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透明トライアングル(SCC新刊サンプル)

5/4 SUPERCOMICCITY21発行の新刊サンプルです。
『西ブロックのネズミの家に、矯正施設に捕らわれてるはずの沙布が力河に連れられ、やってきた。いぶかしみながらも、ネズミ、紫苑、沙布の三人の奇妙な同居生活が始まった。紫苑を間において火花を散らせるネズミと沙布に紫苑は…。』
サンプルにはありませんが、R18内容も含みますのでご注意くださいませ。

とらさんで書店販売の予約がはじまりました→http://www.toranoana.jp/bl/article/04/0030/04/12/040030041270.html

★5/4 スパコミ東1ホール/キ-2a 「長屋&アイツウシン」
当日風太本人は仕事のため、欠席です(涙)















「それにしても、すごいね、沙布は。これだけの食材でこんなにお美味しいスープを作れるだなんて。きっとネズミも驚くよ」
「そう? ふふ、お料理はね、ちょっとばかり自信があるの」
ストーブにかけた鍋の中で、沙布の作ったスープがコトコトとやさしい音をたてている。
テーブルの皿の上には、ネズミが買ってきてくれたパン。ちゃんと3人分ある。
護衛の犬も増やしてくれた。買い物も仕事前に済ませてくれた。口では皮肉げなことを言いながらも、こういうところは本当にネズミはやさしいと思う。紫苑の口許が自然と微笑む。
「それにしても、ぼく、沙布がこんなに料理上手だなんて、ちっとも知らなかった」
「NO.5にいる間に覚えたの。家ではおばあちゃんが何でもやってくれたし、わたし、何もすることがなかった。今思えば、留学して良かったわ。いろいろ経験できたもの」
「うん、そうだね。経験するって大事だものね」
「ええ。でも、その分、おばあちゃんには、淋しい想いをさせちゃったけど」
「…沙布」
スープを丁寧にかき混ぜながら、沙布が少しかなしそうに笑む。たった一人の肉親を失った後で、こんなことに巻き込まれたのだ。さぞかし、心細い想いをしてるんだろう。
気丈に振舞ってはいるけれど、本当は不安で堪らないに違いない。思い、丸みのある肩に、そっと手を置く。
彼女のために何かしてあげたい。力になりたい。
ぼくの大切な親友のために、ぼくにできることがあれば何だってしてあげたい。
できれば、このままずっと、こうして3人でいられたら。無理なこととは知りつつも、望んでしまう。
「あなたはどうなの、紫苑」
黙り込んでしまった紫苑を傍で見上げ、唐突に沙布が問いかけた。紫苑がはっとなる。
「え?」
「わたしがいなくて、少しは淋しかった?」
「え…? うん。それはもちろん…!」
「へーえ、そうかしら?」
悪戯っぽく顔を覗き込むようにして、沙布が後ろで手を組む。紫苑の瞳をじっと見つめた。見透かすように黒い瞳に見つめられて、紫苑がたじたじと後退する。
「な、何だよ、当たり前だろ」
「嘘。わたしのことなんか、すっかり忘れてたんでしょ?」
「そんなことないよ!」
「じゃあ、留学前にわたしに言った言葉もちゃんと覚えてる?」
「留学前?」
「”2年経ったらぼくから尋ねる”」

『セックスしないかって?』

あの日の沙布の言葉が、鮮やかに紫苑の脳裏でリピートされる。一瞬で頬が熱くなった。
忘れていたわけではない。当然ない。
だけども、今改めて思い出した。
そうだ、あれを言ったのは、目の前にいる沙布だ。
「―あ。お、覚えてるよ」
「だったら。今、尋ねてもいいのよ」
ずいっと詰め寄られ、さらに紫苑が後ずさる。
「2年経ってないよ…」
語尾が上擦る。
「留学から帰ってきたら尋ねるって言ったわ。帰ってきたわよ?」
「帰ってきたっていうのかな、これ…」
次第にか細くなる紫苑の声に、沙布が両手を腰にあてて、さらにさらに詰め寄る。
「わたしは、NO.5にいる間もずっと考えてたのよ、紫苑のこと。あなたに会いたいってずっと思ってた。ルームメイトに恋人が出来た時なんて、すっごく羨しくて、今すぐあなたの元に飛んでいきたい、あなたを抱きしめたいって思ったわ。想いを伝えたくて!」
「沙布…」
本棚の前まで来たところで、小ネズミたちが助け船を出すようにチチッと声を上げた。足元に積み上がった本を気にしながらも、紫苑がまっすぐに沙布に向き直る。
瞳を見つめて、真剣な眼差しで応えた。はぐらかすことは出来ない。
真摯に想いをぶつけたにも関わらず、あっさり肩透かしをくわされる。そんな苦さも、今の紫苑なら充分すぎるほど知っているから。
「沙布。ぼくは、きみのことがとても好きだよ。とても大切に思ってる」
「…紫苑」
「でも、その、セックスとか、そういうのはその……」
肝心なところで、やっぱり恥ずかしそうに目を逸らす紫苑に、沙布が、もうちっとも成長していないのねという顔で嘆息した。
友人として大事に思ってくれていることは、とっくに知っている。聞きたいのは、それ以上のことだ。
たとえば今。
そう、自分以外の誰かでもいい。
紫苑が、そうなることを望む相手はいるのか。恋の対象となる人はいるのか。
沙布が、ふと思い当たったように尋ねた。
「ねえ。彼ならどう?」
「彼って?」
紫苑がきょとんとする。
沙布がやや苛立ったように返した。本来なら、こういうたとえで絶対出したくない名前だ。
でも、知りたい。
紫苑が、どんな反応をするのか知りたい。
「決まってるじゃない、ネズミよ」
「え、ネズミって…」
「もし、ネズミにセックスしたいって言われたら、あなたは何てこたえるの?」
言い終わるのを待つまでもなく、紫苑の顔が一瞬で真っ赤になった。頬の痣がどこなのか、見つけにくいほどの赤さ加減だ。
「は…はあ!? さ、沙布、何言って…!」
「今はだめだって言う? 2年後ぼくから尋ねるっていう?」
「ちょ、ちょっと待って! どうしてネズミ!? なんでそうなるんだ!?」
「たとえ話よ、聞いてみたくなったの、ねえ教えて!」
「ななな何言ってるの、沙布…! や、やだな、そんなわけないだろ、ネズミは、だって、その、どどど同性で…!」
「あら、紫苑てば案外古いのね」
「ええっ」
「わかった、ネズミが帰ってきたら、わたしから聞いてあげる!」
本棚の手前まで紫苑を追い詰めて、腕を組んでくるりと沙布が向きを変える。
「何を! って、ちょ、ちょっと待ってよ、沙布、やめて」
今すぐにでも飛び出して、ネズミを探してそれを聞き出しそうな勢いに、紫苑が慌てて沙布の腕を掴んだ。
「とっ、ともかく落ちついて、沙布っ」
「落ち着くのはあなたよ紫苑。もう何よ、耳も首筋まで真っ赤よ! ああもう悔しい! どうしてわたしよりネズミの方にそんな反応しちゃうかなー!」
「や、だから、ちがうからっ、誤解だ、ちがうんだってば、本当に!」
しどろもどろになって、両手をばたばたさせる紫苑に、沙布が呆れたようにそれを横目で見て嘆息する。こんなに慌てふためく紫苑を見るのは初めてだ。まったく、腹立たしい。
聞かなきゃ良かった。だって、これでは、まるで。
「あー、それにしても遅いな、ネズミ! ちょっと見て来ようかな。うん、心配だしそうしよう、ぼく、ちょっと見てくるよ」
「あ、じゃあわたしも行くわ!」
「い、いや、いいよ、女の子には、西ブロックの夜は危険すぎるから。沙布はここで待ってて! ほら、小ネズミたちと遊んであげててよ。じゃ、きみたち、沙布を頼むね!」
「あ、ちょっと紫苑!」
ばたばたと扉を開けて外に飛び出してしく紫苑の背に、沙布の『逃げられた…』という呟きが突き刺さる。
まあ、事実そうなので仕方がないけれど。
階段を一気駆け上がり、地上に出て、紫苑がはあ…と脱力したように溜息をつく。50歩ほど歩いたところで、コートを忘れてきたことに気がついた。
西ブロックの夜は冷え込む。だが、今更取りに戻るというのも気まずくて、そのまま闇の中を歩き出した。
「寒…」
ぶるっと身を震わせて、自分の身体を自分の腕で抱くようにしてあたためる。
頭上ではきれいな月が、少しは足しになるかしらと、青白い光を投げかけてくれていた。
そうか、コートを忘れた上にランプも無かった。あらためて思い出し、紫苑が月を見上げる。
そして、特に宛もなく、ただ何となく、NO.6の壁の見える川のほとりを歩いていくうちに、少し岸から突き出た場所に立つネズミの姿を見つけた。
「ネズミ…」
呟きのような微かな声にも関わらず、濃灰色の瞳が紫苑に気付いた。紫苑の足取りが自然と小走りになる。
「ネズミ…!」
「どうした、ランプも持たないで。あんた、ただでさえも鈍臭いんだから、また転ぶぜ?」
「大きなお世話だ。…って、こんなところで、何してたんだ? 帰ってこないから心配してたんだよ」
背後に近づいてきた紫苑をちらりと見ただけで、身体は岸の方に向けたまま、ネズミが答える。
「おれの心配なんて必要ない。というか、せっかく気をきかせてやったのに、野暮だな、あんた」
「どういう意味?」
「セックスの途中に、おれに帰って来られちゃ困るだろ?」
「な…」
もう本当にきみたちは、セックスセックスって。
何だよ、もう。
真っ赤に赤面しながら口の中でぶつぶつ言って、紫苑が恨めしそうにネズミを見上げる。
「ベッドは使うなって言ったのはきみだ。いや、勿論そんなことしないけど! だいたい、そんなことに気を回すなんて、きみらしくない…じゃないか」 
語尾が一気に萎えて、言いにくそうにもごもごとなる。
「何だ、それは。褒めてるのか、けなしてるのか」
「どっちでもないよ。そんな気遣いは要らないって言ってるんだ」
「そっちこそ。おれのことなんて気にせずに、彼女とよろしくやってりゃいいのに」
「…そんなこと。思ってないくせに」
紫苑の眼差しが、ますます恨めしそうになる。向けられたままの背中を、むっと上目使いに睨んだ。
「生憎だが思ってるぜ? このまま2人でとっととNO.6に帰ってくれりゃあ、おれとしても万々歳だ。一度に厄介払いができる。違うか?」
「それは…」
「2人分食っていく金を稼ぐ必要もなくなるし、ベッドも一人で広々と使える。風呂の順番を気にすることもない」
清々する。そう言いながら、ネズミが脳内で想像する。

紫苑のいない広々とした空間。
それは、自由だ。
そして、空虚だ。
そして、なんて寒々しい。

ネズミが、紫苑に気付かれないように片目を眇める。
いつのまに、こうまで紫苑のいる生活に慣れてしまっていたんだろう。もっと早く追い出すべきだった。
もう遅いと知りつつもネズミが思う。
「風呂は、いつもきみが先に使うだろ」
「あんたが引っ掛かるのは、そこか」
苦笑を漏らし、ネズミが壁の向こうを見つめる。紫苑がその顔を背後から覗き見た。
いつもそうだ。こうやって壁の向こうに何かを見ている時のネズミは、すぐ傍にいるのに遠くに感じる。
今夜は、特に。

どうしたらいいんだろう、と、紫苑が胸で落とす。
どちらも失いたくない。
どちらも大切だ。
これは狡いことなのか。
――だけど。
(沙布のことは大好きだし、とても大事だ。でもきみへの想いとは、全然ちがうのに)

「どうしてわかってくれないんだ…」
悔しげに、紫苑が呟く。
そして、くっと唇を噛みしめると、ネズミの背にそっと近づき、逞しい肩甲骨の狭間にこつんと額を当てた。  
切なげに眉が寄せられる。
つい先程、沙布の想いを、結局はぐらかすような真似をしたくせに。
今、自分の想いをはぐらかされて、傷ついたような気分になっている。
沙布の気持ちにも上手に答えられない。ネズミに上手く想いを伝えることもできない。
ぼくは、どうしてこんなに中途半端に無器用なんだろう。
だけども、どちらも本当の気持ちで、嘘じゃない。2人に絶対嘘はつきたくない。誠実でありたいと思う。
でも、わからない。
自分の気持ちに誠実であるということは、つまり単なるエゴイストということじゃないのか。同じじゃないのか。
「……紫苑?」
沈黙してしまった紫苑を気遣うように、ネズミが名を呼ぶ。
ほら、こういうとこ。やはり、きみはやさしい。
そして、ぼくは知っていて、甘えている。
こんな風に弱気な時、ネズミがやさしくしてくれることを知っている。
ずるい。
「ネズミ……」
なんだか泣きたい気分だ。自分が情けなくて、泣きたい。
「ぼくは此処にいる。どこにも行くつもりはないよ」
声が震える。
「出て行けって、きみに殴られても」
ネズミの背に額を押し当てたまま、声が震える。
「きみといる」
肩がわなないた。
気配を察して振り向くネズミを、紫苑が目許を赤く染めて見上げる。
「どうした、あんた。コートも着ないで」
今更気付いて、ネズミが自分の肩からマフラーを解き、紫苑の肩をそっと包んだ。
あたたかい。紫苑がふっと瞳を閉じる。
「ネズミ…」
そして、そっと呼ぶと、ごく自然に、紫苑から近づいてキスをした。
一瞬だけ、熱を分け合うように唇が触れる。
「何のキスだ?」
唇が離されるなり、ネズミに問われた。紫苑がびくりとする。
「え…っ?」
「今のは何のキスだ?」
ネズミがもう一度訊いた。
突然のキスを、怒っているわけじゃない。濃灰色の瞳は穏やかに笑っている。
紫苑がほっとしたように笑みを返した。
それにしても。キスって、いちいち意味を尋ねられるものなのか? そういうものなのか?
困惑しながら、紫苑が頬を赤らめて率直に返す。
「何の、かな。わからない。きみとキスがしたくなった」
素直な言葉に、ネズミが驚いたように紫苑を見た。
何かおかしかったのか?と上目使いに見上げれば、わかりやすく目を逸らされた。
『もし、ネズミにセックスしたいって言われたら、あなたは何てこたえるの?』
つい今しがた聞いたばかりの、沙布の衝撃の発言が耳の奥で木霊する。思い出して、紫苑の耳朶の先や項までが熱を帯びる。
(そんなの同じだよ、沙布。片方だけが望んで出来るものじゃない…)
思いながらも、つい想像してしまいそうになって、紫苑が慌てて頭の中を真っ白にする。頬はますます熱くなった。
「欲情したんだろう?」
「えっ」
唐突に言われ、紫苑がはっと顔を上げた。心と頭の中を覗き見たかのようなネズミの台詞に、今度は紫苑の顔がさっと青くなる。
―まさか、知られて。
「彼女と2人きりで、あやうく欲情しそうになって、慌てて逃げ出してきたんだろ。で、おれにキスして、冷静になろうとしてる」
得意げに解説されて、紫苑が唖然となる。
(…きみも相当鈍い…)
紫苑は上昇した体温が一気に下がる音をききながら、唇を尖らせ、頬を膨らませると、憮然としてネズミを睨みつけた。
「ばか、ちがうよ!」



2人の影が離れたり重なったりしながらこちらに戻ってくる様子を、丘の上から沙布が見下ろす。
その視線に気付きながらも、ネズミは紫苑を軽く引き寄せ、夜気に冷やされた紫苑の髪を指先でまさぐった。
まったく。鈍いのはあんたの方だ。
そんなだから、幼なじみの恋の告白も聞き逃すんだ。
そんなあんたをいとしいなどと思っているおれも、大概なのかもしれないが。
思いながら、ネズミが沙布の視線を受け止め、睨むように見つめ返す。
挑発じみて見上げてくるネズミの視線を受けとめて、沙布がきっと身を翻し、地下室の階段を降りていく。
夜の闇の中で繰り広げられる秘めやかな攻防に気付くことなく、紫苑はネズミの手に髪を弄られながら、屈託のない笑い声を上げた。






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きみが風邪をひいた(SCC新刊サンプル)

5/4 SUPERCOMICCITY21発行の新刊サンプルです。
風邪ひきネタ3本。「きみのそばできみと見つめる」「きみに光が降り注ぐ」再録。
書き下ろしはその続編で、紫苑の風邪がネズミにうつっちゃったお話です。
お風呂上りの人肌でネズミをあたためようとして、裸のままベッドに入った(天然)紫苑が、熱で抑制の効かなくなったネズミに…。
サンプルにはありませんが、R18内容も含みますのでご注意くださいませ。

