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きみのそばで、きみと見つめる


バザールを抜け、なだらかな丘を登り、夕日に燃える道を塒へと急ぐ。
地下室への階段が見え始めると、無意識に歩を進める速度が上がった。
熱は下がっただろうか。吐き気はどうだろう。大人しく寝ているだろうか。
(…別に、案じているわけじゃない)
心中で、自身にごちる。
朝に、熱さましの薬草を煎じて飲ませた。そのせいか、部屋を出る時、紫苑はよく眠っていた。
今もまだ眠っているかもしれない。
発熱は相変わらずだが、昨夜ほどの高熱でもないし、顔色も幾分ましになっていた。2、3日寝ていればすぐに良くなるだろう。
そもそも、ただの風邪だ。心配するほどのことじゃない。
寄生蜂にやられた時でさえ、しぶとく生き延びたやつだ。
ああ見えて、意外にタフなのだ、あいつは。
身体も、そして心も。
「……」
心、と考えて、不意にネズミの足取りが重くなる。濃灰色の瞳に陰りが落ちた。
原因は明白だ。
まったく、と舌打ちする。
(これだから、厄介だと言うんだ)
少し前までは、他人の心模様など想像したこともなかった。
どうでも良かった。考える必要もなかった。
自分一人、今日を生き延びることだけを考えればよかった。それだけで事足りた。
今思えば、気楽だった。
ところがどうだ。現状は。
投げつけた言葉に、泣き出しそうな顔をされた。たったそれだけのことで、このザマだ。
(馬鹿馬鹿しい。そもそも悪いのはあいつの方だろう。何で、おれがこうも引き摺る必要がある?)
言い過ぎたとは思っていない。間違ったことを言ったつもりもない。
此処で生きていく上での術と正論を述べたまでだ。


事の発端は、昨日の夕刻。
犬洗いの仕事からの帰り道、紫苑は川に落ちた子供を助けようと手を伸ばしたところで、逆に腕を捕まれ、川に引き込まれた。
子供は、瞬時に紫苑の上着のポケットから胴貨を盗み取ると、鮮やかに川を泳ぎきって岸に上がり、笑いながら駆けて行ってしまったという。
イヌカシがつけてくれた護衛の犬が川に飛び込んで助けてくれなければ、紫苑は今頃冷たい流れの中で溺れ死んでいたかもしれない。
風邪をひくどころの騒ぎでは、たぶん済まなかった。
それでも、紫苑を助けた後、子供を追いかけようとした犬を紫苑は止めた。
もういいんだ、追わないであげて、と。
そして、ずぶ濡れのまま、とぼとぼと地下室に戻り、ネズミにこっぴどく罵られた。というわけだ。


『ろくな力もないくせに、中途半端に他人に親切の手を伸ばそうとするのは、偽善以外の何ものでもない。ましてや、自分の身を犠牲にしようとするなど、無知で馬鹿のすることだ!』
いつまでもNO.6でのお坊っちゃんぶりが抜けない、甘い考えを捨てきれない紫苑に対し、むしょうに腹が立った。
『でも、あの銅貨で、もし今夜少しでもあの子がましなものを食べられるなら…それでもいいかなって、ぼくは』
『あんた、いったい何度言わせる気だ!? そんなぽっちの施しで、今日、腹が満たされても明日はどうなる? 一時満たされたら、その分明日の空腹がより辛くなる。そいつの明日のことまであんたが面倒見れるのか!? 飢えたことない人間のそれが傲慢だってなぜわからない!?』
『わからない、わからないけど…! でも、一時の幸せで、それが明日を生きることの力に繋がるかもしれないじゃないか…!』
『その考えが傲慢だって言うんだ!どん底の不幸を知らないお坊っちゃん、教えてやろうか。他人から奪った金をろくでなしの親に奪われ、そいつは何ひとつ口にすることができず、親ばかりが満たされ肥えて、子供は飢えて泣きながら冷たい床で丸くなって眠る。そういうところなんだよ、此処は、この西ブロックは! あんたのきれいな理想なんか、これっぽっちも通用しないんだ! 此処で生きていきたきゃ、いい加減覚えろ!』
『ネズミ…』
『あんたのそういうところ、本気で苛つく…!』
胸に込み上げてきた怒りの感情にまかせ、吐き出した。
他にも何か言ったかもしれないが、激昂のあまり、よく覚えていない。
気がつけば目の前で、紫苑がずぶ濡れのまま、項垂れていた。
はっとなり、とにかくさっさと風呂に入ってこいと促して、その後はほとんど会話のない夕食を済ませ、早めに床に入った。
隣に眠る紫苑の身体が発熱していることに気づいたのは、真夜中になってからだ。


地下室への階段を降りながら、ネズミが考える。
今思い出しても腹立たしい。腸が煮えくり返る思いだ。
だが、自分を憤らせたものは、果たして本当に、紫苑のお人好しな言動故だったのか?
自身に問い正す。
…いや。違うだろう、ネズミ。
丸1日近くが経って、冷えた頭でよくよく考えてみれば、真の怒りの矛先はそこではなかった。

紫苑の無垢な善意に付け込む、この町のすべての悪意が呪わしい。

つまりは、そういうことだ。
ネズミの口元に、皮肉げな笑みが浮かぶ。
まったく、大した過保護だ。
自分の欲の中に、まさか庇護欲というやつが存在するとは、ゆめゆめ思ってもみなかった。
呆れたように溜息を一つ落とし、今のは無意識の溜息ではないと己に言い訳しながら、扉のノブに手を掛ける。
ふと、その足元にある草の束に気付いた。屈み、手に取り、匂いを嗅ぐ。
濃灰色の瞳が驚きを映した後、フ…ッとやさしげに細められた。
鍵を開け、扉を開く。
ギッ…と軋んだ音が響き、灯りの落ちた部屋の中で、ベッドの上で丸まっていた影が微かに動いた。


