみを待ってたんだ…! きみがNO.6に帰ってくるのを信じて、待ってた。でも、きみは…!」

本当は、帰ってくるつもりはなかったんだろう?

続く筈の言葉は、つらすぎて、切なすぎて、途切れてしまう。
「きみは…」
言いかけて、ネズミの背で、紫苑がぐっと拳を握り締めた。
ぽろりと、涙が瞳を溢れる。
それを慌てて拳で拭って、ネズミから視線を逸らすと、くすんと子供のように鼻を鳴らした。
同時に、堪えきれない涙がぽろぽろと瞳からこぼれ、頬を流れる。
ネズミの腕の中で、紫苑の細い身体が、しゃくり上げて震え出した。
「紫苑…おい…」
「だって…」
「…泣くな」
「だって、きみが…」
あまりにつれないから。
「泣くなんて、あんたは卑怯だ…」
心底、困ったようにネズミがごちる。涙に濡れる頬を、そっと掌で包んだ。
「ぼくが…? どうして…?」
問う唇と声が小刻みに震える。潤んだ瞳がネズミを見上げた。


あんたはいつもそうだ。
無自覚に、おれをためす。
あんたを、放っておけなくさせる。


「きみの決意を知ってた。だから、あれは夢だって思い込もうとした。けど、やっぱり、駄目だった…。夢じゃなく、現実にしたい。そう思って、決めて、きみを追いかけてきたんだ」
「…あんたのそういうとこ、ちっとも変わってないな」
ネズミの迷いも戸惑いも、自覚無く、見抜いてしまう。真直ぐな決意で打ち砕いてしまう。
胸の内で、ネズミが苦笑を漏らす。
だからこそ、今も変わらず惹かれている。惹かれ続ける。これからも。
「…相変わらず、あんたにはかなわない」
「…え?」
眩しそうにそう告げるネズミを、赤い瞳で紫苑が見上げる。
なだめるように、ネズミがそっと涙の粒が溜まる紫苑の眦に唇を寄せた。
やさしく涙を吸い取られて、紫苑の両の頬が真っ赤に染まる。
純な反応に、ネズミが含み笑いを漏らし、真っ赤になった鼻梁にもキスを落とした。自然と紫苑の口許が緩む。
「それにしても、驚いたな。どうして、あんた。おれが此処にいるとわかった?」
「あの夜。きみの身体から、砂の匂いがしたんだ」
「砂?」
「うん。風の匂いと砂塵の匂いがした。あと…嗅いだことのない動物の匂いと。あ、もしかして、あれ、ラクダだったのかな?」
「凄いな。あんた、イヌカシ並に鼻が効くんだ」
感心したように、呆れたように、ネズミが言う。
「茶化すなよ。それに、これ。きみがくれた指輪」
しっかりと左の薬指にはめられた指輪を、紫苑が月明かりにかざす。
リングの真ん中を走る細く赤いラインが、まるで、運命の人と自分とを繋ぐ糸のようだ。
「裏に文字が綴られてた。これって大昔、この地で栄えた砂漠の王国で使っていた文字だよね?」
「たったそれだけのヒントで、ここまで来たってのか? 相変わらず無茶苦茶だな、あんたは」
「でもちゃんと辿り付いた。そんなに無茶苦茶でもなかっただろ?」
「さあ、それはわからないぜ。いつまでも、おれがこの町に留まっているなんて保証はどこにもないからな。あんたが辿りついた頃には、既に別の町に旅立った後だった可能性も大有りだったわけだ。ったく、後先考えずだな。自分の無謀さにちょっとは気付け」
「きみに会うためなら、後先なんて考えてられない。それに、考えるより先に動けって、ぼくに教えたのはきみだ」
「記憶力も変わらず健在だ。口は、前より達者におなりになったようですがね、陛下」
呆れきったように肩を竦めて、ネズミが返した。
肝心なところで芝居口調ではぐらかす、そんなところは、ネズミこそ相変わらずだと紫苑が思う。
「じゃあ、きみは」
「ん?」
「きみは、どうなんだ?」
「おれ?」
「きみはどう変わった? 気持ちとか変化した? それとも相変わらず?」
ぼくばかり自分を曝け出しているようで狡いと、澄んだ瞳がまっすぐに濃灰色の瞳を覗き込む。ネズミが、フイとそれから目線を逸らした。
こんな瞳に見つめられることは、紫苑と別れて以来、一度もなかった。
そのせいか、何だかいたたまれない。
それが照れ臭さなのだと自覚することもなく、気まずそうにネズミが顔を逸らしたまま、返す。
「さあ。自分じゃわからない。あんたが確認しろ」
何気なく告げた言葉に、なぜかふわりと嬉しげに笑むと、紫苑は、うんわかった、そうするよと頷いた。
そして、ふと何かと思い出したように、そうだと呟き、肩に掛けていた鞄の中を探り出す。
取り出されたのは、赤い光沢のある小さな布袋だった。
「はい。これ、きみの分」
「…えっ」
半ば強引に手渡され、ネズミの顔が、見覚えのある布袋に微かに引き攣った。
そんなことにはまるで頓着なく、紫苑がはにかむように頬を染め、微笑む。
「それ、ペアリングだったんだ。裏に、同じ文章が刻まれてた」
嫌な予感の的中に、袋の中身を取り出し、ネズミが参った、やられたというような苦笑を浮かべた。
片手で頭を抱えるようにしながら、くくっと笑いを堪える。
なるほど。こういうことだったのか。
そういえば、旅人が買って行ったと雑貨屋の男は言っていた。
でたらめじゃなかった、というわけだ。