●とらさんで書店販売の予約がはじまりました→
http://www.toranoana.jp/bl/article/04/0030/04/12/040030041276.html








 
ストーブの上で鍋がコトコトいっている。
その鍋をかき混ぜながら、紫苑が小ネズミたちと楽しげに何事かを話している。
ランプの火があたたかく揺れている。
そんな光景をしみじみ見つめ、ネズミが静かに眼を閉じた。
誰かが傍にいてくれる深い安堵。
これに慣れてはいけない。
慣れてしまっては、取り返しがつかなくなる。
失うことを恐れてしまう。
思いながらも同時に、もう手放せなくなっている、そんな自分を再確認した。
「さて、と。ごはんができるまでもう少しかかるし。先に薬を呑もうか、ネズミ」
「…嬉しそうな顔しちゃって」
おどけて言うネズミに、木の椀に冷ました緑の液体を流し込み、紫苑がベッドの脇に運んでくる。それを両手に持ったまま、ベッドの端に腰かけた。
「ていうか、あんたそれ。本当に熱さましの薬草だろうな?」
「勿論だよ。ちゃんと確認して買った」
「毒草じゃないことを祈るぜ」
「なら、ぼくが先に毒味をするよ」
えっと思うなり、紫苑がそれを自分の口に含んだ。途端に何とも言えない複雑な表情になって、眉間をぎゅっと寄せ、深い皺を刻む。
そして、ひどい顔に笑いを堪えているネズミをむっと睨むと、その顎に手を添え、ゆっくりと上体を倒した。
唇がふれ合う。
ネズミが腕を伸ばし、紫苑の後頭部を引き寄せた。
ぴったりと合わされた唇の狭間から、苦味と渋味のあるどろりとした液体が流し込まれる。ネズミが躊躇わず、嚥下した。喉が上下したのを確かめて、紫苑がほっとしたように唇を離す。
「うわぁー、やっぱり苦い! きみ、よくこんなのすぐに飲み込めるね!」
「自分が呑ませておいて、よく言うぜ」
「だってさあ、うわー、舌が痺れてる」
「まじで毒草だったら、あんたもおれもやばいな」
「本当だ。心中だね」
からかうように言うネズミに、紫苑が両の肩を持ち上げてくすくすと笑む。
だから嬉しそうに言うな、とネズミが睨むように紫苑を見上げ、ぎゅっと鼻をつまんだ。
「んぁ、痛いよネズミ」
「こんなところで男と心中してたら、あんたのママが泣くぜ。まったく」
呆れたように言う。
「それに、おれは、あんたみたいに苦いって文句言わないからな、別にわざわざ口移しにしなくても飲むぜ」
ネズミの指摘に、やや慌てた素振りを見せて、紫苑が微かに赤面しながら視線を逸らす。
「い、いいんだよ、きみもしてくれたし。ぼくも、そうしたいんだ」
その応えに、ネズミが意味深に半眼になって、ちろりと横目で紫苑を流し見る。
「へーえ?」
「な、なんだよその目は」
「あんたって、意外とやらしいな」
意地悪い口調でとんでもないことを言われて、紫苑がぎょっとなる。
「な、なんでそうなるんだ!」
「おれにキスする口実が欲しいんだろ?」
熱っぽい手に腕を捕われ、口説くかのように艶っぽく言われ、紫苑の全身がかあぁっと一気に真っ赤に染まった。腕を振り払い、逃げるようにベッドから立ち上がる。
「ば、ばか。そんなわけないだろ…!」
焦る余り椀を投げ落としそうになる紫苑に、ネズミがそれをおっとと手を伸ばして取り上げ、上体を起こした。
「おい、危ないだろ。もういい。自分で飲むさ。あんたのおかげで余計熱が出そうだからな」
「ど、どういう意味?」
「あんたのキスが、へたくそ過ぎて」
「なっ…! へたくそで悪かったな! そもそもキスじゃない、薬を飲ませているだけなんだからな!」
吐き捨てるなり、紫苑が今にも頭から湯気が出そうに真っ赤になったまま、ベッドを離れてストーブの上の鍋に向かう。
まったく人が心配してるのに、きみときたらどこまで意地が悪いんだ!とぶつぶつ言う背中に、くすりと笑んで、ネズミが立てた片膝の上で椀を抱える。
「紫苑」
「…」
「しおーん」
「何だよ、まだ、何かあるのかっ!」
一度は無視したものの、再度呼ばれた名にキッと紫苑が振り返る。その顔があまりに可愛いらしくて、もう一言何かからかってやりたい気分になったが、さすがにやめた。怒らせたいわけじゃない。
「―ありがとう」
ぼそりと言って、ネズミが一気に椀の中の液体を呑み干す。
「え…」
意表をつかれたように礼を言われ、紫苑が釣り上がっていた眉といかり上がった肩を、所在なげにゆっくりと下ろした。
「あ、ううん、そんなこと…」
 頬がますます真っ赤になる。
語尾は勢いを無くして、恥ずかしそうにフェードアウトした。






きみに逢いたかった

◆「きみの夢を見たんだ」の続きで、ネズミ視点になります。アニメ最終回後設定。
アニメの方の最終回後の紫苑は、ネズミがもう戻ってこないんじゃないかとどこかで思っていて、自分から探しに行ったりするんじゃないかなと漠然と思っていました。
(原作のネズミは、再会を約束したからきっと帰ってくるよと思ってた)
最終回を見た後にどんな形の再会をするのかなと考えた時、このお話で書いたのが一番最初に思い浮かんだシーンでした。
また番外編のようなお話も書けたら良いなあ。
◆BGMにNオト・インティライミさんの「愛してた」http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=k-120328-304を聴きながら書きました。切ない…。この曲、歌詞がネズミ過ぎてもう…。
「きみに逢いたかった」もよい曲ですよね…!泣ける…!



















NO.2から砂漠地帯へ出て、半日と少し。
太陽が照りつける広大な砂地を、布を被って身体を覆い、ラクダの背に揺られて移動する。
近くに見えるようで案外遠い砂漠の町は、その昔ながらの移動手段にどうやら問題があるようだった。


「よう、イヴじゃないか。しばらく顔を見なかったな」
「どこに行ってたんだ。急にいなくなっちまったから、踊り子たちが心配してたぜ。もうあんたが帰って来ないんじゃないかってな」
市場に入るなり、顔見知りの店主らから声をかけられた。
それに短く応じながら、いつも通り口数少なく、両側に店の立ち並ぶ通路を進んで行く。
埃っぽい市場。喧騒。活気。
思えば、懐かしい風景だ。
ここは、かつての西ブロックの市場とよく似ている。
もっとも治安の悪さと品物の粗悪さでは、西ブロックの右に出るものはないが。
それでも、決して裕福ではないこの町の奔放さは、あの町と共通するものがあった。
そのせいか、ここを歩くときはいつも紫苑のことを思い出す。
よく一緒に歩いた。主に食材の調達に。
最初こそ、おっかなびっくり、先を行くネズミの背を追うように早足で歩いていた紫苑だったが、すぐに馴染んで、やがて顔を覚えた店主らと談笑するまでになった。
案外逞しい。
口や態度には出さずとも、実はひそかに感心していた。
ひょろっとした、育ちの良いNO.6のお坊っちゃんが。
なかなかやるじゃないか。
が、そのくせ値切るだのの交渉ごとはちっとも上達しなかった。
おまけしてやるよと上乗せしてもらうのは得意だったが、それがかびたパンや茶色に変色した野菜やら、そんなものばかりだったから、ネズミはあんた馬鹿かとしょっちゅう呆れなければならなかった。
それでも、紫苑は満足そうだった。
歯が折れそうな固いパンでも、腐りかけのベーコンでも、気にせず美味しいと笑って食していた。
今にして思えば、清潔な聖都市で育ったNO.6の坊やが、よくあそこまで西ブロックの生活に順応できたものだ。不思議で仕方が無い。
それだけあいつが変わり者だった、とそういうことなのだろう。
世界中を旅して回っても、あんなやつはそうそういない。

いや、たぶんどこにもいない。
紫苑のような、特別な存在は。

西ブロックの荒んだ人や凶暴な犬たちまでを魅了した、あのやわらかであたたかい笑みを想い出す。
「あれ、イヴじゃねえか。帰ってたんだ」
「ああ」
マーケットの外れで露店を開いていた雑貨屋の若い男が、顔を上げてネズミを見た。
年齢はわからない。まだ少年なのかもしれない。
広げた敷物の上には、指輪や髪飾りやブレスレットが所狭しとごちゃごちゃと並べられている。
父親がそこいら中を旅して集めてきた雑貨や布を、彼はこうしてせっせと売りさばいているのだ。
幼い頃からそうして生きてきたせいか、客扱いはうまい。
頭から被った茶色の布の隙間から、肩までの黒髪と黒い瞳を覗かせている。
どこかイヌカシを彷彿とさせるその容貌や口調は、ネズミに愛着を感じさせた。
普段は口が重く、口数も少ないネズミが、この町で唯一仕事以外で自ら言葉を交わす相手だ。
「いつ帰ったんだ?」
「さっきだ」
「へえ。えらく長く滞在してたんじゃねえか。その間、可愛い子ちゃんとしっぽり良いことしてきたのかい」
ひやかすように笑う少年に、淡々とネズミが応える。
「NO.6にいたのは一晩きりだ。帰りにNO.2に立ち寄って金を作っていた」
「なんだそりゃあ、もったいない。だから帰りが遅かったってのか」
「そういうことだ」
風が吹き、砂埃が市場の通りを舞っていく。
布でそれを遮りながら、雑貨屋の少年が片目を瞑り、ネズミを見た。
感情をほとんど映すことのなかった濃灰色の瞳が、青い空の下でどこか切なげに見える。
黒い瞳が、その心中を探るように数度瞬いた。
「…イヴ、おまえ」
「対のやつがあっただろう。あれを売ってくれ」
少年の言葉を遮って、ネズミが言う。少年が首を傾げた。
「対の? あぁ、お前さんに売った赤い線の入ったリングのことか」
「あぁ」
頷首するネズミに、少年が先立ってのことを思い出す。
ネズミが所望した指輪は、実は最初からペアリングとして値がついていた。
が、ネズミはその一つだけを売ってくれと持ちかけたのだ。
生憎だがバラ売りはしていないと断る少年に、ネズミは、どうせそんな高値じゃ売れ残るさ、一つでも金に換えておいた方が利口だぜと、得意の口八丁で持ちかけた。
結果として交渉は成立したが、ネズミはそれと引き換えに、毎日パン一個と水だけの食事で2週間を過ごさなければならなかった。
大都市であるNO.2とは違い、貧しい砂漠の町で、ジプシーの踊り子たちの輪の中で歌うだけでは、さして収入にはならなかったからだ。
だが、後悔はしていない。
―あんたなら、きっと同じことを思うだろうな。
ふと、考える。
偶然、この露店で指輪を見つけた時も、すぐに紫苑の顔が浮かんだ。
上品な白銀。そこに捲きつくような赤く細いライン。囁くように小さく記された愛の言葉。
かつてこの地に栄えた王国で、砂漠の民が使っていた古い文字で記されたそれは、直訳すればいたってシンプルな愛の告白になる。
『 きみを 永遠に ぼくは 愛しつづける 』
もっと深く読み解けば、至上の愛の誓いだとか、様々な意味も含まれているのだろうけれど。
そこまでは、学者でもなければ理解不能だ。この町の人間でさえ、今はもう知り得ない。
一方的に、そんな告白を紫苑に届けたくなったのは、衝動からだろうか。
NO.6を離れて3年。
離れれば離れるほど、時間が経てば経つほど、自分の中の紫苑の存在は大きくなる一方で。
忘れるどころか、日々、何を見ても誰といても紫苑を恋しく感じた。
正直、自分の中にそこまでの情があるとは知らなかった。ここまで想いが深いとは気付いてなかった。
別れたあの時は、まだ。
もっとも、それを自覚をしたところでどうなるわけもなく、ただ、気持ちを持て余した。
無理をしてでも高価な指輪を手に入れようとしたのは、NO.6に帰る理由が欲しかったからかもしれない。
長居をするつもりはなかった。
顔を見られれば、それでよかった。一方的な再会で良かったのだ。
真夜中にこっそり部屋に侵入して、顔を見て、寝顔にキスを一つ残して、あとは指輪を置いて立ち去るだけ。
指輪のメッセージは、気付かれなくて良い。
3年前、二度と会わない決意で紫苑を、NO.6を離れた。
だから。
想いを直接伝える気はなかった。
ただ、それでも。
遠く離れた空の下で、今もあんたを想っていると、忘れてなんかないと、その想いだけは残していきたかった。

傍にいることはできなくても、おれはいつだってあんただけを想っている。
あんたひとりを想い続ける。

それが、紫苑にとって糧になるのか、それとも枷になるのかはわからないが。
せめて支えになればいいと思った。


「残念だが、それはもう無いぜ」
返された答えに、、計らずとも、自分の内を見透かされたような気がして、ネズミがはっとなる。
現実に引き戻されるように、顔を上げた。
一緒に旅をしてきた小ネズミが、超繊維布から顔を出して耳元でチチッと鳴く。
「何だって?」
「おまえさんのご所望の指輪、実はついさっき売れちまったんだ」
「…本当か?」
睨むように瞳を鋭く剣呑とさせるネズミに、少年がおいおいと僅かに後退さった。今にも首をナイフでかっ裂かれそうな殺気を感じたのだ。
「別に、嘘を吐いてさらに高値をふっかけようとか、そんなことは思っちゃいないぜ。他のやつならともかく、お前さんにそんなことはしない」
「…」
「売れたのは本当だ。ここじゃあまり見ない容貌だったからな、旅人じゃねえか。土産にでもするつもりなんだろう」
土産? それにしては高価過ぎるが。
ネズミが、両の双眸を眇める。
が、無いものは仕方がない。
1歩遅かった。
縁がなかったということだ。
せっかくNO.2の劇場で金を稼いできたというのに、徒労に終わったか。
失意はあるが、まあ、致し方ない。
もともと自分用にと思っただけだ。紫苑に贈ったのと同じものを、誓いの証のように自分も持っていたかった。それだけのことだ。まるで、少女の恋だ。
「そうか。邪魔をしたな」
気付かれないように自虐の嘆め息を一つ落とし、踵を返す。
もう用は済んだ。
「あ、おい、イヴ…!」
待てよ、似たようなのでよければ…!と、背に少年の声が続く。
だが、似たりよったりなものを求める気はなかった。
紫苑に似た容貌には、旅の途中に何人か出逢ったが、あの宝石のように強く輝く内面には、まったく出逢うことはなかった。

当然だ。
誰ひとり、似た者などいない。
紫苑は、この世で、たったひとりしかいない。


市場を出て、砂塵の中、ジプシーらが棲むテントの集落へと向かう。
そろそろ仕事の時間だ。
昼間はテント小屋で、夕刻は噴水広場で歌と踊りを披露する。
娯楽の少ないこの町では、1日の仕事の終わりに人々が集い、露店の店で食事や酒を調達して、陽気に歌や踊りに酔いしれるのだ。
テントに足を1歩踏みいれるなり、着替えをしていた踊り子たちから歓声が起こった。
口々にイヴの名を呼び、叫び、駆け寄り、抱きつき、キスの雨を降らせる。
どこに行ってたの、もう帰ってこないと思ってた、さびしかったわ。
そんな言葉を聞きながら、ネズミは淡々とそれに薄い微笑を返して応え、歓迎を軽くかわし、テントの奥へと急ぐ。
服を脱ぐと、自分の衣装へと袖を通した。
帰着を歓迎されることは悪くはなかった。むしろ、安堵さえ感じる。
だが、同時にささやかな違和感をも齏した。
それが、かえってネズミに実感させる。

本当に還りつくべき場所は、此処ではない。

「イヴ、またあなたの素敵な歌が聞けるのね」
踊り子の一人が、着替えを手伝いながら、感慨深げにそう言った。
それには答えず、衣装を纏い、髪を下ろして、テントを出る。
夕刻の渇いた風に、長く伸びた髪が靡いた。
オレンジの空の下、曲が流れる。
軽やかな足取りで噴水広場の中央に出ると、既に集まっていた多くの客から歓声が湧いた。
口々にイヴの名を呼び、坐っていた者たちは椅子から立ち上がって拍手をおくる。
皆、ずっとあなたを待っていたのよ、と、近くにいた踊り子が嬉しげに耳打ちした。
軽く一礼する。
そして、はじまりを告げるタンバリンが鳴り響いた。
盛大な拍手が起きる。
イヴの歌う恋の歌に合わせ、美しい衣装の踊り子たちが一斉にその周りで踊り出した。