「…おかえり、ネズミ」
少し掠れた声が言い、上体を起こそうと身じろぐ。
「外、寒かった? ごめん、ストーブ、いつのまにか消えちゃってる」
「ああ、いい。おれがやる。あんたは寝てろ」
起きようとするのを制し、ネズミが市場で買ってきたものをテーブルに置いて、素早くストーブに火を入れる。
燃える炎に、一瞬、部屋の中がオレンジに染まった。
ランプにも灯りを入れ、ネズミが、ベッドに横たわる紫苑を振り返る。
「具合はどうだ」
「うん、ちょっとまし…かな」
とはいえ、答える声は、まだ少しつらそうだ。
ネズミがベッドの脇に屈み、前髪を上げさせ、紫苑の額にそっと自分の額を合わせた。
こうやって熱を計るのだと、4年前、ネズミは紫苑に教わった。
「まだ、高いな」
それでも、ゆうべよりは大分下がっている。薬草が効いてきたのだろう。
「ん。でも、朝より大分楽になった。きみが薬を飲ませてくれたから」
「苦いと文句を言って、何度も顔を顰められたけどな」
「でも、全部飲んだ」
「ああ、おりこうさんだ。夕食の後、また飲ませてやる」
「うわー…」
苦さを思い出して、紫苑が顔を顰める。それがおかしくて、ネズミが小さく笑いを漏らした。
紫苑がそれを見上げ、ほっとしたような顔になる。
「…良かった」
「何だ?」
「まだ、きっと怒ってるだろうって思ってた」
「別に。おれは最初っから怒ってなんかないぜ」
「嘘だ。ぼくが馬鹿だから、きみを怒らせた」
「あんたの馬鹿さ加減にいちいち怒ってたらきりがない。おれも、そんなに暇じゃないさ」
「…ひどいな」
ふて腐れたように頬を膨らませる紫苑に、ネズミが笑いながら、ベッドの端に腰掛ける。指先がそっと、熱を帯びて赤さの目立つ、紫苑の頬の痣にふれた。
紫苑が瞳を閉じ、笑みを浮かべる。
「どうした?」
「ネズミの手、冷たい」
「あぁ、悪い」
外気ですっかり冷えていたのを思い出し、ネズミが慌てて手を引こうとする。それを紫苑の手が止めた。
「いい。このままにしてて」
「気持ちいいか?」
「うん」
大きな掌で熱を帯びた額を覆うようにしてやると、紫苑が目を閉じたまま、ふっと身体の力を抜く。ややあって、何かに気づいたようにはっとなると、泣きそうな顔で微笑んだ。
「…ごめん、ありがとう」
「ん?」
「犬洗いの仕事、代わりに行ってくれたんだ…」
しみじみ言われて、ネズミが瞠目する。そして、やれやれ参ったというように肩を竦めた。
「鼻が効くようになった。大したもんだ」
「朝のこと、ぼく、あまり覚えてないんだけど。仕事があるって、きみに言った?」
「ああ。熱があるのに、犬洗いの仕事があるからどうしても行くって、あんた大暴れしたんだ」
「うわ、ごめん…。それで、代わりに?」
「もっとも3時間で首になったぜ。あんたに比べて、仕事が荒くて大雑把すぎるとさ。それに、おれだと犬共が反抗的でやりづらくてな。まぁ、イヌカシとは本気でやり合ったこともあるからな。奴らも、いつ身体を洗うふりをしておれに皮を剥がれるかと、気が気じゃないんだろうぜ」
ネズミのふざけた言いように、紫苑が声を上げて笑いを漏らした。
寒かった部屋の中にも、ストーブの温もりがじわじわと広がっている。
紫苑の代わりに仕事に来たと仏頂面で告げたネズミを、イヌカシはあんぐりと大口を上げてしばし見つめ、その後盛大に笑いころげた。
予想できた反応だけに、ネズミはそれに一瞥をくれただけで仕事に取りかかったが、3時間でクビになったのは犬たちとの相性のせいばかりではなかった。
『…おまえ。天然坊やのことが気になるんだろう。いいから、さっさと帰ってやれ』
心此処に有らずなネズミに、ついには呆れたようにそう言うと、紫苑に見舞いだとイヌカシは1枚余分に賃金をくれた。
まあ、犬洗いの仕事から開放されたのは、ネズミにとっても犬たちにとっても幸いだったろう。
「ありがとう、ネズミ」
「礼を言われるほどのことじゃない。さあ、飯にするぞ」
照れ臭さを隠すように視線を逸らし、ネズミが立ち上がる。
スープは、昨夜の残りがあった。紫苑の食が進まなかったせいで、まだ鍋にたっぷり残っている。
ネズミは、その中に固いパンをちぎって放り込んだ。そのまま、ストーブの上でコトコトと煮込む。
ほどなくして美味しそうな香りが漂い、紫苑の空腹の胃を刺激した。
ぐうう…と腹のなる音が、静かな部屋に響き、ベッドで一緒に眠っていた小ネズミたちが驚いたように跳ね起きる。
そんなに驚かなくてもいいのにと赤面する紫苑に、ネズミがくっくっと笑いを漏らした。
紫苑の瞳が不思議そうにネズミを見る。
何だか妙に機嫌が良い。めずらしい。
ここのところ、苛立っているネズミばかり見ていたから、余計にそう思うのかもしれない。
(…苛立たせているのは、きっとぼく、なんだろうけど…)
昨夕の激昂するネズミをふいに思い出した。そっと毛布を引き上げて、表情を隠す。
怒るだろうと覚悟していた。叱られても仕方ないと思っていた。
彼の言葉は辛辣で時に乱暴だけれど、いつも真意をついていたから、返す言葉も見つからなかった。
だけど。

『あんたのそういうところ、本気で苛つく…!何もできないくせに、知識や道徳ばかり振りかざして! あぁそうだ、おれが一番嫌いなタイプの人間だ!』

瞬時、はっと息が詰まり、身体が硬直した。
『嫌い』という言葉の剣先が鋭すぎて、かわすことも出来ないまま、それは、ぐさりと紫苑の胸に突き刺さった。
自己嫌悪に陥ってる際中だっただけに、痛みはあっという間に胸いっぱいに広がった。気持ちは重く沈んだ。
何も今そんなことまで言わなくてもいいのに、と目前で向けられたネズミの背を睨めば、じんわりと悔し涙が溢れてくる。
泣いてしまうのも悔しくて、紫苑は唇を噛み締めて両の拳をぎゅっと握った。
『いいから、とっとと風呂に入れ』
冷たく命じられ、その後は、夕食の時も床についてからも、ずっと無言のままだった。心配そうにする小ネズミたちと紫苑の間で、ささやかな会話が成された程度だ。
なかなか寝付けず、身体がだるい、熱っぽいと気付いたのは、やっと眠りについてしばらく経ってからのことだった。
その後、どうやら一気に高熱に達したらしく、意識が朦朧としていたせいで、朝のことはあまりよく覚えていない。
何か喚いて暴れたことだけは、うっすらと記憶にある。
どうやら、何がなんでも仕事に行くと言い張ったようだけれど、実際のところは、そうやってネズミを困らせたかっただけなのかもしれない。
そんな子供じみた方法で、報復しようとしただなんて。
考えて、恥ずかしくなる。
「どうした?」
「えっ」
「顔が赤いぞ。熱が上がってきたんじゃないか」
「あ、いや。ちがうよ、これは」
弁解するより早く近づいてきた手に、赤らんだ頬を撫でられる。冷たい手にふれられて、紫苑の頬はますます熱を帯びた。
怒られることはしょっ中で、さすがにもう慣れてきてしまったけれど、こんな風に甘やかすようにやさしくされるのはごく稀で、おかげでちっとも慣れてはいない。
なんだか、どうしていいかちょっと困る。
思ったままの呟きが、つい口をついて出た。
「明日は、きっと雨だろうな…」
「は? 何だ、藪から棒に」
「きみがやさしい」
紫苑の言葉に、再び鍋を掻き回し始めたネズミが背を向けたまま答えた。
「おれはいつだってやさしいぜ? あんたを甘やかしてばかりいる」
「そうかな」
「そうだ。そのせいで、あんたが風邪をひいた」
「……えっ」
「馬鹿だからと侮っていた。反省している」
「どういう意味だよ、それ」
「そのままの意味だ」
「馬鹿は風邪を引かないっていうから侮ってた、ってこと?」
「なんだ、知ってるのか。せっかく教えてやろうと思ったのにな」
「それくらい、ぼくでも知ってる」
「あぁ案外賢い。いや、もともと頭は良いんだったな」
「頭でっかちって言うんだろう。知識ばっかりで実践が伴わない。何もできないくせに、知識や道徳ばかり振りかざして」
「わかってるじゃないか」
「きみの……一番嫌いな人間、なんだろ? ぼくは」
ふざけて言い合っていた筈が、ふいに語尾が震え、涙声になってしまった。
しまったと紫苑が慌てる。
別に、こんな風に言うつもりじゃなかった。
どんな人間を好きだろうが嫌いだろうが、それは彼の自由であって…。
「は?」
突然涙ぐんで言葉を詰まらせる紫苑に、ネズミが驚いたように振り返った。
「何だ、それは」
「何って、だから、きみが昨日、ぼくに」
「おれが? あんたに何か言ったか?」
「な、何かって」
ベッドの傍に近づき、いぶかしむように覗き込んで、ネズミの指が紫苑の眦に溜まった涙を拭う。
本気で驚いているような瞳に、紫苑が困惑したように瞳を瞬かせた。
「きみに、嫌いだって言われた。…あ、少し違う。きみに、嫌いなタイプの人間だって、そう言われた」
「おれが、あんたを?」
「もしかして…覚えてない?」
「覚えがないが」
あっさり言われて、紫苑が何ともいえない表情になる。
覚えてないと言うならまだしも、覚えがないと言われてはどうしようもない。
今日1日、熱に浮かされながら、ベッドの中で悶々としていたのはいったい何だったんだろう。
紫苑が脱力したように、はあと一つ溜息をつく。
昨夜は、たまたま少し心が折れかかっていて、その上体調も悪かった。だから、いつもより堪えたんだろうか。それだけのことだったんだろうか。
よくよく考えれば、その程度のことは今までも言われてきた気がする。
見かけと相反したネズミの口の悪さは、今に始まったことじゃない。
出逢った4年前のあの夜から、彼はこんな風だった。
鋭くて険しくて辛辣で粗暴で。
そして、たまにやさしい。
「…紫苑」
やや神妙な顔つきになって、ネズミが紫苑を呼んだ。ベッドの端へと腰掛ける。
「おれがあんたに何を言ったか知らないが。おれには生憎、あんたみたいなボランティア精神なんてものはこれっぽちもないからな。もしあんたが本気で嫌いで面倒だと思っているなら、どれだけ熱があろうが死にかけていようが、自分のベッドを半分譲ったりしない。それどころか、とっくに追い出してる」
「…うん」
「知識や道徳ばかり振りかざして何もしない人間は確かに嫌いだが、じゃあ、あんたはどうなんだ?」
「ぼく? ぼくが何?」
「何もしない人間なのか? そうだったか? だとしたら、昨日のことも間違っていたと後悔している筈だ。何もしないで放っておくべきだったと」
問い詰められて、紫苑が首を横に振る。
「ぼくは、間違っていたとは思ってない。でも、結果的に、きみやイヌカシに迷惑をかけた。ぼくを助けてくれた『彼』にも風邪をひかせていたかもしれない。軽率だった。それはすごく反省してる」
彼、と呼ばれて、床に寝そべっていた犬が、クゥンと鼻先を上げた。そんな心配などご無用だとそう言っているような顔に、ネズミがそら見ろと笑む。
「あんたは、方法は拙いながらも、ちゃんと動いてきただろう。ただの頭でっかちとは違う。そのことに、もっと自信を持てばいい。もっとも、おれに反論されたぐらいで怯むようなら、最初から何もするな」
「…何か、矛盾してる気もするけど」
「ああ、そうだな」
矛盾していることは、自覚している。だが、何もするなというのも、好きにやればいいというのも、どちらもネズミにとっては本心だ。複雑だが、それが真実だ。
短的に言ってしまえば、紫苑が無事ならどちらでも良い。そういうことだ。
「それに、あんたのお人好しが、気まぐれに、こんな結果を生むこともある」
言って、ネズミがぱさりと野草の束をベッドに投げた。
「これは?」
「扉の外に置いてあったぜ。森の奥で取れる薬草だ。風邪に効く」
「そうなんだ。でも、いったい誰が」
「さあな? だが、誰かがあんたのために、わざわざこれを取りに森に入ったってことは確かだろ?」
ネズミに言われ、紫苑が野草を手に取り、匂いを確かめる。
(そうか。ネズミの機嫌の良い理由は、これだったんだ…)
考えて、嬉しくなる。
ネズミが自分のことを想ってくれていたことが、たまらなく嬉しかった。
野草を届けてくれたのは、もしや、昨日のあの子だろうか。
笑いながら逃げて行ったと思ったけれど、紫苑が無事に岸に上がるのを、どこかで見ていてくれたのかもしれない。
冬のさなか、ずぶ濡れになってしまった紫苑に、少しでもその小さな胸が痛んだのなら。
それはそれで、良かったのかもしれない。
紫苑が思う。
もっとも、西ブロックではそんな痛み、返ってこの先、生きる邪魔になるのかもしれないが。
それでも、とネズミが思う。
うわべだけのものじゃない真直ぐで純粋な想いは、たまに、気まぐれに、人の心を揺り動かすこともある。
―こんな荒廃した西ブロックでも。
それを知った。
また、紫苑に教えられた。