「…そうか、あんただったのか」

「え、何が?」
「…いや」
なぜか笑いの止まらないネズミを不思議そうにきょとんと見つめ、紫苑がネズミの手から指輪を取り上げ、裏側の文字を確認する。
「うん。やっぱり同じだ。ぼくのと同じ文が刻まれてる」
「ああ、そいつは、古い戯曲の一節だ」
「そうらしいね。これを売ってた雑貨屋の少年が教えてくれた。遠くに恋人を残したまま、旅の途中の砂漠で息絶えた男が、鳥になって、風になって、光になって、星になって、恋人に想いを伝えにいくって、そういう物語なんだって? どこにいてもどんなふうになっても、たとえこの世にもういなくても、『ぼくはきみを永遠に愛し続ける』。」
「…ああ」
頷きながらも、ネズミが内心で舌打つ。
まったく、口の軽い男だ。余計なことまで喋りやがって。
解読不可能な古い文字だと思ったからこそ、てらいなく贈れたものを。
しかし、町の人間ならいざ知らず、旅の者には警戒を露にする少年が、まさかそんな話までして聞かせるとは。
呆れると同時に、感心する。
人も動物もあっさり懐柔する、紫苑マジックは今も健在なのだ。
「でも、ぼくは、指輪から伝え聞く言葉じゃなくて、きみの口から、きみの声で聞きたいんだ」
きみの想いを。
「聞かせて欲しい」
「そのために遠路はるばる、か」
大した物好きだ。
ネズミが、やれやれと嘆息を漏らす。
「そうだ」
言って強く肯き、紫苑が、また例の真直ぐな瞳を上げる。
だが、瞳の奥は、強い光とは裏腹に、不安を映し、縋るように懇願していた。

だから。無碍にしないで。
はぐらかさないで。
ありのままの気持ちを、どうか聞かせて、と。

ネズミが瞳を細め、泣き出しそうな頼りなげな面持ちになる紫苑を見つめ、か細い肩に手を掛ける。
会わないうちにまた痩せた薄い身体を、そのまま、そっと引き寄せた。
耳に唇を寄せる。

「…」

愛の囁きは秘めやかに。
紫苑の耳にだけに届くトーンと声音で、密かに、おごそかに告げられた。
紫苑の瞳が大きく見開かれ、頬が染まり、再び涙が溢れ出す。
ネズミが、照れたように、困ったように笑んだ。
「言っただろう。泣くなんて狡いぜ。あんたに泣かれると、おれは…」
そこで言葉を切って、一つ息をつく。
「どうしていいか、わからなくなる」
「ネズミ…」
紫苑が両手を伸べて、ネズミの肩にふれた。首根に甘えるように頬を寄せる。
「…ありがとう」
想いが届いたことに安堵の表情を浮かべ、紫苑が息をついて目を閉じた。
「違うぜ、紫苑」
「ん…?」
「礼の言うのは、おれだ」
ネズミが両の腕で、紫苑の背をあたたかく抱き包み、笑む。
そして、目を閉じ、胸に迫る万感の思いを込めて、そっと囁いた。
「―ありがとう、紫苑」






気がつけば、宴は終わり、広場は夜の静けさに包まれていた。
空には月。そして、満点の星空があった。
西ブロックから見た空に似ている。見上げ、紫苑がしみじみ懐かしむ。
今では、NO.6でもきれいな自然の星空が見えるようになったけれど、それでも灯りの少ない西ブロックから見た星の数とは比較にならない。
この町も同じだ。
空にはこんなに星があるんだ、と思い知らされる。
今まで見たことのないような星座が、紫苑の頭上できらめいている。
NO.6を出て、随分遠くまで来てしまったけれど、思い切って休暇を取って旅に出てみて本当によかった。
揃いの指輪をネズミの指にはめ、紫苑が頬を染めて、満足げな笑みを浮かべる。
「けど、良かった。対のリングがまだ残ってて。プロミスリングなのに、ぼくだけが持ってて相手がいないなんて、逆に淋しい」
指輪のある自分の手を見つめ、嬉しそうに紫苑が言う。
「しかし、あんた。よく見つけたな。あんな市場の外れの寂れた店で」
「通りがかったのは、偶然だったんだけどね。指輪も、本当にたまたま目に入ったんだ」
直感というやつだろうか。
それとも、もともと対の指輪が、互いに呼び合ったのだろうか。
それにしたって、凄い高確率だ。
もっとも、紫苑ならわかる。在り得る。そんな気がする。
ひとまず、紫苑が同じ指輪をしていることを、雑貨屋にばれなかったのは幸いだった。
〈それも時間の問題のような気もするけれど〉
「とはいえ、おれがさんざん働いて苦労して買ったってのに、あっさりポンと買えちまうなんざ、金持ちはちがうね」
皮肉っぽく言われ、紫苑がむっと口を尖らせる。
「ばかにするな。ぼくだって毎日死ぬほど働いてる。ただ、お金の使い道がなくて溜まってただけなんだ」
それも、この旅でかなり浪費したけれど。
そのうえ、指輪の値がびっくりするほど破格だったので。
財布の中身は、かなり淋しいことになってしまった。
旅人だからと法外な値をふっかけられたのかと思い、値切ろうとしたけれど、刻まれた言葉の由来まで聞かされて、結局、紫苑は交渉のタイミングを失った。
だけども、よく見てみれば、こういうものに疎い紫苑にさえわかるほど物は良かった。
銅貨でもおつりがくるような子供の玩具とは、明らかに違っていたのだ。
「あ。でも、この指輪を買ったら、懐がかなり淋しくなっちゃって。実は、帰りの旅費が足りなくなっちゃったんだ」
「は…?」
「だから、しばらく、この町でアルバイトでもして、お金溜めようかなって」
「―はあ!?」
ちっとも困っていない顔で、にっこりと紫苑が言う。ネズミの眉が剣呑と寄せられた。半目になる。
「ちょっと待て、紫苑」
「うん? どうかした?」
「どうかした、じゃない! あんた…わざとぎりぎりの旅費、いや、片道の旅費だけ持ってここまで来ただろう!」
「えっ、まさか」
「嘘をつくな」
ぐいと襟首を掴まれ、詰めよらせて、紫苑が降参というように両手を上げる。
確かに、指輪という予定外の出費はあったけれど、旅費にあてる予定の金は、ネズミの指摘通り、片道分しか用意してこなかった。
「…だって、せっかく来たのに。少しでも、きみのそばにいたいじゃないか」
「あのなあ、紫苑」
ふて腐れたような物言いに、ネズミが頭を抱えて、苛ついたように嘆息を漏らす。
それこそ、無事逢えなかったら、いったいどうするつもりだったのだ。
そんな紫苑の肩に、ふいにどこからやってきたのか、小さな生き物が駈け寄ってきて、ぴょこんと跳び乗った。チチ…と可愛いらしい鳴き声を上げて、紫苑の頬に鼻先を擦り寄せる。
「クラバット…!! うわあ久し振り、元気そうだね!」
「ちょっ、聞いてるのか!? おい、紫苑…!」
「うるさいなあ、聞いてるってば! ねえ、クラバット、久し振りに再会したのに、相変わらずお前のご主人さまは怒鳴ってばかりだよねー」
「あんたがおれを怒鳴らせてるんだろ!」
「はいはい、ぼくが悪かったよ。きみに迷惑はかけないから、安心してくれ」
「そういう問題じゃないだろう! ったく、あんたわかってるのか? ここじゃ、犬洗いの仕事はないぜ?」
「わかってるよ。それに、別に犬じゃなくったって、ラクダだってお皿だって洗える」
「ラクダと皿を一緒にするな!」
真剣にがなるネズミと、ふと間近で視線を合わせて、紫苑がなんだか急におかしくなり、ぷぷっと吹き出した。
こんな風に喧嘩腰で言い合うのも、物凄く久し振りだ。懐かしい。
西ブロックで一緒に暮らしていた頃は、ともかく毎日、よくネズミに怒鳴られた。
だんだんと紫苑も言い返すようになって、喧嘩みたいになったこともあったけれど、食事の時間になれば、自然といつも通りの2人になった。
そんな毎日が、ひどく愛おしかった。
くすくすと笑う紫苑に、笑いごとじゃない、まったくあんたはと愚痴りつつも、ネズミもまたつられたように、口許に笑みを浮かべた。
2人で顔を見合わせ、笑い合う。
胸の内にあたたかさが広がっていく。
ネズミが、穏やかに瞳を細めた。
「なんだか不思議だな」
「うん? 何が?」
「おれの手の届くところで、あんたが笑ってる」
「うん。きみも」
しみじみ言って、互いに見つめる。