切ない戯曲の一節を歌い上げながら、ネズミが、この町よりずっと春の訪れの遅いNO.6に思いを馳せる。
星も凍るような、冷たい真夜中の大気を思い出した。
あれはまだ、つい3週間前のことだ。

一大決心をして、買ったばかりのリングを手に、この町からNO.6へと旅立った。
それでも道中、迷いはつきなかった。
男が指輪なんかを貰って、果たして嬉しいものだろうか。
しかも、一方的なプロミスリング。いわば、感情の押しつけだ。
それでも。
あんたに持っててもらいたい。そう思ってしまった。その感情は止められなかった。
会うつもりは、毛頭なかった。
そっと置いてくるだけで良かった。
あわよくば、あんたの寝顔を見て、やわらかな髪にそっと唇でふれられたら、もうそれだけで。
たまらなく至福だろうと、想像した。
本当に、それだけで良かったんだ。


星のきれいな夜だった。
流星群が、NO.6の夜空を、涙のように流れていた。


そんな寒空の下。
そっと忍びこんだベランダで、あんたは、肩を震わせて泣いていた。
ひどく淋しげに、つらそうに、全身をふるわせて。

あんたが、おれの名を呼ぶのを聞いた。
かなしげな、消え入りそうな声で、なつかしいあんたの声がおれを呼んだんだ。



――たまらなかった。



会わずに去ろうと決めていた誓いなど、一瞬で霧散した。
そっと近づき、背後から目隠しをする。
突然の侵入者に目隠しをされても、あんたは、あの嵐の夜と同じく、抗うことをしなかった。
声を発することもなく、気配さえ消して接近したのに、あんたにはそれがおれだとわかったのか?
はっと細い肩がわななき、掌の中で、見開かれた大きな瞳が新たな涙を流すのがわかった。
『ネズミ…』
呼ぶ声がふるえる。
いとおしさに、胸がはり裂けそうだった。
息がつまり、ただ背中から強く狂おしく抱きしめる。
頭上で、星が瞬いて流れた。



泣きじゃくる紫苑を抱きしめ、なだめて、2人で星を見上げ、少し話をした。
とりとめもない話だった。
イヌカシがどうとか、火藍は元気だとか、力河のおっさんが相変わらずだとか。
聞きたいことはもっとあった。話したいことも。
だが、紫苑が今こうしておれの腕の中にいる。
それ以上に大事なことなど、この世に存在しない。
大げさかもしれないが、あの時、おれは本気でそう思った。



腕の中で眠ってしまった紫苑の、無防備に預けてくる身体の重みと体温がいとしくて、いとしくて。
それを再び手放すことが、たまらなく、つらかった。
空が明るい茜色になるまで、やわらかな髪を撫で続け、ほのかに赤みのさす頬に、額に、瞼に、鼻筋に、薄く開いた唇に、何度も何度もキスをした。
そうして、紫苑の身体を腕に抱き上げ、部屋に入り、ベッドへと横たえる。
白い手をそっと掬い上げ、左の薬指に指輪をはめた。その上から、誓いのように口づける。
自然と一筋、涙が頬を伝った。


そうか。おれはこんなにも、あんたのことが好きなんだな。


一目、顔を見られればそれでよかった。
だが。
一度声を聞いたら、見つめられたら、ふれてしまったら。
もう二度と忘れられなくなると、痛いほど知っていた。



あんたにはわからない。
大事すぎて近づけない。



3年前。おれはあんたから奪うばかりだった。
沙布。
彼女のように、あんたに与えることができなかった。
何ひとつ、あたえてやることができなかった。
今も、悔やむ。
悔やんでいる。



だったらぼくは、きみに何を与えられただろう。
きみに何を与えることができたんだろう。
きみは、それを教えてさえくれない。
だのに、きみは。


紫苑の言葉が、ふいに遠くから耳に聞こえた気がした。






曲が終わり、拍手喝采が湧き起こり、はっと我に返った。
広場は、歓声と興奮と鳴りやまない拍手に包まれていた。
「イヴ…! 今夜の歌は特に素晴らしかった! 凄く切ない恋情が込められていて、わたしたちまで泣きそうになってしまったわ…!」
客と同じく、高揚した顔と口調で踊り子たちが集い、イヴの歌を絶賛した。
客の拍手はまだ鳴りやまない。
チップを入れる籠は、あっというまに金貨や紙幣でいっぱいになった。
今夜の売上は、きっと過去最高だろう。
ふっ…とネズミが笑みを浮かべる。
そうして、滝のように湧くアンコールの声に、優雅に一礼をして、踵を返した。



まだ広場では、踊り子たちが舞っている。
そして、イヴの歌を求める声も続いていた。
が、それを背に受けながら、ネズミは奥のテントでイヴの衣装を脱ぎ捨てた。
着替えを終え、髪を1つに纏め上げると、テントの裏の酒樽の上に腰かけ、空を仰ぐ。
夕暮れの空は、いつのまにか深い赤紫になり、星の瞬きが見え始めていた。
一番近くに見える小さな星に、ゆっくりと手を差し伸ばす。

あたたかな光を放つ、小さな赤い星。
まるで紫苑のようだ。

NO.6を遠く離れて、旅をして。
だけども、どこに行っても誰といても、思い出すのはあんたのことばかりだった。
ちゃんと食っているか、眠れているか。
今日も、あの無邪気な笑顔で過ごせているか。
泣いて悔しがる日もあるだろうか。

あの夜の涙の理由は何だったのだろう。
ふるえて泣くほど、つらいことがあったのか。
聞けばよかった。
『苦しいことがあるのなら、教えて欲しい。きみのことがもっと知りたい』
いつかのあんたの言葉が、今になって理解できる。

忘れるな。
どこにいても、どれだけ離れてても、おれはあんたの味方だ。
今も、あんただけの味方でいる。



「イヴ」
幼い声が、ふいに背後から聞こえた。振り返る。
小さな少女が、はにかむような笑顔でそこにいた。
「やあ、お嬢さん。どうしたんだ?」
「今日のおうた、すごくよかった。いつもすてきだけど、きょうのはさらにカクベツだったわ、っておねえさんたちもそう言ってた」
「それは光栄だな」
小さなファンに目を細めてそう返せば、頬を染めた少女が背中に隠していた造花を、もじもじしながら差し出した。
「おれに?」
こくんと頷く。
「本物のお花はこの町では売ってないから、おねえさんがつくってくれたの」
差し出された小さな紫の花を受け取り、イヴの顔でネズミが微笑む。
「ありがとう。きれいだな」
「これであってる?」
少女が首を傾けるようにして、イヴの顔を覗き込んで笑む。
「え?」
「イヴは、しおんの花が好きだって。前に言っていたでしょう?」
無邪気な笑顔で言う少女に、ネズミがはっとなる。
そうして一度目を伏せ、微笑みを浮かべると、ああそうだよと肯いて、小さな手を掬い上げ、やわらかな甲にそっとキスをした。
「ありがとう、お嬢さん」
「ううん。じゃあね、イヴ! またおうた聞かせてね! もうどこにもいかないでね!」
キスに頬をバラ色に染め、少女が満面の笑みを浮かべて、手を振りながら、逃げるように走り去って行く。
その後ろ姿を見送って、ネズミが手渡された小さな紫の花に視線を落とした。
自然と、ふっと笑みがこぼれる。
可憐な花びらに、いとおしげに唇を寄せた。





「知らなかった。きみ、紫苑の花が好きだったんだ」





背後からかけられた言葉に、近づいてきた人影に、ネズミがはっと瞠目する。
幻聴か。
いや、それにしては。
まさかという思いで、振り返った。
人影が、少し離れたテントの影で立ち止まる。
濃灰色の瞳が、さらに大きく瞠目した。
まさか、と唇が、声のないまま勝手に呟く。
瞳を見開いたまま、茫然と、ネズミが腰かけていた酒樽から立ち上がった。
名を呼ぼうにも、声が出ない。
驚愕の眼差しを向けられて、灰色の布を頭から被った少年が、ゆっくりとそれをずらし、ネズミを見つめて微笑んだ。
月明かりの下、白銀のように光る美しい白い髪が風に靡いた。


これは、夢か。
もしくは、蜃気楼が見せる幻影か。


限界まで、さらに目を見瞠る。
少年が近づいてくる。
声も発することができないまま、ネズミが固唾を呑んだ。


ただ、ただ驚くばかりのネズミに、少年は少し困ったような、はにかむような微笑みを浮かべた。
「…来ちゃった」
言って、両方の肩を竦める。
その愛らしいしぐさに、それでも笑みを返す余裕もなく、ネズミがただ立ち尽くす。
まるで魂を抜かれたかのように、接近してくる緋色の大きな瞳を見つめ返した。
「…ネズミ?」
あまりの反応のなさに、やや不安げに少年が呼ぶ。
それにはっと我に返ったように、ネズミがゆっくりと瞬きをした。

(紫苑……紫苑なのか……?)

心の中で、呟きが落とされる。
思考は、その瞬間まで完全に停止していた。
とりあえずは、そこに立つのが夢やまぼろしではない、本物の紫苑だということを、ネズミはまず確かめねばならなかった。
夢に見たのだ、何度も何度も。これまでにも。
夢の中で微笑む紫苑を抱きしめようとして、掻き抱こうとして、懸命に手を伸ばす。
だが、掴まえたと思った瞬間。その姿は砂となり、腕を擦り抜け、風に散っていく。
ああ、また夢か。
おれは、また、あんたのまぼろしを見ていたのか。
そんな絶望感を、もう幾度となく味わった。だから。

怖じるようにゆっくりとネズミの腕が広げられ、紫苑に向かって差し伸べられる。
紫苑がはっとそれを見ると、涙を堪えるように唇を噛み締め、猛然と駆け出した。勢いのまま、首へ飛びつく。
「ネズミ…!!」
「紫苑…っ」
むしゃぶりつくようにしがみついてくる身体を、ネズミがしっかりと腕に抱きとめる。瞳はまだ見開いたままだった。
「会いたかった! 会いたかったよ、ネズミ…! ずっときみが恋しかった…!」
涙声が、ネズミの耳元で告げる。
甘くやさしく透き通った声。
聞き間違えるわけがない。

紫苑。
これは、紫苑だ。

まだ信じられない想いで、ネズミが震える紫苑の身体を掻き抱いた。
骨を折ってしまわないかと危惧するほど、強く激しく。
痛みさえ伴うだろう強い抱擁に、だが、腕の中の紫苑は幸福そうに涙ぐみながら微笑んだ。
「あんた、どうして…」
問うネズミの声が上擦る。
その腕の中で、紫苑が逞しい肩口に頬を寄せ、問い返した。
「きみこそ、どうして」
あの夜、逢いにきてくれた…?
そればかりじゃない、聞きたいことは山のようにあった。話したいことも。
ここまでの旅のことも、ネズミのこれまでの旅のことも。
だが、やはり。
互いの温度が今腕の中にある、現状はもうそれだけで。
すべて後回しで良いとさえ思った。
「ネズミ、ぼくにも」
「…えっ」
「ぼくにも、きみを抱きしめさせてくれ」
目許を上気させ、紫苑が腕をネズミの背に回そうと藻掻かせる。あまりに強く抱き竦められているため、腕の自由が効かないのだ。
「ここまで追いかけてきたんだ。ぼくには、きみを抱きしめる権利がある…!」
必死の形相で言う紫苑に、不意に何だかおかしくなり、ネズミがやっとフ…と笑みを浮かべた。

権利、か。あんたらしい。
変わってないな、そういうとこ。

だが、口をついて出た第一声は、心とは裏腹の、相変わらずひねくれたものだった。
「追ってきてくれなんて、頼んでないぜ?」
つれないネズミの一言に、紫苑がむっと真一文字に唇を結ぶ。
ますます目許が赤くなる。
「…ずっと待ってた。ぼくは、ずっときみを待ってたんだ…! きみがNO.6に帰ってくるのを信じて、待ってた。でも、きみは…!」

本当は、帰ってくるつもりはなかったんだろう?

続く筈の言葉は、つらすぎて、切なすぎて、途切れてしまう。
「きみは…」
言いかけて、ネズミの背で、紫苑がぐっと拳を握り締めた。
ぽろりと、涙が瞳を溢れる。
それを慌てて拳で拭って、ネズミから視線を逸らすと、くすんと子供のように鼻を鳴らした。
同時に、堪えきれない涙がぽろぽろと瞳からこぼれ、頬を流れる。
ネズミの腕の中で、紫苑の細い身体が、しゃくり上げて震え出した。
「紫苑…おい…」
「だって…」
「…泣くな」
「だって、きみが…」
あまりにつれないから。
「泣くなんて、あんたは卑怯だ…」
心底、困ったようにネズミがごちる。涙に濡れる頬を、そっと掌で包んだ。
「ぼくが…? どうして…?」
問う唇と声が小刻みに震える。潤んだ瞳がネズミを見上げた。


あんたはいつもそうだ。
無自覚に、おれをためす。
あんたを、放っておけなくさせる。


「きみの決意を知ってた。だから、あれは夢だって思い込もうとした。けど、やっぱり、駄目だった…。夢じゃなく、現実にしたい。そう思って、決めて、きみを追いかけてきたんだ」
「…あんたのそういうとこ、ちっとも変わってないな」
ネズミの迷いも戸惑いも、自覚無く、見抜いてしまう。真直ぐな決意で打ち砕いてしまう。
胸の内で、ネズミが苦笑を漏らす。
だからこそ、今も変わらず惹かれている。惹かれ続ける。これからも。
「…相変わらず、あんたにはかなわない」
「…え?」
眩しそうにそう告げるネズミを、赤い瞳で紫苑が見上げる。
なだめるように、ネズミがそっと涙の粒が溜まる紫苑の眦に唇を寄せた。
やさしく涙を吸い取られて、紫苑の両の頬が真っ赤に染まる。
純な反応に、ネズミが含み笑いを漏らし、真っ赤になった鼻梁にもキスを落とした。自然と紫苑の口許が緩む。
「それにしても、驚いたな。どうして、あんた。おれが此処にいるとわかった?」
「あの夜。きみの身体から、砂の匂いがしたんだ」
「砂?」
「うん。風の匂いと砂塵の匂いがした。あと…嗅いだことのない動物の匂いと。あ、もしかして、あれ、ラクダだったのかな?」
「凄いな。あんた、イヌカシ並に鼻が効くんだ」
感心したように、呆れたように、ネズミが言う。
「茶化すなよ。それに、これ。きみがくれた指輪」
しっかりと左の薬指にはめられた指輪を、紫苑が月明かりにかざす。
リングの真ん中を走る細く赤いラインが、まるで、運命の人と自分とを繋ぐ糸のようだ。
「裏に文字が綴られてた。これって大昔、この地で栄えた砂漠の王国で使っていた文字だよね?」
「たったそれだけのヒントで、ここまで来たってのか? 相変わらず無茶苦茶だな、あんたは」
「でもちゃんと辿り付いた。そんなに無茶苦茶でもなかっただろ?」
「さあ、それはわからないぜ。いつまでも、おれがこの町に留まっているなんて保証はどこにもないからな。あんたが辿りついた頃には、既に別の町に旅立った後だった可能性も大有りだったわけだ。ったく、後先考えずだな。自分の無謀さにちょっとは気付け」
「きみに会うためなら、後先なんて考えてられない。それに、考えるより先に動けって、ぼくに教えたのはきみだ」
「記憶力も変わらず健在だ。口は、前より達者におなりになったようですがね、陛下」
呆れきったように肩を竦めて、ネズミが返した。
肝心なところで芝居口調ではぐらかす、そんなところは、ネズミこそ相変わらずだと紫苑が思う。
「じゃあ、きみは」
「ん?」
「きみは、どうなんだ?」
「おれ?」
「きみはどう変わった? 気持ちとか変化した? それとも相変わらず?」
ぼくばかり自分を曝け出しているようで狡いと、澄んだ瞳がまっすぐに濃灰色の瞳を覗き込む。ネズミが、フイとそれから目線を逸らした。
こんな瞳に見つめられることは、紫苑と別れて以来、一度もなかった。
そのせいか、何だかいたたまれない。
それが照れ臭さなのだと自覚することもなく、気まずそうにネズミが顔を逸らしたまま、返す。
「さあ。自分じゃわからない。あんたが確認しろ」
何気なく告げた言葉に、なぜかふわりと嬉しげに笑むと、紫苑は、うんわかった、そうするよと頷いた。
そして、ふと何かと思い出したように、そうだと呟き、肩に掛けていた鞄の中を探り出す。
取り出されたのは、赤い光沢のある小さな布袋だった。
「はい。これ、きみの分」
「…えっ」
半ば強引に手渡され、ネズミの顔が、見覚えのある布袋に微かに引き攣った。
そんなことにはまるで頓着なく、紫苑がはにかむように頬を染め、微笑む。
「それ、ペアリングだったんだ。裏に、同じ文章が刻まれてた」
嫌な予感の的中に、袋の中身を取り出し、ネズミが参った、やられたというような苦笑を浮かべた。
片手で頭を抱えるようにしながら、くくっと笑いを堪える。
なるほど。こういうことだったのか。
そういえば、旅人が買って行ったと雑貨屋の男は言っていた。
でたらめじゃなかった、というわけだ。