「さあ、飯にしよう。起きられるか?」
「え、あ、うん…!」
ネズミの腕に支えられながら身を起こし、ベッドの端を椅子代わりに坐る。テーブルが近づけられ、ストーブも近くに移動した。
「寒くないか?」
「うん。平気」
「無理をするな」
言いながら、ネズミの手が、愛用の超繊維布を紫苑の肩に掛けてくれる。
「あ、ありがとう」
なんだか、やさしすぎて逆に居心地が悪いなと戸惑いながら、紫苑がストーブの上の鍋の中を首を伸ばして覗き込む。とたんに満面の笑顔になった。
「わあ、パン粥にしてくれたんだ。美味しそう…!」
紫苑のお腹は、すでに盛大に空腹を訴えている。
小ネズミたちも駆け寄って来て、紫苑の肩や膝に跳び乗った。
ネズミが木の器を取り、そこに粥を盛り付ける。歯がたたないほどの固いパンが、スープで煮込まれ、とろとろに蕩けていて、いかにも美味しそうだ。
「熱いぞ、気をつけろ」
器を渡されるなり、紫苑がわくわくと木の匙で粥を掬う。
「ん、あちっ」
が、一口食べる以前に熱さに悲鳴を上げて、粥の入った器はすぐさまネズミの手に奪われた。
「あぁもうあんたは…。寄越せ、冷ましてやる」
ネズミが一匙掬った粥にふうふうと息を吹きかけ、冷ましてくれる。
その何でもない所作がきれいで、紫苑はついぼんやりと見とれてしまう。
「何やってる。早く口を開けろ」
「へ?」
はたと気づくと、目の前に匙が差し出されていた。紫苑の瞳がそれをじっと凝視する。
「何だ」
「まさか、食べさせてくれるのか? ネズミが?」
天地がひっくり返るほど驚いて問えば、憮然とした声が返ってくる。
「あんたにやらせてたら朝までかかる」
「え、でも」
「嫌なのか? だったら良いが」
「え! いや、そんな、とんでもない!」
慌てて、紫苑がネズミの腕を掴んで、雛鳥のように大きく口を開けた。ネズミがフ…と笑むと、親鳥よろしくそこに冷ました粥を流し込む。
紫苑の口中に、まろやかな味が広がった。舌の上でパンが蕩ける。
西ブロックに来て初めて、頬が落ちそうなほどおいしいと言えるものを食べた気がした。
いや、今まで生きてきて一番かもしれない。(母さん、ごめん)
「うまいか?」
「うん、すごくおいしい…!」
きみが食べさせてくれるから余計に、と言おうと思ったが、それはやめた。
きっと照れたネズミは天の邪鬼になって、そんな調子の良いことが言えるくらい元気なら自分で食べろと、逆に匙を押し付けてくるに違いない。
思い、大人しく食べさせてもらっていれば、やけに満足げに微笑まれた。
口の端から溢れるスープを、ネズミの指が度々やさしく拭ってくれる。
なんだか、夢を見ているようだ。
「ずっと、熱が下がらないといいのに」
つい本音を漏らせば、あっという間にからっぽになった器をテーブルに戻し、ネズミがやれやれと肩を竦めた。
「冗談じゃない。この時期、熱さましの薬草を手に入れるのも一苦労なんだぜ」
「…いや。そういうことじゃないんだけど」
イヌカシにはずんで貰った金で買った葡萄の房を、二つに分けながらネズミが訊く。
「じゃあ何だ。理由は?」
「きみにやさしくしてもらえる」
片方の房を紫苑に手渡したところで、ネズミがぴたりと動きを止めた。
「…ママが恋しくなったんだろう、あんた」
「どうしてそうなるんだ。きみは母さんじゃない」
葡萄を受け取り、一つもいで、紫苑が口を尖らせる。
「当たり前だ」
その手からネズミの指が葡萄を奪い取ると、紫苑の口に放り込んだ。指先が唇にふれる。紫苑の胸がどきりと鳴った。
少しまだ固いが、種がないので食べやすい。
ネズミも同じように口に入れた。皮は薄いのでそのまま食べる。
「きみが母さんなら、こんな風にどきどきしないよ」
紫苑が、隣に坐ったネズミを見上げ、責めるように言う。
ネズミが表面上は変わりなく、内心ぎょっとしながら紫苑を見下ろした。
熱で潤んだ瞳がまっすぐにネズミを見つめている。桃色に染まった頬も、何だかやけに艶っぽい。
「あんたなぁ…」
言葉と同時に、盛大な溜息が漏らされた。
「言語能力の問題以前だ。もう少し、よく考えてからものを言え」
「うん?」
憮然として言われ、紫苑がきょとんと小首を傾ける。
やけに可愛らしいしぐさからフイと視線を逸らすと、ネズミは自分の葡萄を一つもぎ取り、再び紫苑の口へと押し込んだ。
「いいから、あんたは黙って食べてろ」
「う、うん」

テーブルの上では、同じく小ネズミたちが、じゃれるようにしながら葡萄にかじりついている。
鍋の代わりにストーブに置かれたケトルの口からは、白い湯気が細く上がり出している。
二人で並んで黙々と葡萄を食べながら、ネズミは、紫苑が西ブロックに来てからの数週間を思い返していた。

生きていく術をこの町で骨身に染みて体感しながら、それでも紫苑は、基本的には此処にきた当初と少しも変わらない。染まっていかない。
それをネズミは、心のどこかで誇らしく思っていた。
人は変わる。生活が荒めば心も荒み、物が無くなれば余裕が無くなる。
誰かを助けられる、救えるなどという甘い考えは、NO.6に住むような余裕が有る人間の驕りだ。
自分が生きることだけで精一杯のこの町では、誰だってそんな風にはいられない。
そう思っていた。
だけど、それでも紫苑は、たとえ自分の身を削ってでも、誰かを助けようとする。
罵られても、笑われても、皮肉られても、決してやめようとしない。
そうやって、目の前の人間に手を差し伸べずにはいられないのだ。
4年前の、あの嵐の夜のように。