ずっと会いたいと焦がれていた。
胸の中で、いつのまにか狂おしいほど想いが募って、離れていた3年の月日は、ただ、苦しかった。
再会する甘い夢を見ては、目覚めの絶望感に、つらく苛まれた日々だった。
そんな風に、夢の中まで求め続けた恋しい存在が、今、すぐ傍にいる。
手の届く距離に。

「…これは夢か?」
ネズミが手を伸べ、掌で紫苑の頬を包みこんだ。親指の腹で赤い痣を撫でる。
くすぐったそうに両の肩を持ち上げ、紫苑が微笑み、その手にそっと自分の手を添えた。
「ちがうよ、ネズミ」
首を横に振り、やわらかな笑みで否定する。
「夢は、終わったんだ」
ためいきのように告げて、紫苑が瞳を伏せる。
「…そうだな。夢は終わった」
言葉を継いで、紫苑の顎に、ネズミの指が掛けられる。上向かせる。
別れの日と、同じく。
静かに、唇が重なった。
想いを重ねるように、ぬくもりを重ねるように、そっと。
夢の終わりを告げるキスを。


そう。
これが、ここからが。



「――ぼくたちの、現実(リアル)だ――」



誓いの言葉のように唱えれば。
どちらからともなく繋いだ手の中で、薬指のリングがふれ合う。
永遠を紡ぐ、澄んだ厳かな音をたてた。







終わり
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きみの夢を見たんだ

ピクシブにアップした後、サイトにもアップしたはずなのに、なぜか下書きのままでした(涙)
気づくのに、一週間もかかるってどうなの?;;

…大変失礼いたしました。
アニメ最終話後のお話です。よかったら読んでやってくださいませv
(ネズミ視点のお話もぼちぼち書いております)
6巻のドラマCDの内容がややネタバレとなってますのでご注意くださいませ。













冬の真夜中のベランダは、息まで凍りつくようだった。
その隅に毛布を被って坐り込み、紫苑は夜空を見上げ、ただ時を待っていた。
今宵は明け方流星群が見られると、職場の昼休みに偶然耳にしたニュースで知った。
流星群なんて、今まで興味はあっても、見ようという気にもならなかったけれど。
どうせ、眠れないのだ。
ならば、明け方までベッドの中で欝々と寝返りをうつより、NO.6では滅多に見られることのない天体ショーを堪能する方が断然良い。そう考えた。


凍てつく冬の空を見上げ、熱いココアを冷えた胃に流し込む。
白い湯気と紫苑の息が、夜の大気に溶け込んでいく。
ココアの甘さが、少し胸に切なかった。


それにしても、星を見るなんて、いったいどれぐらい振りだろう。
西ブロックで、はじめて夜の道をネズミと歩いた時、空に広がる星々のあまりの多さに驚いて、ぽかんと大口をあけて天を仰いでいたら。
とんでもないばかヅラだなあんた、と笑われたりしたけれど。
壁が崩壊して、この都市に戻ってからは、そんな心の余裕さえなかった気がする。
それどころか、日々の仕事に忙殺されて、食事も睡眠もろくに取れなかった。
自分が疲れている事にさえ、気付かなかった。
やっと自覚し始めたのは、つい最近のことだ。
まったく、鈍感にも程がある。
今はもう、日々、微笑みを保っているのがやっとだ。
我ながら、何というか、情けない。 


まったくこれだから、真面目で良い子のお坊っちゃんのやることといったら。
ひ弱なくせに、程々にしておくっていう器用さもないんだな。
…なんて。
きみなら、呆れた顔で言うんだろうな。