「…そうか、あんただったのか」

「え、何が?」
「…いや」
なぜか笑いの止まらないネズミを不思議そうにきょとんと見つめ、紫苑がネズミの手から指輪を取り上げ、裏側の文字を確認する。
「うん。やっぱり同じだ。ぼくのと同じ文が刻まれてる」
「ああ、そいつは、古い戯曲の一節だ」
「そうらしいね。これを売ってた雑貨屋の少年が教えてくれた。遠くに恋人を残したまま、旅の途中の砂漠で息絶えた男が、鳥になって、風になって、光になって、星になって、恋人に想いを伝えにいくって、そういう物語なんだって? どこにいてもどんなふうになっても、たとえこの世にもういなくても、『ぼくはきみを永遠に愛し続ける』。」
「…ああ」
頷きながらも、ネズミが内心で舌打つ。
まったく、口の軽い男だ。余計なことまで喋りやがって。
解読不可能な古い文字だと思ったからこそ、てらいなく贈れたものを。
しかし、町の人間ならいざ知らず、旅の者には警戒を露にする少年が、まさかそんな話までして聞かせるとは。
呆れると同時に、感心する。
人も動物もあっさり懐柔する、紫苑マジックは今も健在なのだ。
「でも、ぼくは、指輪から伝え聞く言葉じゃなくて、きみの口から、きみの声で聞きたいんだ」
きみの想いを。
「聞かせて欲しい」
「そのために遠路はるばる、か」
大した物好きだ。
ネズミが、やれやれと嘆息を漏らす。
「そうだ」
言って強く肯き、紫苑が、また例の真直ぐな瞳を上げる。
だが、瞳の奥は、強い光とは裏腹に、不安を映し、縋るように懇願していた。

だから。無碍にしないで。
はぐらかさないで。
ありのままの気持ちを、どうか聞かせて、と。

ネズミが瞳を細め、泣き出しそうな頼りなげな面持ちになる紫苑を見つめ、か細い肩に手を掛ける。
会わないうちにまた痩せた薄い身体を、そのまま、そっと引き寄せた。
耳に唇を寄せる。

「…」

愛の囁きは秘めやかに。
紫苑の耳にだけに届くトーンと声音で、密かに、おごそかに告げられた。
紫苑の瞳が大きく見開かれ、頬が染まり、再び涙が溢れ出す。
ネズミが、照れたように、困ったように笑んだ。
「言っただろう。泣くなんて狡いぜ。あんたに泣かれると、おれは…」
そこで言葉を切って、一つ息をつく。
「どうしていいか、わからなくなる」
「ネズミ…」
紫苑が両手を伸べて、ネズミの肩にふれた。首根に甘えるように頬を寄せる。
「…ありがとう」
想いが届いたことに安堵の表情を浮かべ、紫苑が息をついて目を閉じた。
「違うぜ、紫苑」
「ん…?」
「礼の言うのは、おれだ」
ネズミが両の腕で、紫苑の背をあたたかく抱き包み、笑む。
そして、目を閉じ、胸に迫る万感の思いを込めて、そっと囁いた。
「―ありがとう、紫苑」






気がつけば、宴は終わり、広場は夜の静けさに包まれていた。
空には月。そして、満点の星空があった。
西ブロックから見た空に似ている。見上げ、紫苑がしみじみ懐かしむ。
今では、NO.6でもきれいな自然の星空が見えるようになったけれど、それでも灯りの少ない西ブロックから見た星の数とは比較にならない。
この町も同じだ。
空にはこんなに星があるんだ、と思い知らされる。
今まで見たことのないような星座が、紫苑の頭上できらめいている。
NO.6を出て、随分遠くまで来てしまったけれど、思い切って休暇を取って旅に出てみて本当によかった。
揃いの指輪をネズミの指にはめ、紫苑が頬を染めて、満足げな笑みを浮かべる。
「けど、良かった。対のリングがまだ残ってて。プロミスリングなのに、ぼくだけが持ってて相手がいないなんて、逆に淋しい」
指輪のある自分の手を見つめ、嬉しそうに紫苑が言う。
「しかし、あんた。よく見つけたな。あんな市場の外れの寂れた店で」
「通りがかったのは、偶然だったんだけどね。指輪も、本当にたまたま目に入ったんだ」
直感というやつだろうか。
それとも、もともと対の指輪が、互いに呼び合ったのだろうか。
それにしたって、凄い高確率だ。
もっとも、紫苑ならわかる。在り得る。そんな気がする。
ひとまず、紫苑が同じ指輪をしていることを、雑貨屋にばれなかったのは幸いだった。
〈それも時間の問題のような気もするけれど〉
「とはいえ、おれがさんざん働いて苦労して買ったってのに、あっさりポンと買えちまうなんざ、金持ちはちがうね」
皮肉っぽく言われ、紫苑がむっと口を尖らせる。
「ばかにするな。ぼくだって毎日死ぬほど働いてる。ただ、お金の使い道がなくて溜まってただけなんだ」
それも、この旅でかなり浪費したけれど。
そのうえ、指輪の値がびっくりするほど破格だったので。
財布の中身は、かなり淋しいことになってしまった。
旅人だからと法外な値をふっかけられたのかと思い、値切ろうとしたけれど、刻まれた言葉の由来まで聞かされて、結局、紫苑は交渉のタイミングを失った。
だけども、よく見てみれば、こういうものに疎い紫苑にさえわかるほど物は良かった。
銅貨でもおつりがくるような子供の玩具とは、明らかに違っていたのだ。
「あ。でも、この指輪を買ったら、懐がかなり淋しくなっちゃって。実は、帰りの旅費が足りなくなっちゃったんだ」
「は…?」
「だから、しばらく、この町でアルバイトでもして、お金溜めようかなって」
「―はあ!?」
ちっとも困っていない顔で、にっこりと紫苑が言う。ネズミの眉が剣呑と寄せられた。半目になる。
「ちょっと待て、紫苑」
「うん? どうかした?」
「どうかした、じゃない! あんた…わざとぎりぎりの旅費、いや、片道の旅費だけ持ってここまで来ただろう!」
「えっ、まさか」
「嘘をつくな」
ぐいと襟首を掴まれ、詰めよらせて、紫苑が降参というように両手を上げる。
確かに、指輪という予定外の出費はあったけれど、旅費にあてる予定の金は、ネズミの指摘通り、片道分しか用意してこなかった。
「…だって、せっかく来たのに。少しでも、きみのそばにいたいじゃないか」
「あのなあ、紫苑」
ふて腐れたような物言いに、ネズミが頭を抱えて、苛ついたように嘆息を漏らす。
それこそ、無事逢えなかったら、いったいどうするつもりだったのだ。
そんな紫苑の肩に、ふいにどこからやってきたのか、小さな生き物が駈け寄ってきて、ぴょこんと跳び乗った。チチ…と可愛いらしい鳴き声を上げて、紫苑の頬に鼻先を擦り寄せる。
「クラバット…!! うわあ久し振り、元気そうだね!」
「ちょっ、聞いてるのか!? おい、紫苑…!」
「うるさいなあ、聞いてるってば! ねえ、クラバット、久し振りに再会したのに、相変わらずお前のご主人さまは怒鳴ってばかりだよねー」
「あんたがおれを怒鳴らせてるんだろ!」
「はいはい、ぼくが悪かったよ。きみに迷惑はかけないから、安心してくれ」
「そういう問題じゃないだろう! ったく、あんたわかってるのか? ここじゃ、犬洗いの仕事はないぜ?」
「わかってるよ。それに、別に犬じゃなくったって、ラクダだってお皿だって洗える」
「ラクダと皿を一緒にするな!」
真剣にがなるネズミと、ふと間近で視線を合わせて、紫苑がなんだか急におかしくなり、ぷぷっと吹き出した。
こんな風に喧嘩腰で言い合うのも、物凄く久し振りだ。懐かしい。
西ブロックで一緒に暮らしていた頃は、ともかく毎日、よくネズミに怒鳴られた。
だんだんと紫苑も言い返すようになって、喧嘩みたいになったこともあったけれど、食事の時間になれば、自然といつも通りの2人になった。
そんな毎日が、ひどく愛おしかった。
くすくすと笑う紫苑に、笑いごとじゃない、まったくあんたはと愚痴りつつも、ネズミもまたつられたように、口許に笑みを浮かべた。
2人で顔を見合わせ、笑い合う。
胸の内にあたたかさが広がっていく。
ネズミが、穏やかに瞳を細めた。
「なんだか不思議だな」
「うん? 何が?」
「おれの手の届くところで、あんたが笑ってる」
「うん。きみも」
しみじみ言って、互いに見つめる。

ずっと会いたいと焦がれていた。
胸の中で、いつのまにか狂おしいほど想いが募って、離れていた3年の月日は、ただ、苦しかった。
再会する甘い夢を見ては、目覚めの絶望感に、つらく苛まれた日々だった。
そんな風に、夢の中まで求め続けた恋しい存在が、今、すぐ傍にいる。
手の届く距離に。

「…これは夢か?」
ネズミが手を伸べ、掌で紫苑の頬を包みこんだ。親指の腹で赤い痣を撫でる。
くすぐったそうに両の肩を持ち上げ、紫苑が微笑み、その手にそっと自分の手を添えた。
「ちがうよ、ネズミ」
首を横に振り、やわらかな笑みで否定する。
「夢は、終わったんだ」
ためいきのように告げて、紫苑が瞳を伏せる。
「…そうだな。夢は終わった」
言葉を継いで、紫苑の顎に、ネズミの指が掛けられる。上向かせる。
別れの日と、同じく。
静かに、唇が重なった。
想いを重ねるように、ぬくもりを重ねるように、そっと。
夢の終わりを告げるキスを。


そう。
これが、ここからが。



「――ぼくたちの、現実(リアル)だ――」



誓いの言葉のように唱えれば。
どちらからともなく繋いだ手の中で、薬指のリングがふれ合う。
永遠を紡ぐ、澄んだ厳かな音をたてた。







終わり

きみの夢を見たんだ

ピクシブにアップした後、サイトにもアップしたはずなのに、なぜか下書きのままでした(涙)
気づくのに、一週間もかかるってどうなの?;;

…大変失礼いたしました。
アニメ最終話後のお話です。よかったら読んでやってくださいませv
(ネズミ視点のお話もぼちぼち書いております)
6巻のドラマCDの内容がややネタバレとなってますのでご注意くださいませ。













冬の真夜中のベランダは、息まで凍りつくようだった。
その隅に毛布を被って坐り込み、紫苑は夜空を見上げ、ただ時を待っていた。
今宵は明け方流星群が見られると、職場の昼休みに偶然耳にしたニュースで知った。
流星群なんて、今まで興味はあっても、見ようという気にもならなかったけれど。
どうせ、眠れないのだ。
ならば、明け方までベッドの中で欝々と寝返りをうつより、NO.6では滅多に見られることのない天体ショーを堪能する方が断然良い。そう考えた。


凍てつく冬の空を見上げ、熱いココアを冷えた胃に流し込む。
白い湯気と紫苑の息が、夜の大気に溶け込んでいく。
ココアの甘さが、少し胸に切なかった。


それにしても、星を見るなんて、いったいどれぐらい振りだろう。
西ブロックで、はじめて夜の道をネズミと歩いた時、空に広がる星々のあまりの多さに驚いて、ぽかんと大口をあけて天を仰いでいたら。
とんでもないばかヅラだなあんた、と笑われたりしたけれど。
壁が崩壊して、この都市に戻ってからは、そんな心の余裕さえなかった気がする。
それどころか、日々の仕事に忙殺されて、食事も睡眠もろくに取れなかった。
自分が疲れている事にさえ、気付かなかった。
やっと自覚し始めたのは、つい最近のことだ。
まったく、鈍感にも程がある。
今はもう、日々、微笑みを保っているのがやっとだ。
我ながら、何というか、情けない。 


まったくこれだから、真面目で良い子のお坊っちゃんのやることといったら。
ひ弱なくせに、程々にしておくっていう器用さもないんだな。
…なんて。
きみなら、呆れた顔で言うんだろうな。


皮肉めいた口調で言いながら、それでも心配してくれる彼の遠回しなやさしさを思い出して、紫苑がふっと笑む。
不意に、腕を掴まれた時の痛い程の力強さを思い出した。
もう3年も前のことなのに、感覚はまだはっきりと思い出せる。
辿るように、同じ場所を自分の手で掴んでみた。目を閉じる。


強く腕を掴んで、しっかりしろ、あんたと、怒鳴りつけて欲しい。
弱気を見抜いて、何をやってる、顔をあげろと叱って欲しい。


(……ネズミ…)


心の中で呼びかける。
恋しい名に、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。



どうしてかな。
今夜は、だめだね。
こんな風に、星なんか見ているからかな。
センチメンタルに浸ってるのかな。

きみが恋しい。
いつも以上に、きみが恋しいよ。



星空を見上げ、ぎゅっと両手で膝を抱える。
今頃どうしているだろう。
どこで、どんな空を見ているんだろう。
だれと。



ネズミ。
きみがいなくなって、3度目の冬だ。
時の経つのは早いね。
壁がなくなって、もうそんなになる。
だけど、実際はやっとこれからだ。ここからがスタートだ。
どうにか混乱が収まって、人々が落ちつき、生活を取り戻しつつある。
たったそれだけに3年だって?亀の歩みの方がよっぽど早いぜ、ときみは笑うかもしれないけれど。
問題はまさに山積状態で、昼夜構わず休む間も惜しんでフル稼動しても、これがせいいっぱいだった。
肉体的にも精神的にも、かなりハードな日々だったよ。
もちろん、その分やりがいはあったし、壁がなくなった都市や、人々が、少しずつ変化していくさまを目のあたりにするのは楽しくもあった。
ぼくたちがしたことに、確かに意味があったんだと、そう思えた。
それをきみと一緒に見られたら、もっと良かったんだけれど。


母さんも皆も、変わらず元気だよ。
母さんは、壁がなくなってパンを買いにくるお客さんが増えたから、以前よりさらに忙しくなったって、張り切って毎日楽しそうにパンを焼いてる。
どうやら、ラッチビル新聞の宣伝効果もあるみたいだけどね。
あ、力河さんは、ラッチビル新聞を復活させたんだ。
今ではロストタウンでも読めるようになった。
そういえば、この前、新都市再建委員会のメンバーの一人として、力河さんにインタビューされたんだ。
なんて言っても、力河さんの目的はやっぱりぼくより母さんらしくて、ついでに店の取材とか言いながら、ぼくの写真よりも、ちゃっかり母さんの写真をいっぱい撮ってほくほくして帰って行った。
まったく、力河さんらしいよね。
昔とちっとも変わってないのねって、母さん、笑ってた。
そうだ。イヌカシのホテルでも、母さんのパンの販売をしてくれるようになったんだ。
おかげで毎朝パンを取りに来るイヌカシと顔を合わせるようになって、ぼくとしては嬉しい限りなんだけど。
金になるし、うまいパンがただで食えるし、それはいいんだけどなぁ、火藍がネズミの話を聞かせろってうるさくて困る、そんなのお前に聞いたらいいじゃねえか、なあ?紫苑って、イヌカシに言われたよ。
そうだね。ぼくが話して聞かせられたらいいんだけど。

まだ。
うまく話せないんだ、きみのこと。

うまく、言葉にできない。
できごとのすべてを、きみのことを、きみへの想いを、まだ言葉にして誰かに話せる自信がない。
過去のことのように、語るのがつらい。
きみを過去のことにしてしまうのがつらい。
きみの名を誰かが口にするだけで、今でもひどく感情が揺さぶられる。
自分で口にしたら、きっと泣いてしまいそうになるだろう。


おかしいね。
穏やかに時が流れている。
その中で、ぼくだけが置き去りだ。


都市が、人々が、ゆっくりと歩みをはじめている中で、その中心の一人とならなければいけないぼくが、ぼくだけが一人、置き去りになってる。
3年の時が経ってもまだ、こんなにきみが恋しい。
きみがそばにいないことが、こんなにも苦しくて淋しい。


薄く微笑んで、紫苑が手の中のカップを見つめる。
温もりはもう、消えていた。
一口飲んで、眉を寄せた。
ココアはもう、冷めてしまっていた。
冷たくなってしまったココアの甘さが、微かな苦味が、胸に染みて、かなしい。
出逢った夜に一緒に飲んだココアの糖度も温度も、まだはっきりと思い出せるのに。