「4年前の嵐の夜。もしも」
「…もしも?」
「あんたの部屋に飛び込んだのがおれじゃなかったとしても、あんたはやっぱり傷の手当てをして、シチューとケーキをご馳走したんだろうな」
一人言のような呟きに、紫苑がふっ…と目を閉じ、微笑を浮かべた。
情景を思い浮かべてみたのだろう。
「…そうだね。そうかもしれない。きっと、そうしたと思う」
その言葉にちくりと、ごく小さな痛みがネズミの胸を突いた。
「…あぁ」
そうだ、たぶん。侵入したのがネズミじゃなかったとしても、紫苑は助けただろう。
同じように手当てをして、同じようにケーキとシチューを振る舞い。
そして、同じように笑ったのだろうか。二人で。
手を繋いで。
「でも、あの夜出逢ったのが、もしきみじゃなかったら。4年もずっと、ぼくは想い続けてなかっただろうな…」
「…え」
ネズミが、はっと瞠目する。
「もう一度会いたいって、ずっと想ってた」
4年の想いを辿るように、紫苑が深い眼差しになる。その想いを溜めた瞳のまま、ネズミを見上げた。真直ぐに、これ以上なくまっすぐに見つめる。
「きみじゃなかったら、こんなに惹かれることもなかった。誰かを想って、心がざわついて、苦しくて泣きたくなることもあるんだって、きっと知らないままだった」
告白を終えて、緋色の瞳がしっとりと潤んで熱を帯びる。
見つめられたまま、逸らすことも出来ず、たじたじとしながらネズミが返した。

「…あんた。もしかして、また発熱してるだろう」

原因の違う熱かもしれないが。
いやむしろ、こっちの方が発熱しそうだ。
めずらしく、喜色が滲み出るのを押さえきれず、心中でネズミがごちる。
「うん、そうかも。何かふわふわしてる。あれ? もしかして、きみにも感染しちゃったかな。なんだか顔が赤いけど」
「ストーブを近づけたせいだ。よしてくれ、おれはあんたみたいにヤワじゃない」
片手をひらひらさせて、ネズミが、顔を覗き込んでくる紫苑から瞳を背ける。
「あ、でも良く考えたら」
「え?」
「あの夜の侵入者がもしきみじゃなかったら、怪我の手当てとかどうこう言う前に、ぼくは、あっさり殺されてたかもしれないんだ」
「…おい」
話題が変わったのはいいが、それこそやめてくれと真剣に思う。想像したくない。
確かに、その可能性は無きにしもあらずだが。
「きみで良かった」
紫苑がしみじみ言って、ふふっと微笑む。
あたたかな指先が、ふいにネズミの頬にふれた。熱を帯びた甘い指先。
「ぼくと出逢ってくれてありがとう。ネズミ」
「…紫苑」
見つめ、濃灰色の瞳が細められる。
無垢で純粋で真っ直ぐな好意。
だが、こういうのはおれだけにしておいてくれと切実に願う。
誰も誤解させるな、頼む。
ネズミの指が紫苑の細い顎へと伸べられた。軽く掬う。
そして、唇がそっと、一瞬だけふれ合った。
「おやすみのキスだ。そろそろ休め」
「……うん」
耳元で静かに囁かれ、はにかむように甘く笑んで、紫苑が肯く。
葡萄を食べ終えた紫苑の指先を拭い、空になった皿をテーブルに戻すと、紫苑の薄い背にネズミが掌を添える。静かに横たえた。寒くないように、肩までしっかりと毛布を掛ける。
さりげないやさしさに、紫苑がまた笑みをこぼした。
「イヌカシの天気予報じゃ、明日は午後から雨らしい。良かったな、犬洗い仕事はなしだ」
「それは良かった。これで、明日もきみに代わりに行ってもらわなくて済む」
「おいおい、おれはもう御免だ。早いとこ元気になって、あんたが行ってやれ。その方が犬共も喜ぶ」
ベッドの脇に寄せた椅子に腰かけ、ネズミが読みかけの本を手にする。
それを見て、クラバットとハムレットが、ネズミの肩へと駆け上がった。どうやら朗読をせがむ気らしい。
ツキヨは、紫苑のベッドへと潜り込んだ。
「ひさしぶりに、きみの朗読が聞きたいって」
「それは、あんたからのリクエストか?」
「ぼくと、それからクラバットとハムレット」
「大入りだな」
「頼むよ。ねっ、きみたちからも」
お願いしてよと言われ、小ネズミたちが前足を上げて、チチッ、チチッと声を上げた。やれやれとネズミが笑む。
「…陛下の仰せとあらば」
徐に本を開いて、ページを捲る。
ふと、ネズミの手が止まった。
「紫苑」
ふいに呼ばれ、紫苑が視線を上げる。
本で顔を隠すようにしながら、ネズミが言った。
「本を読む前に、言っておきたいことがある」
「何、あらたまって」
「あんたは、あんたのままでいい。器用になれないところは、おれが傍で助ける。だから」
「ネズミ…?」
「あんたは、そのままでいろ」
それだけだと言って、ネズミの手がページを捲る。しおりを挟んだところで止まった。
やや遅れて、うんと答える紫苑の声が涙でくぐもった。
ネズミは本を掲げると、『マクベス』の朗読を始める。
マクベスならすべて暗唱できる筈だが、今、本は手放せないのだろう。
そんなネズミに笑みを漏らすと、紫苑が横たわったまま、手を伸ばし、本を持たない側のネズミの手にそっとふれた。ぎゅっと握る。
ややあって、同じ強さで手が握り返されてくる。紫苑が嬉しげに微笑んだ。
あの夜も、繋いだ手から互いの想いが伝わっていた。
初めて出逢ったばかりの互いの手が、なぜだかとても大切に思えた。
誰よりもいとおしいと感じた。
それは、今も少しも変わらない。



きみのそばで、きみと見つめる明日がある限り。
ぼくは、ぼくで有り続けることができる。そう思う。
あの日からずっと、ぼくはそう思ってきたんだ。
そして、きっと、これからも、ずっと。





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はじまりの朝と、さよならの月夜(4)




これで良かったんだろうか…?
治安局との連絡を終え、その車を見送った後。
火藍は、リビングに戻ると、脱力したようにソファに坐り、凭れ込んだ。ひどく疲労していた。
長い1日だった。そして、夜はまだこれからが長い。
「…紫苑……」
どこにいるの。どうしているの。酷い目に遭っていたらどうしよう。怖くて泣いているんじゃないのかしら。
だけど、疲労は、息子の安否を心配する心痛とは、また別のものだった。
『ご心配なく。我々は、息子さんの身の安全を最優先にVCの確保に努めます』
治安局員は、神妙な顔で火藍にそう言った後、『場合によっては、VCは射殺しても構わない』と部下に命じた。
人質の安全を最優先に、と繰り返し続いた言葉に、なぜか火藍は強い不快感を覚えた。
VCを射殺する。
その口実を与えてしまったように感じたのだ。
どうしてだろう。
あの人たちは、息子・紫苑を犯罪者の魔の手から、確実に救出すると約束してくれている。
だのに、

『――心配するな。必ず無事返す』

背を向けた少年の言葉の方が、火藍にはずっと重みと誠実さを感じられた。
嘘は言っていない。そう思った。
紫苑とそう変わらない年頃の、こんな少年がVC? なんだか信じられなかった。
それに、言葉ほどの卑劣さも非情さも少年からは感じなかった。
それでも迷った挙句、治安局に『息子がVCの人質にされている。脅されている』と通報したのは、彼が火藍にそう告げたからだ。
治安局のやつらに伝えろ、と。
確かに彼は言った。
しばし逡巡する。
普通なら、逆じゃないだろうか? 
人質の命が惜しかったら通報するなと。黙って見逃せと、そういうべきじゃないのか。
そもそも、紫苑は治安局に疑われていた。
VCの隠匿と逃亡の幇助。自らそれに関与したのではないかと。
だが、人質として無理矢理連れ去られたのであれば、紫苑は間違いなく被害者だ。協力者ではなく、被害者である。
それを伝えろと言われた気がしたのだ。
彼は、紫苑を庇おうとしてる? まさか。
(……考えすぎかしら)
良い方向に考えすぎだろうか。判断は間違っていなかっただろうか。不安が募る。
それどころか、本当に脅されて連れていかれたのかもしれない。今まさに、酷い目に遭っているのかもしれない。
だけど、信じたかった。
一瞬だけ垣間見えた少年の灰色の瞳は、強い光を宿しながらも、ひどく穏やかに凪いでいたから。
人を愛することが出来る者の瞳だと思ったのだ。