皮肉めいた口調で言いながら、それでも心配してくれる彼の遠回しなやさしさを思い出して、紫苑がふっと笑む。
不意に、腕を掴まれた時の痛い程の力強さを思い出した。
もう3年も前のことなのに、感覚はまだはっきりと思い出せる。
辿るように、同じ場所を自分の手で掴んでみた。目を閉じる。


強く腕を掴んで、しっかりしろ、あんたと、怒鳴りつけて欲しい。
弱気を見抜いて、何をやってる、顔をあげろと叱って欲しい。


(……ネズミ…)


心の中で呼びかける。
恋しい名に、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。



どうしてかな。
今夜は、だめだね。
こんな風に、星なんか見ているからかな。
センチメンタルに浸ってるのかな。

きみが恋しい。
いつも以上に、きみが恋しいよ。



星空を見上げ、ぎゅっと両手で膝を抱える。
今頃どうしているだろう。
どこで、どんな空を見ているんだろう。
だれと。



ネズミ。
きみがいなくなって、3度目の冬だ。
時の経つのは早いね。
壁がなくなって、もうそんなになる。
だけど、実際はやっとこれからだ。ここからがスタートだ。
どうにか混乱が収まって、人々が落ちつき、生活を取り戻しつつある。
たったそれだけに3年だって?亀の歩みの方がよっぽど早いぜ、ときみは笑うかもしれないけれど。
問題はまさに山積状態で、昼夜構わず休む間も惜しんでフル稼動しても、これがせいいっぱいだった。
肉体的にも精神的にも、かなりハードな日々だったよ。
もちろん、その分やりがいはあったし、壁がなくなった都市や、人々が、少しずつ変化していくさまを目のあたりにするのは楽しくもあった。
ぼくたちがしたことに、確かに意味があったんだと、そう思えた。
それをきみと一緒に見られたら、もっと良かったんだけれど。


母さんも皆も、変わらず元気だよ。
母さんは、壁がなくなってパンを買いにくるお客さんが増えたから、以前よりさらに忙しくなったって、張り切って毎日楽しそうにパンを焼いてる。
どうやら、ラッチビル新聞の宣伝効果もあるみたいだけどね。
あ、力河さんは、ラッチビル新聞を復活させたんだ。
今ではロストタウンでも読めるようになった。
そういえば、この前、新都市再建委員会のメンバーの一人として、力河さんにインタビューされたんだ。
なんて言っても、力河さんの目的はやっぱりぼくより母さんらしくて、ついでに店の取材とか言いながら、ぼくの写真よりも、ちゃっかり母さんの写真をいっぱい撮ってほくほくして帰って行った。
まったく、力河さんらしいよね。
昔とちっとも変わってないのねって、母さん、笑ってた。
そうだ。イヌカシのホテルでも、母さんのパンの販売をしてくれるようになったんだ。
おかげで毎朝パンを取りに来るイヌカシと顔を合わせるようになって、ぼくとしては嬉しい限りなんだけど。
金になるし、うまいパンがただで食えるし、それはいいんだけどなぁ、火藍がネズミの話を聞かせろってうるさくて困る、そんなのお前に聞いたらいいじゃねえか、なあ?紫苑って、イヌカシに言われたよ。
そうだね。ぼくが話して聞かせられたらいいんだけど。

まだ。
うまく話せないんだ、きみのこと。

うまく、言葉にできない。
できごとのすべてを、きみのことを、きみへの想いを、まだ言葉にして誰かに話せる自信がない。
過去のことのように、語るのがつらい。
きみを過去のことにしてしまうのがつらい。
きみの名を誰かが口にするだけで、今でもひどく感情が揺さぶられる。
自分で口にしたら、きっと泣いてしまいそうになるだろう。


おかしいね。
穏やかに時が流れている。
その中で、ぼくだけが置き去りだ。


都市が、人々が、ゆっくりと歩みをはじめている中で、その中心の一人とならなければいけないぼくが、ぼくだけが一人、置き去りになってる。
3年の時が経ってもまだ、こんなにきみが恋しい。
きみがそばにいないことが、こんなにも苦しくて淋しい。


薄く微笑んで、紫苑が手の中のカップを見つめる。
温もりはもう、消えていた。
一口飲んで、眉を寄せた。
ココアはもう、冷めてしまっていた。
冷たくなってしまったココアの甘さが、微かな苦味が、胸に染みて、かなしい。
出逢った夜に一緒に飲んだココアの糖度も温度も、まだはっきりと思い出せるのに。



きみがいない。
どこにもいない。


甘ったれだね、本当に、ぼくは。
いくつになっても、きみに甘えてる。


自身の心の呟きに、笑おうとして笑えず、きゅっと唇を噛み締める。
眦が、微かに赤みを帯びる。
ずっと、涙は堪えてきた。
一度泣いてしまったら、自分のすべてがなし崩しになるようで怖かった。
自分が保てなくなりそうで。
そうしているうちに、泣くことも上手に出来なくなってしまった。


やれやれ。
きみに言われるまでもなく、無器用で嫌になるよ。自分でも。


紫苑はカップを置くと、凍えた自分の身体を自らあたためるように、深く毛布を被って身を丸め、膝を抱えた。
立てた膝の上に、頬を置く。
小さく溜息をついた。
吐く息が白い。
流れ星なんてもういいから、部屋に戻って、眠れないまでもベッドで朝まで過ごそうか。
ここよりは温かいし。
視線を落とし、ゆっくりと瞼を閉じかける。
もしかしたら、今夜は睡魔が訪れてくれるかもしれない。
いつもより瞼が重く感じる。
いっそ、ここでこのまま眠ってしまおうか。
いや、待て。
ここで眠り込んでしまったら、さすがにまずいんじゃないか?
この寒さの中、こんなところで寝てしまったら。
朝になったら、きっと大変なことになってる。
思い、閉じかけた瞳をぼんやりと薄く開き、そして、はっとなった。
視界の隅で、光が流れたのだ。
慌てて顔を上げ、空を仰ぐ。