きみがいない。
どこにもいない。


甘ったれだね、本当に、ぼくは。
いくつになっても、きみに甘えてる。


自身の心の呟きに、笑おうとして笑えず、きゅっと唇を噛み締める。
眦が、微かに赤みを帯びる。
ずっと、涙は堪えてきた。
一度泣いてしまったら、自分のすべてがなし崩しになるようで怖かった。
自分が保てなくなりそうで。
そうしているうちに、泣くことも上手に出来なくなってしまった。


やれやれ。
きみに言われるまでもなく、無器用で嫌になるよ。自分でも。


紫苑はカップを置くと、凍えた自分の身体を自らあたためるように、深く毛布を被って身を丸め、膝を抱えた。
立てた膝の上に、頬を置く。
小さく溜息をついた。
吐く息が白い。
流れ星なんてもういいから、部屋に戻って、眠れないまでもベッドで朝まで過ごそうか。
ここよりは温かいし。
視線を落とし、ゆっくりと瞼を閉じかける。
もしかしたら、今夜は睡魔が訪れてくれるかもしれない。
いつもより瞼が重く感じる。
いっそ、ここでこのまま眠ってしまおうか。
いや、待て。
ここで眠り込んでしまったら、さすがにまずいんじゃないか?
この寒さの中、こんなところで寝てしまったら。
朝になったら、きっと大変なことになってる。
思い、閉じかけた瞳をぼんやりと薄く開き、そして、はっとなった。
視界の隅で、光が流れたのだ。
慌てて顔を上げ、空を仰ぐ。



「うわ…」


見上げて、思わず息を飲んだ。
予測時間より、まだかなり早いけれど。
星が、夜空を流れ出したのだ。
光の尾を引いて。次々と。


「――すごい…」


紫苑が天を仰いで感嘆の溜息を漏らした。
言葉もなく、ただ一心に流星を見つめる。
儚く、だのに、流れる瞬間は、光をはじくように、強く輝いて。
燃えて、燃え尽きて、消えていく。
まるで、誰かの想いのように。
命のように。


魅せられたように、ただただ星の流れる美しい空を見上げていた紫苑の瞳が、やがて、大事なことを思い出したかのように、はたと数度瞬いた。


見とれている場合じゃない。
そうだ、そうだった。
願いごと、願いごと。
願いごとをしようと思ってたんだ。

『流れ星に願いごとって、紫苑、おまえ子供かよ』って、きっとイヌカシあたりは呆れて笑うんだろうけど。
それでもいいんだ。
星に願いをかける。
流れ出した星が消えてしまうまでに、3度。
願いごとを、3回唱えられれば。
願いが叶う。
誰が言い出したのか知らないけれど、お伽話みたいなことだけれど。
それで、いいんだ。叶うっていうのなら。
試してみるのも悪くない。
呪文のように口の中で唱える。




きみに会えますように、きみに…
うわ、もう消えた。
早いよ。
もう少し待ってくれ。




よし、今度こそ。
きみに会えま……
うそ、もう消えただなんて。




きみに、って
ちょっと、待って。
また、きみしか言ってない。




流れ星って、こんなに消えるの早いんだっけ?
まさか、今夜の流星群は特別流れるのが早いとか、そんなことないよな。




くそ、次こそは。
きみに会えますように、会えますよう…
ああ、もうちょっとだったのに!




あぁ、もっと流れて、早く!
たくさん流れて、
もっと願いごとをぼくにさせて。




きみに会えますように、会えま…
また、駄目か。





落胆しながら、瞳が、それでも新たな流星を夜空に探す。
どこだ、どこに流れる。次はどこ?
そんな自分の懸命さが、滑稽だ。
いったいこんなことをして何になるんだろう。何に縋ろうとしてるんだろう。
ばかみたいだ。わかってる。でも、いいんだ。
笑われたっていいんだ。馬鹿にされたっていい。
こうでもしていないと、ぼくは。
…ぼくは。



せつなさに胸が押し潰されそうになる。
きみがいない痛みで、息ができなくなる。



本当にぼくはだめだね。
悔やんでいる。
今になって、悔やんでいる。
黙って、きみを見送ったこと。
行き先も聞かずに、ただ見送ってしまったこと。
あんたなら大丈夫だと励まされて、微笑まれて。
ぼくがやらなきゃ、と思った。
沙布の想いを、決意を、無駄にしたくなかった。
きみの期待を裏切りたくなかった。
だけど。
どうして肯いてしまったんだろう。あんなに強く。
もうきみが必要じゃないみたいに、きみがそばにいなくても一人で立っていられるみたいに。

泣いたらよかった、縋ったらよかった。
かっこ悪くても、女々しくても、
どれだけ引き止めても、それでもきっときみは行ってしまうんだろうけど、それでも、言えばよかった。

傍にいてほしい。
一緒に生きたい。
きみがいなくちゃ嫌だ。
きみがそばにいないと、ぼくはちっとも大丈夫じゃない。
ぼくは、まだそれほどに、ひ弱で、やっと自分の足で立ち上がったばかりの赤ん坊のような、頼りない存在なんだ。



誰にも漏らしたことのない泣きごとを、本音を胸で落とす。
唇を噛み締める。






泣いちゃいけない。
まだ泣くな。
がんばれ。






自分で自分を励ますように、ぐっと力を込めて自分の腕を掴む。
睨むように、顔を上げた。





願いごとが長すぎるのかな。もっと短くしたらいいのかな。
よし、じゃあ。







きみに会いたい、

きみに会いたい

会いたい、

きみに会いたい

きみに……





流れ星が消えても、願いはそのまま口にし続けた。
星が消えても、願いが消えることはない。
だから。
願い続ける。
何度でも。






きみに会いたい、

きみに会いたい、

きみに………








「会いたいよ、ネズミ……」





声に出した途端、自然と涙がこぼれた。
こらえようとして、肩が震える。嗚咽が漏れた。
今までずっと一人で抱え込んでいた想いが、我慢していた想いが、止められず、溢れ出す。




「会いたいよ、きみに、会いたいんだ! 会いたいよ、ネズミ…!」




最後は、叫びのようだった。
紫苑が、胸の痛みに耐えるように身を丸め、奥歯を食いしばり、全身で泣きじゃくる。
あとからあとから瞳を溢れて流れてくる涙が、ぽたぽたと冷たいコンクリートの上に落ちた。
こんな風に声を出して泣いてたら、母さんが驚いて起きてきてしまう。
だめだ、どうにかしなくちゃ、止めなくちゃ。
だけど、どうにもならない。
止められない。
懸命に、涙を止めようと、しゃくり上げながら、紫苑が息を詰める。
息が苦しい。身体が震える。喉が熱い。胸が痛い。
苦しさのあまり、上体を起こしたその時。




「―――…っ」




突然、背後から、ふわりと目隠しをされた。





(……えっ)





紫苑の唇が震える。
驚きのあまり、声にならない。
言葉にならない。
ただ、全身ががくがくと震えた。
目隠しをされた温かな掌の中で、大きく見開いた瞳から、また新たな涙がこぼれ出した。







「まったく、あんたは…」






心底困ったような、参ったというような声が、耳の傍で聞こえた。
1秒だって忘れたことのない、懐かしい声。
背中にある、温かな気配。
顔が歪む。
胸がつまって、呼吸の仕方がわからない。
ますます、唇は震えた。
声が出ない。
もどかしい。
やっとの想いで絞り出した声は、ひどくふるえ、上擦っていた。


「ネ、ズ…」


「動くな…」
初めて出逢った夜と同じ言葉を、ひどく甘く口にして、目隠しを解かれる。
だが、振り返ろうとした紫苑の頭から、視界を遮るように、素早く毛布が被せられた。
何をと抗う間もなく、背後から毛布ごと抱き竦められる。
息が止まりそうなほど、痛いほどの力で強く抱きしめられた。


「ネ、ズミ…?」
「ああ」
「ネズミ…」
「ああ」
「どう、して…」


声が震える。
初めて知った。
感情の揺れが、波があまりに大きく激しいと、人の身体はこんな風に震えるものなのだ。
言葉もろくに紡げなくなるくらいに。
過去に生態学を学んだけれど、こんなことは誰も教えてくれなかった。




きみはずるい。
そして、ひどい。
突然すぎて、言葉が出てこない。
涙しか、出てこない。





「…顔を」
「ん?」
「顔を、見せてくれ」
毛布の中で、ネズミの腕の中で、紫苑が藻掻くように上体を身じろがせる。
「顔を、見せて、ネズミ」
涙声が懇願する。
ずっと焦がれていたのだ。
知りたかった。
どんな顔になったのか、髪型になったのか。背は伸びたか。肩幅は。手足はどうだろう。
会えなかった時間が、どんな風な変化をネズミに齏したのか、それが知りたかった。
「それは駄目だ」
あっさりと拒絶されて、びくりとする。
「どうして? まさか、怪我でもしているのか? それならぼくが」
懸命な紫苑の言葉に、だが、肩透かしのような含み笑いが返された。
「違う。あんたに手当てしてもらうような怪我は、残念だがしていない」
確かに、初めて会った夜のあんな怪我を、そんなに度々していたのでは、命がいくつあっても足りはしない。
「大丈夫なのか、本当に?」
「ああ、いたって健康だ」
「だったら、どうして」
問い詰める言葉に、なぜか苦笑と嘆息が漏らされた。
そんなに変わってしまったというのか? 顔を見せられないほど。
紫苑の胸に不安が過る。
だが、返ってきたネズミの言葉に、そんな不安はあっさり一掃された。
「いきなり顔なんか見せて、あんたに卒倒されちゃ困るからな」
「えっ…?」
どういう意味だ?
怪我もしていないと言うし。まさか整形したとか。
いや、だからといって、そんなことで卒倒したりはしない。
しばし、考える。
「まさか。きみが良い男過ぎて、ぼくが卒倒するんじゃないかって? 心配してくれてる?」
「まあ、そういうことだ」
「……」
もしかして笑うところだろうか?と、紫苑が真剣に考える。
職場の同僚たちにも、紫苑は天然だから笑いのツボが人と違うと、よくからかわれるけれど。
「…そんな冗談が言えるようになったんだ」
「まさか。おれは至って本気さ」
「そこまで言うんなら。卒倒するほど良い男をぼくも見たい」
「いいのか。高くつくぜ」
「…ローンで良い?」
「仕方ない。あんただからな、特別だ」
特別、という言葉にどきりとしながらも、紫苑がせっつくように手を伸ばし、毛布の端を探した。
「早くしてくれ、息が苦しい」
「わかった、まあ待て、そう焦るな」
そうは言われても、この僅かな間に、流れ星のようにもしきみが消えてしまったら。
そんな怯えが、紫苑をつい焦らせる。
無造作に毛布を掻き分けると、ふいに小さな隙間から星空が覗いた。そこから手を出す。
と同時に、紫苑の手首がぐっと強い力で掴まれた。
引き出されるように、くるまれた毛布の中から紫苑の上体が開放される。
あたたかな暗闇から、凍てつく星空の下へと引き出され、自然と身体が震えた。
が、そんな感覚もすぐに消えた。
「ネズミ……」
緋色の瞳が、目前に接近してきた濃灰色の美しい瞳に、限界まで大きく見開かれる。
さすがに卒倒には至らなかったが、束の間、声も出ず、言葉もなく、ただ見惚れた。
顔つきがやや大人びた。身体つきも少し逞しくなった。
何より、ずっと焦がれ続けていた、夜明け間際の空の色をした瞳が、間近で紫苑を映している。
「…ネ、ズミ」
呼ぶ声が涙声になる。
別れた時と寸分変わらない、あたたかな濃灰色の瞳が紫苑を見つめ、細められた。
「…紫苑」
「ネズミ、だ」
恐る恐るというように、紫苑が呼んで手を伸ばす。まだ震えが止まらない。
指先を、ネズミの頬へとそっと伸べた。

ふれられるだろうか?
消えたりしないだろうか。

何度も何度も、こんな夢を見た。
ネズミ…!と呼んで手を差し伸べた途端、その姿は掻き消え、夢もそこで終わってしまう。

消えてしまったらどうしよう。
少し、こわい。

ふれようとしてふれられずにいる紫苑の手を、ネズミが手に取り、自分の頬へと引き寄せた。
ぴく…とふるえた紫苑の指先が、ネズミの冷たい肌にふれる。

確かな感覚。
確かに、そこに在る体温。
重なった手から、まるで血流が流れこんでくるみたいだ。
あたたかい。

「ネズミ…」
涙を溜めた大きな瞳に瞬きもせずに見つめられて、ネズミが微かに眇目し、唐突に、フイと視線を逸らせた。
まるで怒っているような横顔に、紫苑がどうして?と不思議そうな顔になる。
が、ややあって、理解した。
毛布を被せられた意味が、やっとわかったのだ。
そうか、そういうことか。
(……なぁんだ…)
大人びたと思ったけれど、そういうところはちっとも変わっていない。素直じゃないところも。
顔を見合わせるのが照れ臭いのだ。単に、そういうことなのだ。
あまりに久し振りすぎて。
「こっち、向いて」
微笑むと同時に、涙が頬を伝った。
「ねえ、こっち向いてよ、もう一回、顔を」
顔を見せて、という言葉が涙でくぐもる。
ネズミの視線が、ゆっくりと紫苑に戻った。
大きなあたたかな掌が、壊れものにふれるようにそっと、紫苑の涙に濡れた両の頬を包む。指先が赤い痣を辿った。

名を呼び、どちらからともなく、自然と唇が近づき、ふれる。
触れ合う。
一瞬の、仄かなぬくもり。
それは、心に灯を点すように、あたたかだ。

涙に濡れた紫苑の睫が、ゆっくりと持ち上がった。
そして、膝立つと、両の腕をネズミの両肩へと伸べる。ネズミの両腕もまた、紫苑の背へと回された。
甘く切ないあたたかな抱擁に、互いに眸を伏せ、額を寄せ合う。
話したいことはたくさんあって、聞きたいことも山のようにあって。
だけども、いざとなってみると、どれもさほど重要じゃないことのように思われて。
ただ、抱き合って目を閉じた。

言葉じゃない何かで繋がっている。
今ここに、腕の中に、互いの体温がある。
それ以上に大事なことなど、何も無いんだ。
この宇宙のどこを探しても。





やがて、紫苑が小さなくしゃみを一つ落とした。
ネズミが、くすりと笑みを漏らし、紫苑の肩に毛布を掛ける。
「寒いか?」
「あ、ううん。平気だよ、きみこそ薄着で」
「あんたの話だ。平気じゃないだろ、ちっとも」
見透かすような瞳をして笑むと、ネズミの指先が紫苑の唇にふれた。言葉を促すように、そっとなぞる。
「忘れたのか?」
きみに嘘はつかない。そう誓った。もちろん忘れてなんかない。
「…平気じゃない。でも今は、きみがいてくれるから、平気なんだ」
それは強がりじゃない。真実だ。
紫苑が微笑む。

淋しさのあまり、見失いかけていた。大事なことを思い出した。
ただ傍にいて、互いを甘やかし、依存し合うだけの関係じゃないのだ、ネズミとのそれは。
庇護されていたいわけじゃない。
対等でいたいと思った。
きみに恥じない人でありたい。
うまくまだ纏まらないけれど、紫苑の中でこじれ、こんがらがっていた想いが紐解かれ、整然としていく。
同時に、胸の内で凍りついていた氷片も溶かされていくようだった。







その後、2人で毛布にくるまって、とりとめのない話をしながら、流星を見た。
ネズミの長い足の間に坐り、背後から抱きしめられるようにしながら、あたたかな腕の中で、夜空を仰ぐ。
それは、紫苑にとって、この上ない至福の時間だった。
まるで、夢のように。


そうだよ、紫苑。
これは夢だ。


偶然、ほんの気まぐれに、あんたとおれの夢が融合した。
互いの願いが作り出した、同じ夢の中にいるのさ。

おれに会いたい、あんたと。
あんたに会いたくてたまらない、おれの。



紫苑が、ふわりと笑む。
そうか、これは夢なんだ。
「……いいよ。それでも、いい」
いいんだ。それでも。
朝になったら終わる、ささやかな夢でも。
「夢の中まで、きみが会いに来てくれた…。それだけで、充分だ」
甘えるように、ネズミの肩口に頬を寄せ、逞しい背に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。
「紫苑…」
まだ旅の途中だったきみが、ただ会いたいという想いだけで、きてくれた。
それだけで。
たまらなく、嬉しい。
紫苑の髪を撫でつけていた手がふいに止まり、濃灰色の瞳が紫苑の瞳を覗き込む。
「紫苑、手を貸してみろ」
「え…?」
夜明けが近づく空をちらりと見て、ネズミの手がそっと敬虔な動作で、紫苑の手を掬う。
そうして、細く白い薬指に唇を寄せ、誓いのように口づけた。
東の空が、茜色に染まって行く。
雲の間から陽光が差し込み、紫苑はその眩しさに静かに両の瞼を伏せた。