シェルターの冷たい床で、すやすやと眠っている紫苑の髪の先に、ネズミが血の滲んだ指先をそっとふれさせる。
濃灰色の瞳が、穏やかに細められた。
そして、考える。
この感情は何だろう。
なぜ、どうしてこうまで、この少年のために懸命になっているのだろう。
不意に戒めのように、老婆のしゃがれた声が頭の隅の方で聞こえた。

よせ、ネズミ。近寄るな。
これは魔だ。
手を差し伸べてはならない。隙を見せてはいけない。
棄てろ。
今すぐ捨てろ。
この先も生き抜きたければ、捨てておけ。

(ああ、そうだ。その通りだ、お婆。わかっている)

決して荷物を背負いこんではならない。身軽でなければならない。
お婆は、そうも言った。
ならば、問いたい。今更だが。
なぜ。お婆はおれを背負って逃げた? 
おれはお婆の荷物じゃなかったか?
一人でも逃げられた。いや。一人の方がなお安全に逃げられた。その筈だ。だのに、なぜ。
誰かに託されたのだろうか。
最後の一人になった『歌う者』を護れ、と。
いつか『彼女』を鎮める歌が必要になった、その時のために。
強く生きぬく術を、この子に教えて――と。

じっと紫苑の寝顔を見つめて考えに耽っていたネズミの足もとで、ふいに小ネズミがチチ…と鳴き声を上げた。
はっとネズミが我に返る。
その眼下で、紫苑の長い睫が震え、ゆっくり持ち上がった。
丸い茶色の瞳が、きょとんと目の前のネズミを見る。見つめる。
あまりに凝視されるので、どうにも落ちつかなくなったネズミの方が、フイとバツが悪そうに視線を逸らした。
「ネズミ…!! 何それっ!」
「はっ?」
何が何それだと聞き返す暇もなく、紫苑ががばっと身を起こし、ネズミの両腕を強く掴んだ。突然のことに、ネズミがぎょっとなる。
「あー! もう何それ、何だよ、傷だらけじゃないか!!!」
「え、いや、おい」
「うわあセーターも泥だらけだし、ほつれてるし! あああ、あちこち血が出てて、もう、ひどい有り様だ!!」
盛大に嘆かれ、その言われように、ネズミがついむくれ顔になる。
ひどいのは、どっちだ。
「って、あんたな。いったい誰のために、おれがこんな…!」
言いたくないが、言いたくもなる。
が、紫苑はにべもなかった。
「そんなのいいから!」
「そんなのって、おい、紫苑」
良くない。ちっとも良くない。そんなのって何だ。
そもそも、あんたが追ってきたりしなかったら、こんな苦労などせずに済んだんだ。それを何だ。
ネズミが、心中で毒づく。
わざわざ言葉にしなかったのは、しなかったのではなく、そんな暇さえ与えられなかったせいだ。
「早く手当てしなくちゃ…!」
言いながら、自分のリュックを片手で乱暴に引き寄せる。小ネズミが紫苑の剣幕に驚いて、さっとネズミの肩に逃がれた。
それにしても、ぼくのためにこんなひどい怪我を…と泣きべそをかかれることを多少なりと想像したが〈期待したわけじゃない、断じて〉、相変わらず紫苑のリアクションは予想の斜め上をいく。
ネズミが辟易としているうちに、紫苑は再びリュックの中から救急セットを取り出すと、はいと手を差し出した。
「ほらネズミ、見せて」
「大した傷じゃない」
「わかってるよ、縫うほどの怪我はないって。でも消毒はした方がいい」
「縫うほどの怪我じゃなくて、残念だったな」
「強がり言ってないで、ほら、袖まくって」
「…あんた、おれのママかよ」
「うるさい、早く。バイ菌入っちゃったら大変だろ」
「今更だ」
「もうほんとに、ああ言えばこう言うんだから、きみは」
まるで昔からネズミを知っているかのような口調でそう言うと、救急ケースを開き、消毒液とコットンを取り出し、紫苑がてきぱきと手当てを始める。
「すっかり手馴れたな」
「きみのおかげでね」
「嫌味の言い方も板についてきた」
「それもきみのおかげだよ。ありがとう」
「へいへい、どういたしまして」
返して、ネズミが両肩を軽く竦める。
「それにしても、もうっほんとに、こんなにケガして血だらけで。ぼくのあげたセーター、台無しじゃないか。沙布にもらった誕生日プレゼントなのに、もうこんなにぼろぼろにしちゃって」
「…あーそー、悪かったよ。何なら今すぐ脱いで返すぜ」
「いいよ、今更返してなんかいらないから。きみにあげたんだし、それに」
「それに、何だよ」
「セーターより、きみがぼろぼろの方が、ぼくは」
ぶつぶつ文句を言っていた口が、そこまで言って、きゅっと真一文字に結ばれた。そのままぐっと息を止め、無言になる。
「紫苑?」
「何でもない」
「なんだ、泣いてるのか?」
「泣いてないよ、ばか!」
涙ぐんでしまいそうになるのをぐっと堪えて、目許を赤く染めた紫苑が怒鳴る。
そして、そんな自分に自分で驚いたかのようにはっとなると、慌てて口をつぐんだ。
「ごめん、怒鳴るつもりじゃなかった」
「いや、あんた、怒った顔もなかなかいけてる」
「茶化すなよ」
「褒めたつもりだが?」
「…心配、したんだ」
俯き加減に、紫苑が小さく呟くように言う。ネズミがすっと瞳を細めた。
「小ネズミと遊びながらか?」
それでも口調は変わらず、からかうように言われて紫苑がむっとなる。
「小ネズミと遊びながらだって、心配はできる」
「へえ、開き直りも覚えたんだ」
大したもんだと笑われて、ますます紫苑の頬がむくれて膨れた。
それが面白くて、怒らせると知りながらも、ネズミはついからかってしまう。無意識の照れ隠しであることには、まったく自覚なく。
そんなネズミを睨むように上目使いで見上げると、紫苑が報復のように、消毒液を含ませたガーゼをぺたん!と腕の傷口へと勢いよく押し当てた。
「てっ、おい、乱暴だな」
「この程度で大袈裟だよ」
紫苑がさらりと返して、包帯を取り出し、くるくると腕へと巻き付ける。手際がいい。
自分ならこんなにきっちりと巻けないなと思いながら、ネズミがつい紫苑の手元を見入ってしまう。 
「彼が行くなって伝えにきた。ネズミがそう言っているって」
彼と呼ばれて、小ネズミが前足を上げてチチッと鳴き、紫苑を見上げた。肩口へと駆け上がり、肯定のようにまたチチ…と鳴く。ネズミが、いぶかしむように眉を寄せた。
「言葉、理解できたのか、あんた」
「言葉…なのかな。よくわからないけど、確かにそう言ってるってわかった。だから、待つって決めたんだ。きみとも約束したしね、信じて待つって。でも」
「でも、何だよ」
「知らなかった」
「何が」
「ただ待つだけが、こんなにつらいって」
手を止め、絞り出すように言って、ぎゅっと唇を噛む。肩で小ネズミが見守る。ネズミは、一瞬詰めた息を吐き出した。予想外の言葉だった。
もっとも、紫苑の言葉はネズミにとって、ほとんどがそうだけれども。
「あんたがちょろちょろしたところで、この小ネズミほども役に立たない。此処で大人しくしてくれてて正解だ」
淡々とネズミが返す。
怒るかと思ったが、紫苑はそうだねと呟くように答えただけだった。
ネズミが、ふとその横顔を見つめる。
何か決意めいた光が、垣間見えた気がしたのだ。紫苑の瞳の中に。
「…紫苑?」
「はい、手当て終わり」
包帯を巻き終わり、先を結んでハサミで切る。問おうとするより早く、紫苑が笑みを返し、救急ケースが閉じられた。
何かはぐらかされた気分になりつつも、ネズミが『あぁ…』と肯いて返す。
「あ、そうだ。おなかすいてない?」
「は? ああ。そりゃあ」
「だよな。よし、じゃあ、晩ごはんにしよう」
笑顔で言って、紫苑がリュックの口を大きく開き、ごそごそと中を物色し始める。
ネズミが、目の前でくるくると変化する紫苑の表情に、我知らずと笑みをこぼした。
まあ、良い。こういう顔をしてくれていた方が、心がざわめかずに済む。
ネズミが、今巻かれたばかりの包帯の白さを見つめ、安堵のように瞳を細める。
そんなネズミの胸中も知らず、紫苑は広げたランチョンマットの上に、楽しげに食べ物を並べ出した。知らないうちに、ペーパートレイや紙ナプキンまで登場している。用意周到だ。
「えーと、ロールパンとハムとスライストマトとチーズと、ハッシュポテトにフライドチキンと、あとリンゴにクッキーとチョコレート…」
「あんた、何それ。本気でピクニックのつもりか?」
「とりあえず、朝ごはんの用意が冷蔵庫にあったから、母さんには悪いけど、それを拝借してタッパーに詰めてきたんだ。あ、カフェオレは、母さんが寝てからぼくが作った。飲む? ちょっと冷めてるかもしれないけど」
言って、携帯用のポットから蓋になっているカップにカフェオレを注ぎ込む。湯気が上がった。
「甘そうだな」
「ココアほどじゃないけど。はい、どうぞ」
「どうも」
一口飲んで、ネズミが息をつく。あたたかい。ちょうどよい甘さだ。
「おいしい?」
「あぁ、うまい」
「良かった」
「あんたも飲む?」
「うん、ありがとう。飲む」
カップが一つしかないため、3口ほど飲んで、紫苑の手に戻す。ネズミの唇がふれたのとほぼ同じ位置に、紫苑はそっと唇を寄せた。
ネズミがはっとし、慌てて一点を凝視していた瞳を逸らした。
(何を見てるんだ、おれは)
頬のあたりが熱く、胸の鳴る音も、なぜだかいつもより大きく聞こえた。
隣でネズミが一人赤面しているとも知らず、紫苑が、こくりとカフェオレを飲んで満足げに微笑む。その肩で、チチッと小ネズミが鳴いた。