「うわ…」


見上げて、思わず息を飲んだ。
予測時間より、まだかなり早いけれど。
星が、夜空を流れ出したのだ。
光の尾を引いて。次々と。


「――すごい…」


紫苑が天を仰いで感嘆の溜息を漏らした。
言葉もなく、ただ一心に流星を見つめる。
儚く、だのに、流れる瞬間は、光をはじくように、強く輝いて。
燃えて、燃え尽きて、消えていく。
まるで、誰かの想いのように。
命のように。


魅せられたように、ただただ星の流れる美しい空を見上げていた紫苑の瞳が、やがて、大事なことを思い出したかのように、はたと数度瞬いた。


見とれている場合じゃない。
そうだ、そうだった。
願いごと、願いごと。
願いごとをしようと思ってたんだ。

『流れ星に願いごとって、紫苑、おまえ子供かよ』って、きっとイヌカシあたりは呆れて笑うんだろうけど。
それでもいいんだ。
星に願いをかける。
流れ出した星が消えてしまうまでに、3度。
願いごとを、3回唱えられれば。
願いが叶う。
誰が言い出したのか知らないけれど、お伽話みたいなことだけれど。
それで、いいんだ。叶うっていうのなら。
試してみるのも悪くない。
呪文のように口の中で唱える。




きみに会えますように、きみに…
うわ、もう消えた。
早いよ。
もう少し待ってくれ。




よし、今度こそ。
きみに会えま……
うそ、もう消えただなんて。




きみに、って
ちょっと、待って。
また、きみしか言ってない。




流れ星って、こんなに消えるの早いんだっけ?
まさか、今夜の流星群は特別流れるのが早いとか、そんなことないよな。




くそ、次こそは。
きみに会えますように、会えますよう…
ああ、もうちょっとだったのに!




あぁ、もっと流れて、早く!
たくさん流れて、
もっと願いごとをぼくにさせて。




きみに会えますように、会えま…
また、駄目か。





落胆しながら、瞳が、それでも新たな流星を夜空に探す。
どこだ、どこに流れる。次はどこ?
そんな自分の懸命さが、滑稽だ。
いったいこんなことをして何になるんだろう。何に縋ろうとしてるんだろう。
ばかみたいだ。わかってる。でも、いいんだ。
笑われたっていいんだ。馬鹿にされたっていい。
こうでもしていないと、ぼくは。
…ぼくは。



せつなさに胸が押し潰されそうになる。
きみがいない痛みで、息ができなくなる。



本当にぼくはだめだね。
悔やんでいる。
今になって、悔やんでいる。
黙って、きみを見送ったこと。
行き先も聞かずに、ただ見送ってしまったこと。
あんたなら大丈夫だと励まされて、微笑まれて。
ぼくがやらなきゃ、と思った。
沙布の想いを、決意を、無駄にしたくなかった。
きみの期待を裏切りたくなかった。
だけど。
どうして肯いてしまったんだろう。あんなに強く。
もうきみが必要じゃないみたいに、きみがそばにいなくても一人で立っていられるみたいに。

泣いたらよかった、縋ったらよかった。
かっこ悪くても、女々しくても、
どれだけ引き止めても、それでもきっときみは行ってしまうんだろうけど、それでも、言えばよかった。

傍にいてほしい。
一緒に生きたい。
きみがいなくちゃ嫌だ。
きみがそばにいないと、ぼくはちっとも大丈夫じゃない。
ぼくは、まだそれほどに、ひ弱で、やっと自分の足で立ち上がったばかりの赤ん坊のような、頼りない存在なんだ。



誰にも漏らしたことのない泣きごとを、本音を胸で落とす。
唇を噛み締める。






泣いちゃいけない。
まだ泣くな。
がんばれ。






自分で自分を励ますように、ぐっと力を込めて自分の腕を掴む。
睨むように、顔を上げた。





願いごとが長すぎるのかな。もっと短くしたらいいのかな。
よし、じゃあ。







きみに会いたい、

きみに会いたい

会いたい、

きみに会いたい

きみに……





流れ星が消えても、願いはそのまま口にし続けた。
星が消えても、願いが消えることはない。
だから。
願い続ける。
何度でも。






きみに会いたい、

きみに会いたい、

きみに………








「会いたいよ、ネズミ……」





声に出した途端、自然と涙がこぼれた。
こらえようとして、肩が震える。嗚咽が漏れた。
今までずっと一人で抱え込んでいた想いが、我慢していた想いが、止められず、溢れ出す。




「会いたいよ、きみに、会いたいんだ! 会いたいよ、ネズミ…!」




最後は、叫びのようだった。
紫苑が、胸の痛みに耐えるように身を丸め、奥歯を食いしばり、全身で泣きじゃくる。
あとからあとから瞳を溢れて流れてくる涙が、ぽたぽたと冷たいコンクリートの上に落ちた。
こんな風に声を出して泣いてたら、母さんが驚いて起きてきてしまう。
だめだ、どうにかしなくちゃ、止めなくちゃ。
だけど、どうにもならない。
止められない。
懸命に、涙を止めようと、しゃくり上げながら、紫苑が息を詰める。
息が苦しい。身体が震える。喉が熱い。胸が痛い。
苦しさのあまり、上体を起こしたその時。




「―――…っ」




突然、背後から、ふわりと目隠しをされた。





(……えっ)





紫苑の唇が震える。
驚きのあまり、声にならない。
言葉にならない。
ただ、全身ががくがくと震えた。
目隠しをされた温かな掌の中で、大きく見開いた瞳から、また新たな涙がこぼれ出した。







「まったく、あんたは…」






心底困ったような、参ったというような声が、耳の傍で聞こえた。
1秒だって忘れたことのない、懐かしい声。
背中にある、温かな気配。
顔が歪む。
胸がつまって、呼吸の仕方がわからない。
ますます、唇は震えた。
声が出ない。
もどかしい。
やっとの想いで絞り出した声は、ひどくふるえ、上擦っていた。