まもなく、朝が訪れる。













「なあ、火藍。紫苑の奴、大丈夫なのか? あいつ、最近、めっきり顔色良くなくてさ。いっかい医者にでも見てもらった方がいいんじゃねえかな。ほっとくと今に倒れちまうぜ」
「心配してくれてありがと、イヌカシ。私からもすすめてるんだけど、忙しいからってなかなか言うことを聞かなくて。でも、そうね。一度往診を頼んでみるのもいいかも……」
ホテル用のパンをイヌカシに手渡し、火藍が心配そうに2階を見上げたところで、はっと言葉を切った。
「うわああ、寝坊した、やばい、どうしよう! もう母さん、起こしてよ、遅刻寸前じゃない!」
言いながら、慌てて階段を駆け下りてきた紫苑の顔を見て、火藍がさも驚いたような顔になる。
いつもなら青白い顔をして生気無く階段をゆっくり下りてくる息子が、今日に限ってこうなのだから無理もない。
イヌカシもまた、同じくキツネにつままれたような顔になって、紫苑を見た。
「ああ、イヌカシ、おはよう!」
「あ、あぁ、おはよう……って、おい、紫苑…」
ついに疲れが脳味噌に溜まってバクハツしちまったんじゃねえよな?と言わんばかりの表情で、イヌカシがまじまじと紫苑を見る。
「あ、紫苑。ごはんは?」
「ああ、ごめん! 食べてる時間ないよ、もう出ないと」
「でも食べないと、毎日朝抜きじゃ」
「わかってる! あ、母さん。これ一つもらっていいかな?」
「チェリーケーキ? いいの、朝からそんなに甘いもの食べて胸がもたれない?」
「大丈夫だよ、母さんのケーキはそんなにしつこく甘くないから! じゃ、もらうね、走りながら食べるから! 行ってきます!」
言いながらケーキを一つ取り、かぶりつきながら、紫苑が鞄を抱え、ばたばたと店を出ていく。
あっけにとられていたイヌカシも、はっと我に返ると、じゃあな火藍とパンを抱え、慌てて紫苑の後を追って店を出た。
「ちょ、紫苑、待てって! こら待ちやがれっ」
「イヌカシ? どうしたんだ、何かあったのか?」
「何かあったのかは、おれの台詞だ! てか、おまえ、いったいどうしちまったんだ?」
「うん?」
「だから、その、あ? おい紫苑、なんだそれ!」
「え?」
「指になんか、赤いやつが」
ちらりと見えた紫苑の左手に、一瞬きらりと光ったものを見つけ、イヌカシがはたと凝視する。
昨日まではなかったぞ、そんなもの。
紫苑がそれに気付いて慌てて隠し、わかりやすく赤面した。
「うわ、もう、さすがイヌカシ。目ざといな」
長く見なかった紫苑のはにかむような表情に、イヌカシがすぐさまピンと来て、頭に浮かんだ名をそのまま叫んだ。
「ネズミか?!」
「なんで、わかるの!?」
直球な問いに対して、返ってきたあまりにストレートすぎる反応に、イヌカシが何とも言えない顔で紫苑を見つめる。
「…なんでって…」
おまえがわかりやす過ぎるからだろ。
げんなりしながら思う。
それでも、久し振りに見る天然全開の紫苑の顔に、呆れたような、ほっとしたような溜息をついた。
「で、あいつが何だって?」
「うん。会いに来てくれたんだ。夢の中だったけど」
「はあ?」
夢の中でって、何だ、そりゃ。
「でも、朝起きたら、これが指にはまってて。夢じゃなかったってことかな」
それで夢なら、生霊じゃないのか。
しかもそれ。俗に言うプロミスリングとかいうやつじゃねえか、おい。
まさかあのネズミがそんな洒落たものを贈るだなんて、想像しただけでも気持ち悪いが。
だがまあ、生霊で、紫苑相手なら、それくらいやりかねない。
まあ、だけど。
いつまで放っておく気だ、紫苑が壊れてからじゃ遅いんだぞ、ばかやろう!と、ずっとハラハラ見守ってきたが。
あいつも、そうか。ずっと、紫苑のことを―。
へえ、案外かわいいとこあるじゃねえか。
イヌカシが考えて、ほくそ笑む。
そして、紫苑の指にはまっているリングをまじまじと見つめた。
銀のリングの真中には、細く鮮やかな赤いラインが描かれている。清廉で凛とした上品な印象だ。
なるほど、紫苑にぴったりだ。
このリングを見たネズミが、紫苑の髪と痣を思い出したことは、安易に想像がついた。
紫苑の指に似合うだろうと思ったことも。
「で? まさか裏に、”愛しているぜおれのミツバチちゃん”とか、メッセージが入っているとかじゃねえだろうな?」
「えっ、うーん。ミツバチちゃんとは書いてなかったけど」
あるんかい。
冗談で言ったつもりが真面目に返されて、イヌカシがますますげんなりと肩を落とす。
紫苑がリングを外して、光にかざした。
「メッセージなら彫ってあったよ」
「ふうん、なんて書いてんだ、これ」
もともと字は読めないが、このへんで見かける文字じゃないことぐらいはわかる。イヌカシが、眉を寄せた。
「砂漠の民が、かつて使っていた古い文字だから、調べないとわからないけど。…あ。でも、この単語はわかる、かな」
「あっそ。何て意味だ?」
問うなり、紫苑の頬がバラ色に染まり、いやでもちゃんと調べてみないとわからないし、間違ってたら恥ずかしいから、などとぶつぶつ言い訳をしながら、慌ててリングを指に戻した。
なんとなく、察しがついた。
聞かないでおこう。朝から胸焼けなんて、御免だ。
「じゃあね、イヌカシ」
「―紫苑、おまえさん」
「なに? ぼく、もう行かないと」
本気で遅刻、と言いかけた言葉を遮って、イヌカシが訊く。
「追って行くつもりか、ネズミを」
一度背を向けた紫苑の肩が、ぴくりと震えた。ゆっくりとイヌカシを振り返る。
そこには、昨日までの憂いを帯びた表情はどこにもなく、かつて西ブロックで見たあの光をはじくような笑顔が完全に戻っていた。
イヌカシが、はっと瞠目する。
「うん! もう決めたんだ」
じゃあ行ってきますと、まるで今すぐ旅立つかのような笑みを残し、紫苑が陽の光の中を走って行く。
その背を見送り、はたと手に持ったままのパンの入った大きな包みに気付くと、イヌカシもまた、やばいと今来た道を引き返した。
おれのホテルの客は、パンなんて上等なモン食わねえよとかつて火藍に愚痴っていたが、実際売ってみたらなかなかどうして好評で、今や、火藍のパンを目当てにホテルに来る客まで増えたのだ。
早くしないと、腹を減らした客たちが、ぶうぶうと文句を言っているに違いない。
イヌカシが走りながら、ふっと笑む。
「…よかったな、紫苑」
しかし。ネズミめ。
あの馬鹿も、やっと腹を括ったか。ざまあみろ。
矯正施設で紫苑が死んだと思った時は、自分も死んだみたいな情けない顔をしていやがったが。
そして、あの後。
二度と会わないつもりで別れたんじゃないかと、内心勘繰ってもいたが。
――良かった。
あいつら、お互い、ソウシソウアイだもんな。
やっぱり、一緒にいるのが似合ってるんだ。

たった一夜で、紫苑をあそこまで変えることができるおまえさんには、ちょっと、シットっつうか。
いや、ちげえ。
かなり、ムカついてるけどな。


今度、紫苑が旅立つ前に。
何が何でも、あの指輪の言葉の意味を聞き出してやる。
ずっと傍で心配してきたんだぜ。こっちは。
そのぐらいは、知るケンリってやつがあるだろう。


――なあ、ネズミ。



















「はじまりの月夜」書き下ろしサンプル



ぷろく新刊「はじまりの朝とさよならの月夜」の書き下ろし部分のサンプルです。
四年後の再会のお話が書き下ろしで15ページほど入ってます。

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最初に聞こえてきたのは、女の声だ。聞き覚えは無い。だが、顔は知っている気がした。
4年前、ちらりと見た赤い傘の女だ。趣味の良くないセーターの贈り主。
(…あの沙布とかいう女と付き合っているのか?)
ちくりと胸の奥が痛んだ。無論、そんな微かな痛みなど、まるで気付かないふりをしてやり過ごす。
『ここでいいわ』
『気をつけて。あ、沙布。留学、出発はいつだっけ?』
その声に、ネズミがはっと瞳を見瞠った。
(――紫苑)
耳に心地よい、やわらかな声だ。やはり少し大人びたか? それでも口調は変わりない。
懐かしさに胸が熱くなる。
あの頃の姿が、声が、言葉が脳裏に甦ってくる。
ネズミ、と呼ぶ声のトーンも、唇の動きまで。
聞き入りながら瞑目する。
懐かしい。ずっとこのまま聞いていたい。
が、恋人同士の会話の盗聴など、あまりにも趣味が悪い。これでは、まるでストーカーだ。そんな使い道のためにわざわざ修理したわけじゃない。
ともあれ、機能面での問題はなさそうだった。
安堵と落胆に複雑な胸中を誤魔化して、一旦、マイクを切ろうとスイッチに手をかける。が、続いた台詞にぴくりとその手が止まった。
『わたし、あなたの精子が欲しいの』
(………は?)
『あ……えっ?』
『セックスしたい』
『………沙布……えっと…?』
『わたし、あなたとセックスしたいの、それだけ』
(…それだけ、って)
マイクのスイッチを切るのも忘れて、ネズミまでもが茫然となる。
『あの…いや、ちょっと待って……沙布、あの…』
『今すぐによ』
息を飲む。
なんともまあ、大胆な。
あまりにもストレート過ぎる告白に、驚きを通り越して呆れる。だが、ストレート過ぎて、この天然坊っちゃんに通じるかどうか。
モニターの中では、照れたように困ったように頬を染めて頭を掻きながら、紫苑が言葉を選んでいる。
どうする?
誘いにのるのか?
ごくり…と白湯を呑み干し、ネズミの喉が上下する。カップを持つ手に、無意識に力が込められた。
一言一句逃さず聞くべく、耳を澄ます。
『今はだめだ』
『どうして? 女の子に興味がないの? セックスに関心がないの?』
『興味も関心もあるさ。でも…沙布は』
『性的な対象じゃなかった?』
『――親友だと思ってた』
紫苑の答えに数拍の間を置いて、ネズミが脱力したように、はあ…とソファの背に凭れ掛かる。頭を抱えた。
まったく、この天然坊やは――。
童貞喪失の記念日とならなかったことは残念に思ってやる。だが、それはないだろう。
思いながらも、なぜか心の底から安堵していた。
紫苑が、こういう性格でつくづく良かった。
それにしても、もう少し情緒のある誘い方があるだろうに。これだからNO.6の住人は。
『留学期間、2年だろ? 帰ってきた時、ぼくから尋ねる』
『セックスしないかって?』
『うん』
(――あほか、あんた)
失笑が漏れた。
まったく、彼女じゃないが、正真正銘のばかだ。
据え膳を2年も放っておいたら、誰かに先に食われちまうだろ。そういう可能性も考えないのか、このお坊っちゃんは。
やれやれだ。
嘆息して、くすりと笑む。濃灰色の双眸が艶を増し、モニターの中の紫苑の頬を指先でそっと撫でた。
おれなら即押し倒すね、1秒だって待たない。
誰にも渡さない。
誰を思い描いてのことかは頭の隅に置き去りにして、ロボットネズミをけしかけるように操作する。沙布が悲鳴を上げた。
『きゃっ、ネズミ…?』
機械ネズミは茂みを出ると、沙布の横を通り抜け、紫苑の足元からダッフルコートを駆け上がった。



はじまりの朝と、さよならの月夜 ~エピローグ~







濁流が穏やかな流れに変わると、そこは、もう西ブロックであることを意味していた。
汚水から、流れの縁へと上がり、ネズミは激しく咳込んだ。口の中も顔も皆べたついていて、不快でたまらない。汚水を吸い込んだ服も、身体も、鉛のように重かった。
それでも立ち上がると、水路の脇の通路に上がり、ネズミは歩き出した。
まだ先は長い。休んでいる暇はなかった。
残り半分の道のりを、ネズミはぼんやりと、ただ歩いた。
思考回路が完全に停止していた。
何も考えられない、感じない。
自分が息をしているのかどうかさえ、よくわからない。
強い光を宿していた濃灰色の瞳も、今は虚ろだった。
あのNO.6から無事帰還したというのに、逃げきったという達成感も、ざまあみろという高揚感も何もない。
胸の中は、ぽっかりと穴が空いたように空虚だった。

あの日。
老婆が殺され、矯正施設に連行され、その後はまさに激動の日々だった。
思い出したくないことばかりだ。
忘れようにも、忘れられない。
忌まわしいことばかり。
それなのに。
血の泡を吹いて息絶えた老婆の顔も、矯正施設の暗闇で出逢った老の顔も、ろくに思い出せない。
ただ、思い出すのは。

『手当てしてやるよ。手・当・て。わかるだろ?』

『ネズミ? …なんか、違うけど』

『すごいな、これ。押さえる神経の場所とかあるんだ?』

純粋で無垢な笑顔。
あんな顔を人がするところを、初めて見た。

おかしいな。
なんだってこうも、あんたのことしか思い出せないんだろう。
おれの忌まわしいの日々の記憶を塗り替えるほど、あんたの天然は、ずば抜けてひどかったんだ。
きっとそうだ。
考えて、口元が笑む。
だが、次の瞬間。いびつに歪んだ。

「あんた、馬鹿だ。正真証明の大馬鹿だ…」

汚水のプールに落ちていく、その刹那。
ネズミは見たのだ。
紫苑の唇が声を出さずに、
『う、そ、つ、き』
と動いて、そして、涙を溜めながらふわりと微笑むのを。
(なんでそんな風に、おれの全部を赦すみたいに笑えるんだ、あんたは――)
唇を噛み締める。
血が滲んでも尚、きつく噛み締めた。
胸が痛い。
喉と眼球が熱い。
それでも堪えた。まだ膝を折るわけにはいかなかった。
ここで歩みを止めてしまったら、辿りつけない。
どこにも。





ネズミの捜索は、すぐに打ち切られた。
この汚水の中を泳ぎきって、まさか西ブロックに逃れるなど有り得ない。出来る筈がない。
VC103221は、逃走後、ゴミ処理施設の汚水に落下し、死亡した。
たぶんそんな風に処理され、この一件は終わるのだ。
もっとも本音は、一刻も早く、悪臭漂うゴミ処理場を出たかった。それに尽きるだろうけれど。
そして、紫苑は車に乗せられ、治安局内の医療施設で怪我の手当てを受けた。出血が止まってしまえば、それは傷も残らないほどの軽傷だった。
傷が残らないと聞いて、紫苑は酷くがっかりした。
自分が手当てした彼の傷と、似たような場所に傷が残る。それは、記憶を記録として身体に留めておく、唯一の術でもあったのに。
彼とともに過ごした時間が確かにあったのだと、きっと、傷を見るたび鮮明に思い出しただろう。
(そんなのがなくても、絶対、忘れることはないだろうけど…)
それでも、証は欲しかった。
宝物にしたかった。
そして、傷の手当てが済むと、今度は長時間に及ぶ事情聴取が待っていた。
どのようにVCと遭遇し、拉致されたか、執拗に問われた。
『VCとの関係は?』
関係…。
それは、むしろ紫苑の方が問いたかった。
ぼくたちは、いったいどういう繋がりだったんでしょう?と。
そして、なぜ彼が矯正施設につれてこられたのか、どうしてVCと呼ばれていたのか、西ブロックで何があったのか。
彼がどこで生まれて、どんな風に生きてきたのか。
親や兄弟はどうしたんだろう。家は? 
知りたい、聞きたいことばかりだ。
だが、当然のことながら、紫苑からの質問はすべて却下された。逃走幇助についても、意志を述べることは許されなかった。
ネズミとの一連のやり取りを聞いていた局員らは、一様に紫苑に同情的だった。
育ちの良い坊っちゃんがVCにそそのかされ、逃走の手助けをし、言われるままに人質になり、挙句にこっぴどく裏切られた。
その様は、大人たちの目に、ひどく哀れに映ったようだった。
いくら自らの意志でついて行ったと主張しても、取り合ってはもらえなかった。
大丈夫、きみは騙されていたんだ、咎めはない。もう忘れなさい。そう言って、肩を叩かれた。
苦い想いばかりが胸で広がり、紫苑は何一つ聞き入れられない無力感を味わいながら、無機質な白い壁をぼんやりと見つめていた。