「ん? おまえも、おなかがすいたのかい?」
葡萄色の瞳が紫苑を見つめ、チチチッと鳴く。
「わかった。ほら、チーズがあるよ。食べるだろ?」
チーズを小さな一かけにして手渡すと、小ネズミは鼻先を紫苑の頬に寄せ、嬉しそうに声を上げた。
「わ、あはは、わかったわかった、くすぐったいよ! お礼はいいから、早くお食べ」
楽しそうに笑いながら小ネズミと戯れる紫苑に、ネズミが眉を潜めてそれを見つめる。
「え、何?」
「いや。そいつ、おれ以外の人間には慣れない筈なんだがな」
「え、そうなの?」
信じられないというように、紫苑が自分の肩先にいる小ネズミの額を撫でる。小ネズミは指にじゃれるように前足を上げると、また嬉しそうにチチッと鳴いた。
「まあ、いい。とにかく腹ごしらえだ」
「うん! さあ、ぼくらも食べよう」
紫苑が、切り込みを入れたパンにスライストマトとハムを挟んでネズミに手渡す。同じように自分の分も作ると、二人同時にパンにかぶりついた。
何しろ、今朝から何も食べていないのだ。今まで空腹を忘れていられたのが不思議なくらいだ。
マットの上にセットされた食べ物は、おやつ類とりんごを残して、あっというまにたいらげてしまった。
最後のチキンを口に放り込み、油のついた指を舐める。ネズミがそうするのを見て、紫苑も同じようにした。火藍が見たら、行儀が悪いときっと笑うだろうけど。
「はぁ、おいしかった」
「あっというまに食べちまったな」
「うん。おなかすいてしね。ぼく、おなかが鳴る音って初めて聞いたよ」
「お幸せなことだ。NO.6の坊っちゃんには、人が極限の空腹に陥った時、いったいどんな行動を取るかなんて、まったく想像もつかないだろうからな」
「…どういうこと?」
「あんたは聞かない方がいい。せっかく食ったものをリバースされちゃ堪らない」
だったら言うなよ…と小さく反論して、紫苑が壁に凭れて膝を抱える。
おやつ類は、またリュックにしまい込んだ。
日もちの良い食料は、これから重宝する。少しずつ食べなければ。
「ところで、これからどうするつもり?」
同じく壁に凭れるネズミに、紫苑が尋ねる。そういえば、どこに向かうのかさえ、まだ聞いていなかった。
「いつまでも此処にいたって埒があかないからな。明日の朝、ここを出て地下水路の入り口へ向かう」
「入り口って、どこにあるんだ?」
「この丘のずっと下った辺りだ。クロノスの西の端。つまり、あんたのせいで、おれは真逆に来ちまったわけだ。登る必要のない丘を登って」
「あ、そうなんだ。ごめん」
悪びれず、さらりと詫びられて、ネズミがやれやれと両の肩を竦める。まったく責め甲斐がない。
「目的地までは、クロノスの居住区を横切ることになる。この際だから、人気の多い時間帯を選ぶつもりだ」
「クロノスの人たちが行き交う、その中に紛れて移動するのか」
「そうだ。高級居住区の住人たちを危険に晒すわけにはいかないからな。居住区内では、やつらも下手な手出しはしてこない。あんたという、大事な人質もいるしな」
「えっ」
「そうあんたは、地下水路の入り口に辿りつくまで、おれの人質になってもらう」
「だいじな、人質…」
「待て」
ネズミの顔が、一気に怪訝そうになる。
「え、何?」
「あんた、おかしいだろ。何でそこで顔を赤くする必要がある」
「え、えっ? いや、別に、そんな、ことは、ただその…!」
なんだ、そのリアクションはと指摘されて、どうやらうっとりした表情をしたらしいことは自分でも想像がついた。
紫苑が慌てて弁解する。
だけども、『大事』という言葉と、『人質』という危険で甘い匂いがするワードに反応してしまったのは間違いなかった。
真っ赤になっている場合じゃないのに。
だが、その甘い幻想も、僅かな時間で憂いに変わった。
そこまで、ということは、そこから先はない。
ネズミの言葉は、案にそういうことを含んでいる。
「そこで、あんたと分かれる」
きっぱりと宣言され、紫苑の胸はずきりと重い衝撃を受けた。
言葉が胸に突き刺さる。本当にそういうことがあるのだと、紫苑は12年間生きてきて初めて知った。
わかっている。わかっていた。
だけど。
現実として突き付けられると、あまりにもつらい。
無言になってしまった紫苑を、ネズミの濃灰色の瞳がちらりと視界の隅で窺う。
腕で自分の体を抱くようにして項垂れる紫苑に、ネズミもまた視線を落とした。
仕方が無い。
どう考えても、地下の下水道を紫苑を連れて移動することは不可能だ。まちがいないく足手纏いになる。
きれいなところでしか生きたことの無い温室育ちの坊っちゃんに、汚物と悪臭の中を走らせるなどどう考えても無理だ。
仮に下水処理場まで辿りつけたとしても、その先はもっと過酷なのだ。
いづれ別れるなら、断然、紫苑の身がより安全な方法が良い。
朝の人の流れのある時間帯なら、治安局もそうそう強引な真似は出来ないだろう。
犯罪がないと人々に信じられているこの聖都市で、まさか治安局自ら、銃を携えて子供を狙い撃つなど有り得ない。
だから。
そこで、お別れだ。
「寒いのか?」
「え。あぁ、うん」
めずらしく、やさしく声をかけられて、紫苑がはっと顔を上げる。気遣うようなネズミの声音に、無理にでも薄く微笑んでみせた。
「さすがに、夜になるとちょっと冷えるね。あ、そうだ」
言うと、リュックを引き寄せ、一番底の方へと手を差し入れる。引き出されたものに、ネズミが呆気に取られてそれを凝視した。
「やっぱり持ってきて良かった。薄手だけどあったかいんだ、このブランケット」
「あんたのリュックの中は、いったいどうなってるんだ。まさか4次元に繋がってるのか?」
「まさか。そんな魔法のリュック、あったらぼくも欲しいけど。きみ、そっち持って」
「って。まさか一緒に被れってのか。おれは必要ない」
「遠慮はいらない。一緒にくるまった方があったかいだろ。はい、持って」
「…あんた、本当強引だな」
「うん。自分でも驚いてる」
「あぁ?」
「今まで、そういうことなかったから。本当、きみといると、自分でもびっくりすることばかりだ」
しみじみと言って、紫苑が微笑む。
「きっと、誰かとそんな風に関わったことがなかったせいだろうな」
沙布の意見に微笑んで肯き、友人たちの意見にも特に反論もせず、ただ微笑んでいた。
それは違うんじゃないかと思っても、押し切る力に反発するほどの熱い気持ちもなかった。
きっと紫苑にとっては、さほど重要じゃない、言ってみればどうでもいいことだったんだろう。
そんな煮えきらない態度に付け込むように、クラスメイトの男子たちは、紫苑に面倒な係や役割を押し付けた。
それでも微笑んでいた。
別に嫌じゃなかったし、面倒だなあと少し思う程度のことだったから。断る理由も思いつかなかった。
だけど、沙布はそのことにしょっちゅう立腹して、他の男子らとやり合った。
あんたたち、ずるい、卑怯、いい加減にしろ。
だのに、紫苑はといえば、激高する沙布の後ろで、ただおろおろするだけだった。
その後、男女逆転カップルなどとからかわれたり、ひどい時はノートにいたずら書きをされたり、無視されたりもした。
もしかするとあれは、俗に言う『いじめられていた』ということなのかもしれない。
でも、正直、どうでも良かった。
その程度には、他人に無関心だったのだろう。
「あんた、やっぱり変わってるな」
渋々持たされたブランケットの端を肩に掛けて、ネズミが言う。
「そう? そうかな。そんなこと今まで言われたことないけど」
「周りの目が節穴ってことさ。あんたみたいに変わってるやつ、そうそういないだろ」
「うーん。NO.6には、ってこと?」
「NO.6以外でもだ。稀少価値だぜ」
言って、ふっと笑う。何かを思い出したらしかった。
きっとあれだ。ゆうべ台風のさなか、絶叫していた紫苑の姿を思い出したにちがいない。
紫苑は軽く赤面すると、ぷいとネズミから顔をそむけた。
そしてふと。ずっと聞いてみたかったことを口にした。
「ネズミ。きみは、いったいどこから来たんだ?」
「聞いてどうする」
隣で笑っていた顔が、急に真顔になる。
紫苑ならずとも、ネズミもまた短時間で表情がよく変わる。たぶん、本人は少しも意識していないだろうけど。
「聞いちゃマズいのか」
「別に。だが、あんたの知ったことじゃない。おれが何処から来たのか、何処に行くのか」
「ぼくには関係ない?」
「ああ、そうだ」
「でも」
「でも、何だ」
「知りたいんだ」
「は? 何だって」
「きみのことが、もっと知りたい」
頬がくっつくほどの至近距離で、紫苑のまっすぐな瞳が濃灰色の瞳を見つめる。
今まで何もかもに無関心だったことが嘘のように、紫苑のすべての関心は、今、目の前のネズミに集中していた。
心の奥底でずっと眠っていた、紫苑の好奇心が疼く。
知りたい、知りたい。どうしても知りたい。一部じゃ嫌だ。全部知りたい。
ネズミ、ぼくは、きみの全部が知りたいんだ。
それは一度覚醒してしまったら、留まることを知らなかった。
懸命なほどまっすぐに見つめてくる瞳に、表面上は淡々とネズミが返す。内心は、かなりたじろいていた。
「知ってどうする」
「ただ、知りたいんだ」
「だから、知って、それでどうするつもりだ」