「ネ、ズ…」


「動くな…」
初めて出逢った夜と同じ言葉を、ひどく甘く口にして、目隠しを解かれる。
だが、振り返ろうとした紫苑の頭から、視界を遮るように、素早く毛布が被せられた。
何をと抗う間もなく、背後から毛布ごと抱き竦められる。
息が止まりそうなほど、痛いほどの力で強く抱きしめられた。


「ネ、ズミ…?」
「ああ」
「ネズミ…」
「ああ」
「どう、して…」


声が震える。
初めて知った。
感情の揺れが、波があまりに大きく激しいと、人の身体はこんな風に震えるものなのだ。
言葉もろくに紡げなくなるくらいに。
過去に生態学を学んだけれど、こんなことは誰も教えてくれなかった。




きみはずるい。
そして、ひどい。
突然すぎて、言葉が出てこない。
涙しか、出てこない。





「…顔を」
「ん?」
「顔を、見せてくれ」
毛布の中で、ネズミの腕の中で、紫苑が藻掻くように上体を身じろがせる。
「顔を、見せて、ネズミ」
涙声が懇願する。
ずっと焦がれていたのだ。
知りたかった。
どんな顔になったのか、髪型になったのか。背は伸びたか。肩幅は。手足はどうだろう。
会えなかった時間が、どんな風な変化をネズミに齏したのか、それが知りたかった。
「それは駄目だ」
あっさりと拒絶されて、びくりとする。
「どうして? まさか、怪我でもしているのか? それならぼくが」
懸命な紫苑の言葉に、だが、肩透かしのような含み笑いが返された。
「違う。あんたに手当てしてもらうような怪我は、残念だがしていない」
確かに、初めて会った夜のあんな怪我を、そんなに度々していたのでは、命がいくつあっても足りはしない。
「大丈夫なのか、本当に?」
「ああ、いたって健康だ」
「だったら、どうして」
問い詰める言葉に、なぜか苦笑と嘆息が漏らされた。
そんなに変わってしまったというのか? 顔を見せられないほど。
紫苑の胸に不安が過る。
だが、返ってきたネズミの言葉に、そんな不安はあっさり一掃された。
「いきなり顔なんか見せて、あんたに卒倒されちゃ困るからな」
「えっ…?」
どういう意味だ?
怪我もしていないと言うし。まさか整形したとか。
いや、だからといって、そんなことで卒倒したりはしない。
しばし、考える。
「まさか。きみが良い男過ぎて、ぼくが卒倒するんじゃないかって? 心配してくれてる?」
「まあ、そういうことだ」
「……」
もしかして笑うところだろうか?と、紫苑が真剣に考える。
職場の同僚たちにも、紫苑は天然だから笑いのツボが人と違うと、よくからかわれるけれど。
「…そんな冗談が言えるようになったんだ」
「まさか。おれは至って本気さ」
「そこまで言うんなら。卒倒するほど良い男をぼくも見たい」
「いいのか。高くつくぜ」
「…ローンで良い?」
「仕方ない。あんただからな、特別だ」
特別、という言葉にどきりとしながらも、紫苑がせっつくように手を伸ばし、毛布の端を探した。
「早くしてくれ、息が苦しい」
「わかった、まあ待て、そう焦るな」
そうは言われても、この僅かな間に、流れ星のようにもしきみが消えてしまったら。
そんな怯えが、紫苑をつい焦らせる。
無造作に毛布を掻き分けると、ふいに小さな隙間から星空が覗いた。そこから手を出す。
と同時に、紫苑の手首がぐっと強い力で掴まれた。
引き出されるように、くるまれた毛布の中から紫苑の上体が開放される。
あたたかな暗闇から、凍てつく星空の下へと引き出され、自然と身体が震えた。
が、そんな感覚もすぐに消えた。
「ネズミ……」
緋色の瞳が、目前に接近してきた濃灰色の美しい瞳に、限界まで大きく見開かれる。
さすがに卒倒には至らなかったが、束の間、声も出ず、言葉もなく、ただ見惚れた。
顔つきがやや大人びた。身体つきも少し逞しくなった。
何より、ずっと焦がれ続けていた、夜明け間際の空の色をした瞳が、間近で紫苑を映している。
「…ネ、ズミ」
呼ぶ声が涙声になる。
別れた時と寸分変わらない、あたたかな濃灰色の瞳が紫苑を見つめ、細められた。
「…紫苑」
「ネズミ、だ」
恐る恐るというように、紫苑が呼んで手を伸ばす。まだ震えが止まらない。
指先を、ネズミの頬へとそっと伸べた。

ふれられるだろうか?
消えたりしないだろうか。

何度も何度も、こんな夢を見た。
ネズミ…!と呼んで手を差し伸べた途端、その姿は掻き消え、夢もそこで終わってしまう。

消えてしまったらどうしよう。
少し、こわい。

ふれようとしてふれられずにいる紫苑の手を、ネズミが手に取り、自分の頬へと引き寄せた。
ぴく…とふるえた紫苑の指先が、ネズミの冷たい肌にふれる。

確かな感覚。
確かに、そこに在る体温。
重なった手から、まるで血流が流れこんでくるみたいだ。
あたたかい。

「ネズミ…」
涙を溜めた大きな瞳に瞬きもせずに見つめられて、ネズミが微かに眇目し、唐突に、フイと視線を逸らせた。
まるで怒っているような横顔に、紫苑がどうして?と不思議そうな顔になる。
が、ややあって、理解した。
毛布を被せられた意味が、やっとわかったのだ。
そうか、そういうことか。
(……なぁんだ…)
大人びたと思ったけれど、そういうところはちっとも変わっていない。素直じゃないところも。
顔を見合わせるのが照れ臭いのだ。単に、そういうことなのだ。
あまりに久し振りすぎて。
「こっち、向いて」
微笑むと同時に、涙が頬を伝った。
「ねえ、こっち向いてよ、もう一回、顔を」
顔を見せて、という言葉が涙でくぐもる。
ネズミの視線が、ゆっくりと紫苑に戻った。
大きなあたたかな掌が、壊れものにふれるようにそっと、紫苑の涙に濡れた両の頬を包む。指先が赤い痣を辿った。