やっと自宅に送り届けられ、母と再会した頃には、空にはもう夕闇が迫っていた。
抱き竦められた母の腕の中で、気力を使い果たした紫苑は脱力し、そのまま意識を失った。
もうくたくただった。疲労していた。
主に、心が。
むろん肉体の消耗と疲労も著しく、母の呼びかけに声を発すことさえ、もう億劫だった。
そして、手首には一度捨てたはずのIDブレスレットがあった。
自ら望んで外したのに。
再び、装着することは屈辱だった。
だがこの先も、此処で、NO.6で生きていくためには、どうしてもこの枷が必要なのだ。
自由を奪われ、都市に支配されるための、手枷が。
悔しさに涙が滲む。
幼い自尊心は、ズタズタに傷つけられていた。






西ブロックに辿りついた時には、もうすっかり空は暗くなっていた。地上に続く通路の扉を押し上げ、辺りを窺う。
眼下には、バラックの屋根が連なり、荒廃した町並みが濃い闇に沈んでいた。
その遠くに壁が見える。
NO.6の内と外を隔てる壁。
そして、紫苑とネズミを隔てる壁が。
戒めのように、そびえ立つ。
特に郷愁を覚えるわけでもない、見慣れた西ブロックの風景を見下ろし、風に髪をなぶられながら、ネズミが遠い瞳をした。
紫苑。
あんたなら、この風景を見て、何というだろう。
何を感じるだろう。ぜひ聞いてみたかった。
そして、隣に立って、此処から夜空を見上げたら。
あんたはどんな顔をしただろう。
小さな星のさざめきさえも肉眼で見える、この野性の空を見て。
頬を染め、大きな瞳を輝かせるだろうか。
言葉にならない感動を、何とかネズミに伝えようと、四苦八苦するだろうか。
その様が目に浮かぶようだ。
フ…と瞳を細め、ゆっくりと天を仰げば。
瞑い空には、半身をもぎとられたような、半分の月があった。放心して見上げる。
「――」
青白くぽっかりと空に浮かぶ半分のそれは、まるで己の心のようだ。
突如として、ぐっと、想いが胸をせり上がってきた。
堪えていたものが込み上げてくる。
ネズミは、月を見上げたまま、がくりと両の膝をついた。
「……くッ」
胸を突き上げ、突き破るように、痛みが、切なさが、押し寄せてくる。
瞠目した瞳を涙が溢れた。
それは奥歯を噛み締めても、唇を噛み締めても、両手で強く口を塞いでも、堪えようがなかった。
涙がこぼれた。
あとから、あとから、頬を流れては、西ブロックの荒れた大地にぽたぽたと落下した。


失いたくなかった。
別れたくなかった。
置いていきたくなんかなかった。
離れたくなかった。
あんたをここにつれてきたかった。
ずっといっしょにいたかったんだ。
傷つけたくなんかなかった。
もっとやさしくしたかった。

せめて最後に一言だけでも、
あんたに本当の気持ちを伝えたかった。


畜生、ちくしょう、どうしてなんだ、ばかやろう…! 
どうして、どぉして、どうしておれは……!


「ウ…ワァアアァアア――…」

それは獣の咆哮のような慟哭だった。
大地を拳で殴りつけ、ぽろぽろと涙をこぼし、ネズミは幼い子供のように泣きじゃくった。
失いたくないものと知りつつ、自ら手を離した。
手放した。
後悔と悔しさで、胸が張り裂けそうだった。
 

やがて、西ブロックの空から月が去り、厳かな黎明が訪れるまで。
涙は枯れることなく、荒れた大地を濡らし続けた。







激動ともいえる二昼夜が過ぎ去って、2度と戻ってくるつもりの無かった自分の部屋の中、紫苑はぼんやりと立ち尽くしていた。
見慣れた筈の室内が、やけに無機質に、やけに広く冷たく感じる。
もっとも、此処ももうあと数日で出ることになる。ロストタウンへの移住が決定したのだ。
これでも温情をかけてやったんだと言わんばかりの治安局高官の皮肉げな言葉に、紫苑は微笑みさえ浮かべて、それを甘受した。
特に感慨は湧かなかった。未練も無かった。
息子の無事に喜びと安堵の涙を流し、抱擁とキスをくれた母には、どれだけ心配をかけたかと、あらためて心から申し訳なく思ったけれど。

ネズミはどうしただろう?
無事、西ブロックに逃れただろうか?

考えることと言ったら、やはり彼のことばかりだ。
ベッドに腰かけ、まるであの夜の体温を探すようにシーツの上を掌で撫でる。
今はまだ、何も考えられない。
考えたくない。
NO.6で、一人迎える明日に、何の意味も見出せない。
だからといって、いつまでもぼんやり立ち止まっていたら、きっと馬鹿にされて嘲笑われる。
ほら見ろ、だからあんたみたいなお坊っちゃんは……。
口調と声を思い出すなり、胸がつまった。ぎゅっと切なく苦しくなる胸を押さえ、涙を堪える。
息苦しさを覚えて、逃れるようにベッドを離れ、あの夜と同じように窓際に立った。
息を吸い、両手で思いきり、勢いよく窓を開く。
風が入ってくる。
夜風がふわりと紫苑の頬を撫でた。
―ちがう。こんなのじゃない。
ぼくが欲しいのは、頬を打つ激しい雨と心を揺さぶられる激しい風だ。
痛いほどの嵐なのだ。
唇を噛み締め、バルコニーに出て、落胆したように空を仰ぐ。
刹那、瞳がはっと見瞠られた。
星の少ない明るい空に、ぽっかりと、半分に引き裂かれたような青い月が浮かんでいた。

まるで、ぼくの心のようだ。
だって、半分は、きみに持っていかれちゃったから。

心で呟いて、笑おうとして、ふいにくしゃりと顔が歪む。微笑みがいびつなまま引き攣った。
大きな瞳を涙が溢れる。嗚咽が込み上げてくる。

胸がいたい、胸がいたい。
どうせなら、半分なんて、言わないで、
全部、ぜんぶ持っていってくれたらよかったのに。
どれだけ傷ついても、傷つけられても、それでもよかった。
きみといっしょの方がよかった。
たとえ、殺されたとしても。
きみと一緒が良かったんだ。
一緒に生きたかった。
そばにいたかった。
別れるなんて嫌だって、言えばよかった。

うそつき、ぼくをかばって冷たいふりなんかして、
ばかだ、馬鹿だ、きみは本当に。
どうしてそんなに、やさしいんだ、ばか。
忘れられなくなっちゃうだろ、ひどいよ。

淋しいよ、淋しいんだ。
いつかまたなんて嫌だ、
今すぐ会いたい、今すぐ会いたいんだ。
ネズミ―――…!


「うわぁああああああああ………っ」

手すりを力を込めて握り締め、月に向かって、あの夜と同じように叫びを上げる。
遮る風も雨音もないけれど、それでも、壁を越えて届けとばかり、声を張り上げた。
涙が、あとからあとから瞳を溢れ、頬を伝い、流れ落ちる。
それでも紫苑はやめなかった。
声が枯れても掠れても、きみに届けとばかりに声を上げた。


そうして、やがて月は去り、
NO.6にもじわじわと夜明けが訪れる。
同じ空色を塗り広げたような、
無表情な朝がまた訪れる。












そうして。
月が半月になるたびに、夜空を見上げた。

別れた日の月夜を思い出して、静かに目を伏せた。
あの闇に隠れた半身が、いまどうなっているのかと。
考えて、想像しては、胸は切なく締めつけられるように痛んだ。
 
夜を重ねて、月が氷のかけらのような薄い三日月になると、胸はますます切なくなり、やがて朔を向かえた暗闇の空に不安の涙を浮かべた。

それでも、朝は来る。
繰り返し繰り返し朝を向かえるうちに、痩せ細った月はまた円鏡のように丸みを帯びて、元の形に姿に戻るのだ。


だから、ぼくたちは期待する。
いつかまた巡り巡って、ぼくたちの出逢う『はじまりの朝』が、必ず再び訪れることを。


今夜もまた、
壁の内と外で同じ月を見上げ、想いを馳せる。






終わり。








長らくのおつきあい、ありがとうございました!





     

はじまりの朝と、さよならの月夜(6)





雨の中、紫苑を待っていてくれた赤い傘の色が、瞼の裏に鮮やかに浮かんだ。
沙布。
大切なぼくの親友。
ずっと一緒だと思っていた。
たとえ専攻が違っても、そんなの関係ない。
ずっと同じように目標を持って、共に歩んでいけると思っていた。
だけど、ごめん。
もうぼくは、きみと同じ道を歩くことはできない。
できなくなってしまったという意味じゃない。結果のことじゃない。
ぼくは、ぼくの意志でそれを選んだ。
彼とこの先も共に在りたい。
これが今ぼくの望む、たった一つの未来だ。
だのに。ああ、どうして。
――どうしてぼくは、こうも脆弱なんだ。



ネズミの腕に抱えられて、朦朧としていく意識の中、ぼんやりと紫苑が想う。
銃声の音、鼠の鳴き声、叫び、悲鳴。
心を不安にざわつかせる音が、ぎゅっときつく抱き寄せられた腕の中で一時遠ざかる。
代わりに聞こえるのは、心臓の音だ。
規則正しく、あたたかな、きみの音。
呼吸はもう、乱れに乱れているけれど。
ごめん、ぼくのせいだ。
背におぶされば、少しは楽だろうに。
そうやって、きみは、ぼくが背後から撃たれる可能性から護ってくれている。
自分の背を盾にして、ぼくを護っている。
やさしいね。ほんとうに、きみはやさしい。
ぼくは、そんなきみを護れただろうか。
きみを護れたと言えるだろうか。こんな風で。
それでもね、ネズミ。
何だかこの2日で、ぼくは、一生分の人生を経験したような気がするよ。
他人とこれほどまでに深く濃厚に交わるなんてことは、たとえ90年生きたって、そうそうはないだろうと思う。
…ねえ、ネズミ。
きみにとって、ぼくはどうかな…。
ぼくは、きみにとって……。
意識を手放しそうになって、だらりと紫苑の手が落ちる。指の先から血が滴り落ちた。
耳のそばで、ネズミの怒声を聞いた。
起きろ、目を開けろと叫ばれて、紫苑が薄く、重い瞼を持ち上げる。
ああもう、そんなに大きな声を出さなくったって聞こえてる。
大丈夫。ぼくは、ちゃんと、最後まで、ぼくの役目を全うするんだ。
そのために今、ここにいる。
きみの負担になることに、甘んじている。



地上に上がった瞬間。刺すような太陽の光に、一瞬意識が飛びそうになった。目が眩む。
廃棄ルートを紫苑を抱えたまま駆け抜けたネズミの肉体は、既に疲労を訴え、両腕は痺れて感覚が無かった。
だが、休んでいる暇はない。
紫苑を一旦茂みに隠し、森林公園の中のパーキングに停車中の濃紺の車に接近する。
車中の人間を確認するや、肘で窓を割り、素早くロックを解除し、運転席のドアを思いきり開いた。
キスの真っ際中だった若い男女が、度肝を抜かれたようにネズミを見る。無粋ではあるが、構ってなどいられない。
運転席の男を外へ引き擦り出し、女にも降りろと命じる。もっとも車内に侵入してきた溝鼠の群れに、女は悲鳴を上げると、ネズミに命じられるまでもなく、あっさりと恋人を放って逃げ出した。好都合とはいえ、少しばかり男に同情する。
ネズミは、背凭れを倒したサイドシートへと紫苑を横たえ、シートベルトで固定すると、運転席に回り、エンジンをかけた。行けそうだ。
頭の中で、ゲートまでの道をシュミレーションする。行ける。大丈夫だ。
自分に言い聞かせ、アクセルを踏み込むと、車は唸りを上げてパーキングを走り出た。
森林公園からロストタウンのメインストリートを抜ければ、そこからゲートまでは一本道だ。
だが、恐らくはその手前で検問が行われる。
そこさえ突破できれば。
ネズミの顔に緊張が走る。
ここまで来たんだ。何が何でも逃げきってみせる。
生き延びて、やがて、その喉元に喰らいつき、息の根を止めてやる。たかが鼠一匹とあなどっているがいい、NO.6。
いつかお前に、滅びの歌を歌って聞かせよう。
その時になって気付くがいい。
数多の犠牲の上に成り立っていた聖都市は、数多の呪縛を受けて崩壊するのだ。
ざまあみろ。
バックミラーに遠くなる『月の雫』を睨みつけ、ネズミが冷笑を浮かべる。
―その時。あんたはどうするだろう。紫苑。
NO.6崩壊の時、あんたは何を見、何を守り、何を望もうとするだろう。
(…あんたがもし望むなら、おれが、いつかあんたを此処から連れ出す。必ず)
決意のように胸で呟く。
もっともその頃には、紫苑はもうネズミとはまったく違う未来を見ているかもしれないけれど。
「……う…っ」
サイドシートに横たわる紫苑が、ふいに小さく呻きを漏らし、身じろいだ。ネズミがはっとなり、隣を見る。
腕の出血は治まっている。どうやら、凝固阻止剤は使われなかったらしい。安堵すると同時に、自然と瞳が細められた。
気配を察したのか、紫苑が薄く瞳を開く。
運転席のネズミを見上げると、不思議そうに数度瞬いた。
「ネズミ…?」
「気がついたか?」
「うん…。あれ、もしかして、ぼくたち車に乗ってる…? きみが運転してるのか…?」
「ああ、見ての通りだ」
「へえ、すごいな。免許とか、持ってるんだ」
「まさか。この年で免許なんか持ってたら、そいつは偽造だろ、まちがいなく」
「あー、そうか。そうなるな…。あ、ってことは、もしかして、無免許…?」
「当然」
すまして答えるネズミに、瞬く間に紫苑の眉が潜められ、怪訝そうな顔になる。
「ちょ、だ、だいじょうぶ、なの? まさか、運転ははじめて、ってことは…」
「無いさ。2度めだ」
「そう、なら安心って、えええ…っ」
控えめに驚愕する紫苑に〈怪我をしていなかったら、もっと盛大に驚いただろう〉、憮然とした横顔でネズミが返す。
「いいから、あんたもう喋るな、気が散る。それに、また舌噛むぞ」
「でも、だって、この状況で黙ってろ、っていわれても…! つっ」
「どうした?」
「…舌、かんだ」
「言わんこっちゃない」
「きみの、運転が、荒っぽい、からだろ」
「こっちも必死なんだ、黙ってろ」
ハンドルを握る顔が、紫苑が見てもそうとわかるほど真剣だ。尚更こわい。
左右に揺れる車中で、紫苑がシートの上でもそもそと体勢を変え、いざという時の衝撃に備える。
車は、どうやらロストタウンのメインストリートに差し掛かっているようだった。見覚えのある風景が、窓の外を流れて行く。
どうにか運転にも慣れてきたらしいネズミが、ゆっくりと両肩の力を抜いた。ふうと一息つくと、ちらりと紫苑を見る。
「傷はどうだ? 痛まないか?」
「え、うん。さっきより大分まし、かな。というより、きみの運転が心配で、怪我してることも忘れてた」
「そんな減らず口がきけるぐらいなら、もう大丈夫だな。ここで降りるか」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ…!」
「冗談だ」
慌てて言い募る紫苑に、ネズミが不意に表情を和らげ、フ…ッと笑んだ。紫苑がそれをじっと見上げる。
「……」
「なんだよ?」
「…きみが笑ってる」
「…は?」
「良かった。うん、なんか、良かった…」
ひとりごとのように呟いて、紫苑が微笑んだ。
紫苑が撃たれた時の、ネズミの懸命の叫び、狼狽した声、顔。泣き出しそうな悔恨の瞳を、虚ろになっていく視界で間近に見た。
心で詫びた。ぼくのせいで、きみにそんな顔をさせてしまった、ごめん、と。
その瞳の陰りが今は見えない。それに安堵した。
ほっとしたようなやわらかな笑みに、ネズミもまた瞳を細めた。茶色のくせのある髪をネズミの指が掻き回す。紫苑がくすぐったそうに小さく笑い声を上げた。
が、指の関節で赤みの差した頬にふれ、ネズミがはっと瞠目した。慌てて額に掌を置く。
やはり身体が熱い。発熱している。しかも高熱だ。気丈に微笑んではいるが、これでは相当つらいはずだ。
濃灰色の瞳が苦く眇められた。
ああ、確かにおれはあんたを見くびっていた。
大した坊っちゃんだ。度胸もあるし、根性もなかなかだ。肝も据わっている。
ついていきたいと言った、その本気を見抜けなかった。決意をあっさりと退けた。
だが、その割には、心のどこかで期待していたんじゃないか? あともう少し。もう少しだけなら、一緒にいていいのでは、と。
紫苑の願いを聞くふりをして、そこに自身の願いを重ねていた。連れて行けるものなら連れて行きたいと、たぶん、そう望んでいた。
浅はかだった。
それが、結果として、あんたをこんな目に遭わせた。
仮に、このまま西ブロックに辿りつけたとしても、医者もいない、手当ても出来ない、ろくに薬も手に入らない西ブロックでは、紫苑は死んでしまうかもしれない。
NO.6ではどうといったことはない夏風邪でも、西ブロックでは命とりになる。それが現実だ。
わかっていた筈なのに。つくづく馬鹿だ。
甘ちゃんはおれの方だ。
ネズミがハンドルを握る手に、ぐっと力を込める。悔恨が胸にせり上がる。
そう甘かった。紫苑にも、自分自身にも。
紫苑の傷は、その代償だ。おれのせいだ。
唇を噛み締める。
だが、おかげで目が覚めた。