「ぼくも、きみと行く」

口調は強く、きっぱりとしていた。
「――今。何て言った?」
空耳か?
再度、問う。
だが、空耳でも幻聴でもなかった。
「きみと一緒に行くことにした」
「……は?」
近くで聞こえた筈の紫苑の声が、ネズミの鼓膜を突き破って、脳内で遠くこだまする。雷鳴のようだ。
「きみをここで待つ間、ずっと考えてた。どうしたら、もっときみと一緒にいられるだろうって。でも、よく考えたら簡単なことだった。ぼくが、きみの行くところについて行けばいい」
ネズミが呆気に取られる。
驚きのあまり、嘲笑さえ出てこない。
「…あんた、正気か?」
「もちろん」
自信たっぷりな紫苑の言葉に、ひとつだけわかったことがあった。
一人で此処において行ったのは、どうやら失敗だった。
小ネズミが、その足元で肯定のようにチチッと鳴く。
ネズミは、脱力したように肩で大きく溜息をついた。
いったい何度めの溜息だろう。
お婆。おれはいったい何度、禁を破った? 内心で問う。
「おれは、まだあんたに、どこから来たのかもどこに行くのかも言っていない。なのに、よくそんなことが言えるな。さすが、NO.6育ちの人間は違う。まったくもって、無知で傲慢で鈍感…」
「西ブロック」
「え?」
「そうなんだろ? きみが向かおうとしている所」
ネズミの目が、瞬時に小ネズミをぎろりと睨みつける。小ネズミははっとなると、違う違うと反論するように声高に鳴き、頭を激しく上下させた。
「あ、彼に聞いたわけじゃないよ。ただ、きみが向かっていたルートと方角から推察して、地下の廃棄ルートを使うつもりなら、向かう先は西ブロックしかないかなと思ったんだ。もし、地下でどこかに枝分かれしたルートがあるのなら別だけど」
ネズミがやれやれと肩を落とし、頭を抱えた。これだから、頭のいいやつは厄介だ。
「なら聞くが、西ブロックがどんなところか、あんた知ってる?」
「治安がひどく悪いって聞いた。あと生活環境も劣悪だ、と」
「その通りだ。貧困と暴力が横行する町。銃の所持が許されているのは、ここNO.6じゃ狩猟クラブだけだって、あんた言ったよな。だが西ブロックじゃ、おれたちより小さい子供が銃を持ち、場合によっちゃあ、それで相手を射殺する。そうでもしなくちゃ生きていけないからだ。自分が生きるために、他人の命を奪う。生きることに貪欲なやつだけが、明日も生きられる。そんな町だ」
辛辣な言葉に、紫苑の眉がしかめられる。表情が曇る。
確かに、想像もつかない現実があるのだ、NO.6の外には。
「あんたなんか、それこそ1秒と持たずに殺されてる」
そして、ネズミの言う、それもまた現実なのだろう。
だけど。
「それでも」
きっと顔を上げる。
だからこそ、知りたいのだ。
『現実』を、この世界の本当のすがたを。
自分の目で確かめたい。ネズミの傍らで体感したい。
このNO.6が紛いものの世界なら、リアルというものがどんなものか知りたい。

「ぼくは、きみと行く。もう決めたんだ」

そこにどんな困難が生じても。危険だらけだとしても。
「たとえ、たった数秒の人生だとしても。きみと離れて、永遠を一人で生きるよりはずっといい」
赤面しそうな告白の言葉に、ネズミはあきらめたようにただ笑んだ。
「…好きにしろ」
「いいの?」
当然来ることを覚悟していた罵詈雑言は、予想外なたった一言であっさりと決着した。
やや肩透かしな反応に、紫苑が思わずきょとんとなる。
「ああ、勝手にすればいい。ただし、おれがあんたの身を守るのは、地下水路の入り口までだ。そこから先のことはおれは知らない。あんたが勝手に追ってきて転ぼうがおれを呼ぼうが、おれは顧みない。あんたを助けない。おれはおれで勝手にやる。ここまできて捕まるわけにはいかないからな」
「うん、わかってる。脱落したら、そこで置いていってくれて構わない」
「まあ、いい。あんたが『現実』ってもんを知るいい機会だ」
「どういうこと?」
「下水処理場の汚水の中を泳ぐんだぜ。顔も手足も口の中まで汚れた油やヘドロでべったべたになって、しばらく目もろくに開けられない。清潔な水しかしらないあんたにそんなことができるか?」
「それは…やってみなくちゃわからない」
「そう思うところが、お坊っちゃんなんだ」
そこまで言って、何となく察した。
本気にされていない。
ネズミは、本気にしていない。口だけだと思っている。
やってみて、どうしようもならないと知ったら諦める。そう思われている。見くびられている。
もっとも、本当にできるかどうかなんて、紫苑にさえわからないのだが。
だが、やりもしないで出来ないと尻ごみするのと、実際やってみて出来ないのは違う。
やってみせる。ネズミと一緒に、逃げきってみせる。
決意のように、ぐっと拳を握りしめる。
その腕に、昨日まで紫苑のすべてを管理していたIDブレスレットはもうない。
「紫苑、IDブレスレットのことなら心配ない、あれは」
言いかけたネズミの言葉を、紫苑は笑顔で遮った。
「あれは、もういいんだ」
もしかすると、あれがないせいでクロノスには帰れない。紫苑がそう案じているのでは、とネズミは思ったようだった。
だが、違う。ブレスレットがあろうがなかろうが、選択は変わらなかった筈だ。
「いいって、紫苑」
「取って、手首が軽くなってせいせいした。だから、もういらないんだ」
手首をぶらぶらさせて笑む。
事実、ブレスレットのなくなった腕は、手枷を外されたかのように自由だった。