名を呼び、どちらからともなく、自然と唇が近づき、ふれる。
触れ合う。
一瞬の、仄かなぬくもり。
それは、心に灯を点すように、あたたかだ。

涙に濡れた紫苑の睫が、ゆっくりと持ち上がった。
そして、膝立つと、両の腕をネズミの両肩へと伸べる。ネズミの両腕もまた、紫苑の背へと回された。
甘く切ないあたたかな抱擁に、互いに眸を伏せ、額を寄せ合う。
話したいことはたくさんあって、聞きたいことも山のようにあって。
だけども、いざとなってみると、どれもさほど重要じゃないことのように思われて。
ただ、抱き合って目を閉じた。

言葉じゃない何かで繋がっている。
今ここに、腕の中に、互いの体温がある。
それ以上に大事なことなど、何も無いんだ。
この宇宙のどこを探しても。





やがて、紫苑が小さなくしゃみを一つ落とした。
ネズミが、くすりと笑みを漏らし、紫苑の肩に毛布を掛ける。
「寒いか?」
「あ、ううん。平気だよ、きみこそ薄着で」
「あんたの話だ。平気じゃないだろ、ちっとも」
見透かすような瞳をして笑むと、ネズミの指先が紫苑の唇にふれた。言葉を促すように、そっとなぞる。
「忘れたのか?」
きみに嘘はつかない。そう誓った。もちろん忘れてなんかない。
「…平気じゃない。でも今は、きみがいてくれるから、平気なんだ」
それは強がりじゃない。真実だ。
紫苑が微笑む。

淋しさのあまり、見失いかけていた。大事なことを思い出した。
ただ傍にいて、互いを甘やかし、依存し合うだけの関係じゃないのだ、ネズミとのそれは。
庇護されていたいわけじゃない。
対等でいたいと思った。
きみに恥じない人でありたい。
うまくまだ纏まらないけれど、紫苑の中でこじれ、こんがらがっていた想いが紐解かれ、整然としていく。
同時に、胸の内で凍りついていた氷片も溶かされていくようだった。







その後、2人で毛布にくるまって、とりとめのない話をしながら、流星を見た。
ネズミの長い足の間に坐り、背後から抱きしめられるようにしながら、あたたかな腕の中で、夜空を仰ぐ。
それは、紫苑にとって、この上ない至福の時間だった。
まるで、夢のように。


そうだよ、紫苑。
これは夢だ。


偶然、ほんの気まぐれに、あんたとおれの夢が融合した。
互いの願いが作り出した、同じ夢の中にいるのさ。

おれに会いたい、あんたと。
あんたに会いたくてたまらない、おれの。



紫苑が、ふわりと笑む。
そうか、これは夢なんだ。
「……いいよ。それでも、いい」
いいんだ。それでも。
朝になったら終わる、ささやかな夢でも。
「夢の中まで、きみが会いに来てくれた…。それだけで、充分だ」
甘えるように、ネズミの肩口に頬を寄せ、逞しい背に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。
「紫苑…」
まだ旅の途中だったきみが、ただ会いたいという想いだけで、きてくれた。
それだけで。
たまらなく、嬉しい。
紫苑の髪を撫でつけていた手がふいに止まり、濃灰色の瞳が紫苑の瞳を覗き込む。
「紫苑、手を貸してみろ」
「え…?」
夜明けが近づく空をちらりと見て、ネズミの手がそっと敬虔な動作で、紫苑の手を掬う。
そうして、細く白い薬指に唇を寄せ、誓いのように口づけた。
東の空が、茜色に染まって行く。
雲の間から陽光が差し込み、紫苑はその眩しさに静かに両の瞼を伏せた。