「星、きれいだね」
「…ああ」
「こんなにあるんだ。星って。知らなかった」
「あんたらの生活じゃ、夜に星を見ることもままならないのか」
「夜間の外出は市の許可がいるし、夜に窓を開けると侵入者と間違われてセキュリティシステムが誤作動を起こすんだ。母さんは、それが嫌で、時々システムそのものをオフにしてた」
「なるほどな。ま、それでも、この都市で見える星空なんて、おれに言わせれば全部紛いものだ」
「どういう意味?」
「天空には、星なんて、もっと無数にあるってことさ。光をまとった街の中からじゃ、遠い光なんて見えやしない。せいぜい2等星どまりだろ」
「きみの住んでる処からなら見えるのか? もっと小さい星も」
「ああ。弱い光もはっきりとな。闇が深ければ、たとえ消え入りそうな光でも自然と目に入る」
静かに言う横顔を見つめ、ふいに紫苑が呼ぶ。
「ネズミ」
「何だ」
「手、繋いでいい?」
「なんで、手なんか繋ぐ」
「いちいち理由がいるんだな、きみは」
「はーん」
「なんだよ」
「こわいんだ?」
「えっ」
「こわくなってきたんだろ」
「え、違うよ、何を言ってるんだ、そんなわけ…!」
「じゃあ、あれだ。ママが恋しくなってきたんだ」
「それもちがうっ! もうきみは本当に」
「何だよ」
「鈍感」
「はぁ?どうい意味だ」
「もういい」
「何、怒ってんだ」
「別に。もういい、寝る」
「…へんなやつ」
「あ、でも、やっぱり手は繋ぐから。左手貸して」
「って、おい…! まったくあんた、本当に強引だな」
「うるさい、おやすみ」
強引にブランケットの中で手を繋ぎ、紫苑が壁に凭れたまま、くるりとネズミに背を向ける。
チチっと小ネズミが鳴き、ネズミではなく、紫苑の側のブランケットの内にささっと潜り込んだ。
呆気に取られている間に、僅か数分もしないうちに、やわらかな寝息が耳に聞こえてくる。
ネズミは、くくっと笑いを噛み殺した。
寝つきの良さは、超一級だ。大したもんだ。
よくぞ、こんな状況下で、しかもあたたかなベッドもやわらかな布団もない場所で眠れると感心する。
お坊っちゃん育ちのくせに、案外図太い。逞しい。
こんな神経の持ち主なら、もしや大丈夫なんじゃないか?
無意識に、ふと考えてしまい、はっとなる。
即座に打ち消した。
何が大丈夫なんだ? まったく甘いことを。
甘ちゃん坊やに触発されたか。しっかりしろ、ネズミ。
自身を心中で叱咤する。
そんな筈がないだろう。
そもそも人間が生きられる環境下じゃないあの場所で、すべてが整えられ、何不自由なく暮らしてきた紫苑が生きられるわけがない。
到着して僅か数分で、クロノスに帰りたい帰してくれと泣きつかれ、困り果てるのがオチさ。
(…それに、約束もある)
こいつの母親に。
必ず無事返すと、約束した。
約束は違えない。
それは、たった一つ。ネズミが生きる上で護ってきた、自身に課せた掟のようなものだ。
出来ない約束なら最初からしない。守る気のない約束もしない。
それが故に、今まで誰かと交わした約束は、片手の指で充分足りるほどの数だ。
だからこそ。守らねばならない。絶対に。
あの母親は、こちらの思惑通りに動くだろうか。いや、思惑などに気付かなくていい。
子が命の危険に晒されていると知ったら、誰だって助けを求める、守ろうとする。その衝動のまま行動してくれればいい。
治安局は、紫苑をVCの協力者ではなく被害者と断定し、もし万一しくじって捕らえられた時でも、紫苑だけは無罪放免、無事母親の元に帰されるだろう。
それでいい。
無論、しくじるつもりなんてない。何が何でも生き延びる。そのための逃走なのだから。

眠ってしまった紫苑の肩から、ブランケットの端がずり落ちかけている。直してやろうと、繋いだ手を離そうとすると、身じろいで、やけにかなしそうな顔をされた。
舌打ちし、紫苑の右手を自分の右手に持ち代え、自由になった左手で紫苑の肩を抱くようにしてブランケットを掛けた。
その動きに誘われるように、紫苑の身体がネズミにぐらりと凭れかかり、頬がネズミの肩へと乗せられる。
やわらかな息が、ネズミの頬を甘く掠めた。
紫苑の肩を抱くネズミの手に、ぎゅっと力が込められた。
そっと。
ためらいがちに、一瞬だけ、そっと。
唇を重ねる。
刹那の口づけに、胸の奥は切なく痛んだ。


紫苑と、もしも一緒にずっといられたら。
笑って暮らせるのだろうか。
もう一人のつめたさにうちひしがれることもなく。


いや、幻想だ
人が冷たさに打ちひしがれるときは、ぬくもりがなくなった時だ。
失ったものがあるから、その冷たさにうちひしがれる。
だったら、最初から無いほうがいい。
失うものがなければ、温もりを知ってしまわなければ。
冷たさに泣くこともない。


でももう。
手遅れじゃないのか…?


紫苑はあたたかい。
ネズミは、それを知ってしまった。
知らなかった頃にはもどれない。
しらなかったふりなんて、できない。


幻想を抱いている。
紫苑と二人で西ブロックに戻り、お婆が見つけてきたあの本だらけの部屋で、二人一緒に暮らす夢を。


手放したくない。離れたくない。ずっとこのままこうしていたい。
心の中で誰かが懸命に叫んでいる。



だが、ネズミは敢えてその声に、きつく耳を塞いだ。




西ブロックで見上げる夜の空は、空気が凛と張りつめていて澄んでいて、そこに無数の星があることを教えてくれる。
だが。
NO.6で見る夜空も、まんざらじゃない。
紫苑の体温を腕の中に抱き寄せ、髪の先にそっと口づけて、ネズミは濃灰色の双眸に星空を映した。


この空を、星のさざめきを、永遠に忘れないように――と。













(つづく)



コメントお返事

11・1にコメントくださった方。
お返事遅くなってごめんなさい!
ネズ紫を求めてきてくださって、そして、SS読んでくださってありがとうございます!
おおお、泣いていただけただなんて光栄です…!
なんだか感情にまかせて書いているような内容ばかりですが、そんな風に言って頂けると本当に励みになりますvそして、なんと書店さんで本までご予約くださったとか…!
うわあ、ありがとうございます嬉しいです!!
先日納品しましたので、7日付けで販売開始していただいてます。
お待たせいたしましたが、もうそろそろお手元に届くのではと…!
よかったら、感想などぜひぜひお聞かせくださいませ。
少しでも楽しんでいただけたらしあわせですvv

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あ、toi8さんのコンプリートワークスも出るんですよね。こちらもすごい楽しみです…!!



そして『聖なる祝日』。
土曜日だし、きっと仕事だろうし無理だよね…と、応募券を持っていながら応募さえしなかった私ですが…。
そういう日に限って仕事休みだったりして(涙)
でも聞くところによると凄い倍率だったらしいので、当選自体かなり難しかったと思うのですが、落選なら落選でまた諦めもついたのになあ…とか。
ちらちらとネット徘徊してレポを拝見していたのですが、とても素敵なイベントだったようですね…!
あああ、どうか出来ればノーカットでDVDにしてほしいです、してださい…!!
あ、けどエメさんのネットライブは無事見られましたよ!!
まさか、聖なる祝日のイベント会場からのサプライズライブとは思ってもみませんでしたけど…!
新曲すごい素敵で、歌詞も切なくて(紫苑…!)、思わず密林でぽちってきました!
発売が待ち遠しいです!!

Re:pray/寂しくて眠れない夜はRe:pray/寂しくて眠れない夜は
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継続が決定したそうで!!!!!!
もうすごくすごく嬉しいです…!!!
今後毎月一回の配信になるようですが、CDになるのも嬉しいけど、もうラジオで聴けないんだ…ととても寂しかったので、心の底から嬉しいです…!!
Webラジオ聴いたのって初めてでしたが、お二人が作品や紫苑やネズミについて熱く語ってくださるのが、聴いててすごく楽しかったし、毎回更新が楽しみでした。
ラジオの最終回で、ネズミの声で「再会を必ず」と言ってくださったのが、アニメでは聴けなかったから余計に嬉しくって号泣しましたし…!
とにかく良かった…!! 続報が楽しみです!!
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