まもなく、朝が訪れる。













「なあ、火藍。紫苑の奴、大丈夫なのか? あいつ、最近、めっきり顔色良くなくてさ。いっかい医者にでも見てもらった方がいいんじゃねえかな。ほっとくと今に倒れちまうぜ」
「心配してくれてありがと、イヌカシ。私からもすすめてるんだけど、忙しいからってなかなか言うことを聞かなくて。でも、そうね。一度往診を頼んでみるのもいいかも……」
ホテル用のパンをイヌカシに手渡し、火藍が心配そうに2階を見上げたところで、はっと言葉を切った。
「うわああ、寝坊した、やばい、どうしよう! もう母さん、起こしてよ、遅刻寸前じゃない!」
言いながら、慌てて階段を駆け下りてきた紫苑の顔を見て、火藍がさも驚いたような顔になる。
いつもなら青白い顔をして生気無く階段をゆっくり下りてくる息子が、今日に限ってこうなのだから無理もない。
イヌカシもまた、同じくキツネにつままれたような顔になって、紫苑を見た。
「ああ、イヌカシ、おはよう!」
「あ、あぁ、おはよう……って、おい、紫苑…」
ついに疲れが脳味噌に溜まってバクハツしちまったんじゃねえよな?と言わんばかりの表情で、イヌカシがまじまじと紫苑を見る。
「あ、紫苑。ごはんは?」
「ああ、ごめん! 食べてる時間ないよ、もう出ないと」
「でも食べないと、毎日朝抜きじゃ」
「わかってる! あ、母さん。これ一つもらっていいかな?」
「チェリーケーキ? いいの、朝からそんなに甘いもの食べて胸がもたれない?」
「大丈夫だよ、母さんのケーキはそんなにしつこく甘くないから! じゃ、もらうね、走りながら食べるから! 行ってきます!」
言いながらケーキを一つ取り、かぶりつきながら、紫苑が鞄を抱え、ばたばたと店を出ていく。
あっけにとられていたイヌカシも、はっと我に返ると、じゃあな火藍とパンを抱え、慌てて紫苑の後を追って店を出た。
「ちょ、紫苑、待てって! こら待ちやがれっ」
「イヌカシ? どうしたんだ、何かあったのか?」
「何かあったのかは、おれの台詞だ! てか、おまえ、いったいどうしちまったんだ?」
「うん?」
「だから、その、あ? おい紫苑、なんだそれ!」
「え?」
「指になんか、赤いやつが」
ちらりと見えた紫苑の左手に、一瞬きらりと光ったものを見つけ、イヌカシがはたと凝視する。
昨日まではなかったぞ、そんなもの。
紫苑がそれに気付いて慌てて隠し、わかりやすく赤面した。
「うわ、もう、さすがイヌカシ。目ざといな」
長く見なかった紫苑のはにかむような表情に、イヌカシがすぐさまピンと来て、頭に浮かんだ名をそのまま叫んだ。
「ネズミか?!」
「なんで、わかるの!?」
直球な問いに対して、返ってきたあまりにストレートすぎる反応に、イヌカシが何とも言えない顔で紫苑を見つめる。
「…なんでって…」
おまえがわかりやす過ぎるからだろ。
げんなりしながら思う。
それでも、久し振りに見る天然全開の紫苑の顔に、呆れたような、ほっとしたような溜息をついた。
「で、あいつが何だって?」
「うん。会いに来てくれたんだ。夢の中だったけど」
「はあ?」
夢の中でって、何だ、そりゃ。
「でも、朝起きたら、これが指にはまってて。夢じゃなかったってことかな」
それで夢なら、生霊じゃないのか。
しかもそれ。俗に言うプロミスリングとかいうやつじゃねえか、おい。
まさかあのネズミがそんな洒落たものを贈るだなんて、想像しただけでも気持ち悪いが。
だがまあ、生霊で、紫苑相手なら、それくらいやりかねない。
まあ、だけど。
いつまで放っておく気だ、紫苑が壊れてからじゃ遅いんだぞ、ばかやろう!と、ずっとハラハラ見守ってきたが。
あいつも、そうか。ずっと、紫苑のことを―。
へえ、案外かわいいとこあるじゃねえか。
イヌカシが考えて、ほくそ笑む。
そして、紫苑の指にはまっているリングをまじまじと見つめた。
銀のリングの真中には、細く鮮やかな赤いラインが描かれている。清廉で凛とした上品な印象だ。
なるほど、紫苑にぴったりだ。
このリングを見たネズミが、紫苑の髪と痣を思い出したことは、安易に想像がついた。
紫苑の指に似合うだろうと思ったことも。
「で? まさか裏に、”愛しているぜおれのミツバチちゃん”とか、メッセージが入っているとかじゃねえだろうな?」
「えっ、うーん。ミツバチちゃんとは書いてなかったけど」
あるんかい。
冗談で言ったつもりが真面目に返されて、イヌカシがますますげんなりと肩を落とす。
紫苑がリングを外して、光にかざした。
「メッセージなら彫ってあったよ」
「ふうん、なんて書いてんだ、これ」
もともと字は読めないが、このへんで見かける文字じゃないことぐらいはわかる。イヌカシが、眉を寄せた。
「砂漠の民が、かつて使っていた古い文字だから、調べないとわからないけど。…あ。でも、この単語はわかる、かな」
「あっそ。何て意味だ?」
問うなり、紫苑の頬がバラ色に染まり、いやでもちゃんと調べてみないとわからないし、間違ってたら恥ずかしいから、などとぶつぶつ言い訳をしながら、慌ててリングを指に戻した。
なんとなく、察しがついた。
聞かないでおこう。朝から胸焼けなんて、御免だ。
「じゃあね、イヌカシ」
「―紫苑、おまえさん」
「なに? ぼく、もう行かないと」
本気で遅刻、と言いかけた言葉を遮って、イヌカシが訊く。
「追って行くつもりか、ネズミを」
一度背を向けた紫苑の肩が、ぴくりと震えた。ゆっくりとイヌカシを振り返る。
そこには、昨日までの憂いを帯びた表情はどこにもなく、かつて西ブロックで見たあの光をはじくような笑顔が完全に戻っていた。
イヌカシが、はっと瞠目する。
「うん! もう決めたんだ」
じゃあ行ってきますと、まるで今すぐ旅立つかのような笑みを残し、紫苑が陽の光の中を走って行く。
その背を見送り、はたと手に持ったままのパンの入った大きな包みに気付くと、イヌカシもまた、やばいと今来た道を引き返した。
おれのホテルの客は、パンなんて上等なモン食わねえよとかつて火藍に愚痴っていたが、実際売ってみたらなかなかどうして好評で、今や、火藍のパンを目当てにホテルに来る客まで増えたのだ。
早くしないと、腹を減らした客たちが、ぶうぶうと文句を言っているに違いない。
イヌカシが走りながら、ふっと笑む。
「…よかったな、紫苑」
しかし。ネズミめ。
あの馬鹿も、やっと腹を括ったか。ざまあみろ。
矯正施設で紫苑が死んだと思った時は、自分も死んだみたいな情けない顔をしていやがったが。
そして、あの後。
二度と会わないつもりで別れたんじゃないかと、内心勘繰ってもいたが。
――良かった。
あいつら、お互い、ソウシソウアイだもんな。
やっぱり、一緒にいるのが似合ってるんだ。

たった一夜で、紫苑をあそこまで変えることができるおまえさんには、ちょっと、シットっつうか。
いや、ちげえ。
かなり、ムカついてるけどな。


今度、紫苑が旅立つ前に。
何が何でも、あの指輪の言葉の意味を聞き出してやる。
ずっと傍で心配してきたんだぜ。こっちは。
そのぐらいは、知るケンリってやつがあるだろう。


――なあ、ネズミ。



















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