――今度こそ違えない。
おれは、あんたを全力で拒絶する。

「ネズミ…」
紫苑の熱い手が伸び、何か言いたげに、そっとネズミの膝にふれた。片手にハンドルを持ち換え、その手を包むように、ネズミが手の中で握り締める。

忘れないでいよう。
傍にこのぬくもりがあったことを。
忘れない。たぶん、死ぬまで。
忘れられない。

胸の奥が、きりきりと痛んだ。
それを打ち消すように、アクセルを踏み込む。
治安局の車が、ロストタウンの出口で待ち構えている。
ここからはカーチェイスだ。一気に突っ切る。後戻りはできない。もう突き進むしかないのだ。
「いいか、頭を下げて、しっかり掴まってろ!」
前方を睨み、ネズミが低い声で紫苑に命じる。
さらに強くアクセルを踏み込むと、車は唸りを上げて猛スピードで検問システムへと突っ込んだ。



そこからは、もう会話をしている余裕もなかった。
振り子のように左右に揺れる車の中で、紫苑はシートにしがみついているのが精一杯だった。
サイレンの音が近づく。左右から接近してくる赤いフラッシャーの光に、両側を包囲されているのだとわかった。
が、ネズミの顔は少しも焦っている様子はなかった。
「ゲートを突破するぜ」
「え…っ」
ゲートというのは、NO.6の内と外を分ける壁のゲートのことだろうか。紫苑が逡巡する。
だが、当然ながら許可証無くゲートは開かない。
突破ってどうやって?と疑問を口にする前に、上から頭をぐいと押さえつけられた。
「頭を低くして、じっとしてろよ。さもないと、首がフッ飛ぶぜ」
にやりと笑って、そんな恐ろしいことを口にする。紫苑が緊張の面持ちで身を強張らせた。
次の瞬間、強い衝撃が来た。
破壊音が耳をつんざく。
思わず、耳を押さえて叫びを上げていた。
フロントガラスが粉々に割れ、車の上半分は、降りてきたゲートの扉に引っ掛かり、ひきちぎられて後方にふっ飛んだ。キキキ――ッ…!とタイヤが摩擦で軋む音がして、車は大きくスピンすると壁に激突して何とか停止した。
ばらばらと身体の上に降ってきたガラスの破片を払いながら、シートの上で恐る恐る身を起こす。
まったく、生きているのが不思議なくらいだ。
「大丈夫か?」
「う、うん。きみこそ大丈夫?」
「ああ、何とかな」
ネズミもまた浴びたガラス片を払い落としながら、運転席で身を起こした。
途端に目線が鋭く、険しくなる。
どうやら計画通り、ゴミ処理場の内部へと入り込むことには成功したようだった。だが。
「そこまでだ」
「手こずらせてくれたな、VC」
先回りしていたらしい治安局員が、大破した車の周囲を取り囲んでいた。四方から銃口がネズミへと向けられる。
背後では、ゴォンゴォンと巨大なロウト型の処理機械が唸りを上げていた。燃料やリサイクル原料として再利用できない最終ゴミは、ここで乾燥チップになり焼却炉に送られる。機械から出た汚水は、足元のプールに溜められていた。
濁流のような音が耳に聞こえる。汚水はそれ以上処理されることもなく、一定量に達すると、ダムが放水するように西ブロックへと流されるのだ。
こんな腐臭のする水を、そのまま流すだなんて酷い。紫苑が、自分の置かれている立場を忘れ、ついそんなことを考える。
と、いきなり背後から、ぐいと乱暴に髪を鷲掴まれた。痛みに思わず悲鳴を上げる。が、構わず、シートから力まかせに引き起こされた。
抗議をする間もなく、紫苑の首筋に冷たいものが押し当てられる。びくりとする。それがナイフの刃と知って、息を飲んだ。
「降りろ」
「…ネズ、ミ」
「早くしろ!」
「…うっ」
背後から腕を強く取られ、車から引きずり下ろされる。殺気を感じた。
本気の殺意だ。
本能で感知して、紫苑がぞくりと身を震わせる。
僅かに振り返って見たネズミの表情は、すでに豹変していた。
その顔で、もしも部屋に侵入して来られていたら、紫苑といえど、たぶん恐怖を覚えただろう。そんな悪辣な形相だ。
冷たい汗が紫苑の背を伝い落ちる。
まさか、ネズミ、本気でぼくを…?
「ネ、ズ…」
「貴様…っ!」
「近づくな!」
「…っ」
人質を盾に取られ、治安局の男たちがやや後退した。
「1歩でも近づいたら、この坊っちゃんの首があんたらの足元に転がるぜ?」
片腕で紫苑の身体を拘束し、ナイフを首に突きつけたまま、ネズミが階下のプールの際までじりじりと後退する。
「残念だが、そんな脅しには乗らん」
「へえ? クロノスの坊っちゃんが人質にされてるってのに、あんたら見殺しにするんだ? 度胸あるねえ」
ネズミが強気でせせら笑う。
今の今まで一緒にいたネズミと、まるで別人のような声色と顔つきに、紫苑が混乱したように見開いた瞳を震わせた。
男の一人が、指令官らしき男に耳打ちする。にやりと嗤った。
「人質に危害を加えた場合は、貴様はこの場で射殺刑に処して良いとの許可が降りている。矯正施設へ送られることなく、ここでくたばるんだ」
「だから、馬鹿な真似はやめて、その少年をこちらへ渡せ」
もっともらしい説得に、ネズミが笑いながら両肩を持ち上げた。
「嫌だね」
「何?」
「矯正施設に行くくらいなら、此処で銃殺された方がましさ。どっちみち、献体にでもする気なんだろ、おぞましい。誰がそんな話聞くかってんだ。なあ、酷いよな? あんたからも何か言ってくれよ、坊っちゃん。命乞いでもいいぜ?」
「え、ぼ、ぼくは」
耳元で囁かれて、紫苑がびくりとする。唇が震えて何を言ったらいいかわからない。
「紫苑。きみには、こちらからも聞かねばならないことが山ほどある。VCを隠匿し、治安局への通報を怠り、その挙句に逃亡の幇助をした。これは事実かね?」
「それは…」
「どうなんだ?」
答えを今すぐ要求する空気に、紫苑がしばし逡巡し、狼狽した視線を徘徊させる。
首に当たるナイフが冷たい。
それでも決意したようにゆっくりと顔を上げ、質問した治安局員に答えた。
「はい、事実です」
震えながらも凛とした声が、処理場の壁に反響する。一瞬の緊張と静寂の後、ネズミが唐突に吹き出した。こりゃあいいと盛大に笑い声を上げる。
「はぁ? あんた、正気? というか、天然どころか本物の馬鹿なんだ」
「ネズミ…?」
「騙したままバイバイじゃ、目覚めが悪いからな。最後に教えてやるよ、お坊っちゃん」
言いながら、身体を拘束していた手を伸ばし、紫苑の細い顎を撫でる。性悪な声音で耳に囁きを落とした。
「あんたみたいな天然坊やを騙すのなんて、おれには赤ん坊の手を捻るくらい簡単だったってことさ」
「ネズミ? 何、言って…」
「大人しくここまで人質になってくれてありがとうな。なぁ、どうだった? 楽しかったろう、わくわくしただろう? あんたみたいな温室育ちの坊っちゃんには、たまらないスリルの連続だったよな? けど、もういいだろう。お遊びは終わりだ。さすがにこれ以上、あんたのお守は御免なんだよ」
「ネズミ…」
「そもそも、あんたみたいな家が裕福ってだけの退屈な坊やなんて、利用価値がなきゃ一緒にいたりしない。痛みも苦しみも、本当の不幸がどんなものだってことも知らない、自分の施しで誰かが救えると本気で信じてる、愚かで傲慢な偽善者…! 反吐が出る。なぁ、あんたわかってる? あんたはおれを助けたつもりでも、おれにとってそれは施しでしかないんだよ。あんたは自分の善意に酔って、かわいそうなVCを憐れんで匿って、自尊心を満たしたかっただけだ」
「ネズミ…ぼくは、そんな、そんなつもりで…!」
「なら、どんなつもりだったっていうんだ! あんたは、自分と同じくらいの子供が怪我をして腹をすかせて死にかけているのを見て同情したんだ! 憐れんだんだよ、違うか!?」
「違う、ぼくは、ぼくは…! きみを本当に」
「うるさい、もうあんたのきれいごとなんか聞きたくない! あんたの美辞麗句は、無意識に汚いものときれいなものを分けて蔑むんだ、おまえとは違う生き物なんだって見せつけて、見下して! その度おれがどんな気持ちだったか、あんたにわかるか!?」
「……っ!」
ナイフの刃先よりもずっと鋭い言葉の刃に切り刻まれ、紫苑の心が、身体の内側でどくどくと血を流していく。
こんな風に、言葉で人の心を殺す術もあるのだと、初めて知った。
頭の芯が麻痺している。うまく考えが巡らない。想いが言葉に纏まらない。
何を言っても、自分の言葉が突如彼に届かなくなってしまった。そう思えて、気持ちを言葉にすることが憚られる。こわい。
大きく見開かれた瞳を潤ませ、紫苑が一度ぎゅっと唇を噛み締めた。
「…知らなかった……ネズミ……きみは、そんなに、ぼくのことが、嫌い、だった…?」
涙を懸命に堪えて、震える声が、消え入りそうに弱々しく呟いた。
それでも、ネズミは容赦がなかった。
「ああ、嫌いだ。あんたといると、本当にイラつく。まったく、連れてきたはいいが、足手纏いにばっかりなりやがって。だから、嫌だと言ったんだ、あんたなんか、そもそも人質の価値もない…」
「もういいだろう、そこまでにしておけ…!」
青褪めて俯き、表情を無くす紫苑に、治安局員が同情したように助け船を出した。
そんな紫苑とネズミの背後で、ゴゥンゴゥンと音をたてていた巨大なスプリンクラーが、不意に音を止めた。溜まった汚水が一定量に達したのだ。
ネズミが不敵な笑みを浮かべる。
「そうだな。そろそろ潮時だ」
視界の端を、小ネズミが目にも止まらない速さで横切った。
「バイバイ、坊っちゃん」
「ネズミ…?」
囁かれた別れの言葉に、紫苑がはっと瞳を見開いて振り返る。
「そら、とっとと、ママのところへ帰りな…!」
ネズミが紫苑の背を力強く押すのと同時に、小ネズミが指揮官に飛びかかる。
ネズミはその隙をついて、素早く手すりを飛び越えると、下方のプールへと身を翻した。小ネズミも後に続く。
「ネズミ…!」
「逃げるぞ!」
「撃て!構わん、撃ち殺せ!!」
「待って…! よせ、やめろ、撃つな…っ!」
よろけてもたつく身体を立て直し、紫苑が一斉にネズミを狙う銃身の一つへと飛びついた。
「何をする、離せ、この…っ」
「ネズミ!!」

呼ぶ声に、プールへと落下していきながら、濃灰色の瞳が紫苑を見た。
束の間、邂逅する。
紫苑の唇が声に出さず、懸命に何ごとかを告げる。
そして、涙を浮かべながらも、ふわりと微笑んだ。
「…っ」

だが、それもほんの一瞬のことだった。
ネズミが水面に達するのとほぼ同時に、プールの底が開き、一定量に達した汚水が流されて行く。
ごうごうと音をたてて、西ブロックへ。
濁流の向こうで、紫苑の叫ぶ声が聞こえた。
名を呼んでいるようだったが、もうそれも聞こえない。
浮遊物が漂う褐色の粘りのある水の中では、もう何も考えることが出来なかった。
目も開けられず、息も出来ない。
生きることに意識を集中していなければ、あっという間に呑み込まれる。溺れてしまう。
流れに身をまかせるようにしながら泳ぐ。
ただ、泳ぎきる。
ネズミに出来ることは、後はもう、それだけだった。






出逢いが、
早過ぎたのかもしれない。
求めることに、
急ぎ過ぎたのかもしれない。
もしも、
この出逢いがもっと後であったなら。
こんな風に、
一度繋いだ手を離さずに済んだのかもしれない。





それでも。


拙いなりの、幼いなりの、
これが今の2人の精一杯だった。




せいいっぱいの愛だった――。










はじまりの朝と、さよならの月夜(5)






予感はあった。
明け方、風が変わったのだ。
雨の匂いがした。
程無く、小雨がNO.6を覆うだろう。
水のベールのように。
罪も穢れもひた隠すベールのように、
聖都市を覆うだろう。



「降ってきちゃったねぇ」
シェルターを出て、丘を駆け降りながら、紫苑が空に向けて手をかざした。
ああ、と応えてネズミが灰色の空を見上げる。
ゆうべの晴れた夜空が嘘のようだ。どんよりと曇った空は、ぽつぽつと地上へと大きな雨粒を落とし始めている。
朝の人の流れに紛れる算段でいたが、さてどうする? 自問する。
何せクロノスの住人は、雨の日に傘を差してまで外を歩こうなどという酔狂なことはしない。
子供だって登校には車を使うだろう。
こうも人通りがまばらとなると、目立つ上に、治安局の連中を動きやすくしてしまう。
だが、地下は既に包囲網が張り巡らされている筈だ。そして、住民の目がないのを良いことに、容赦なく発砲してくるだろう。数日前と同じように。
小汚いドブネズミ一匹始末するくらい、何とも思っていないのだ、やつらは。
だとすると、少しでも地上にいた方が安全性は高いと言える。
雨の中、行くか。
「……」
ネズミの目が、ちろりと隣の紫苑を見た。
ひ弱そうに見えるこのクロノス育ちの坊っちゃんが、果たして雨の中走れるだろうか? 
が、すぐさま思い出した。
隣にいるのは、クロノスで唯一かもしれない『例外』だ。
雨を嫌うどころか、嵐の中、好んでずぶ濡れになって叫ぶような物好きな人間だった。
「えーと、傘、かさ、っと」
紫苑が意気楊々とリュックの中に手を突っ込み、奥底から折りたたみの傘を取り出した。
小さな傘だが、ボタン一つでサイズ調節が可能な優れモノなんだと、ゆうべリュックの中身を披露したついでに自慢していた。
つまり、一つしかないけど二人一緒でも充分入れるよ、ということだ。
パンと軽快な音がして、傘が開く。
それは、さらに、まるで羽を広げるように元の直径よりも1.5倍近く大きく開いた。
「はい、ネズミも入って」
「はぁ、冗談だろ。あんたと一緒じゃ動きにくい」
「でも濡れちゃうだろ」
「濡れる方がましだ」
「風邪ひくよ」
「まさか。あんたみたいにやわじゃない」
「何、照れてるんだよ」
「なっ、別に照れてない」
「だったらほら。IDブレスレットもしてないんだから、誰が見たってぼくら怪しいんだし。それにきみ、顔見られちゃマズイだろ。傘に隠れていった方が絶対安全だ」
得意気に言われて、ネズミがむっとする。
が、紫苑の言う通りだった。
NO.6の住人はすべてIDブレスレットの装着が義務づけられている。腕にそれがないということは、暗に外部からの侵入者であるということを意味しているのだ。
ましてや、ネズミは手配中のVCだ。治安局からのメールには、その容貌がくっきりと映し出されていた。  もし気付かれたら、閑静な住宅街はパニックに陥るだろう。面倒だ。
フンと鼻を鳴らして、ネズミが渋々紫苑が開いた空色の傘に入る。紫苑がくすりと笑むのを、忌ま忌ましげに睨みつけた。
「かせよ、おれが持ってやる」
「いいよ、ぼくの方が背が高いもん」
「変わんないだろ。あんたじゃ、いざって時に役に立たない。よこせ」
「あぁ、もう。強引なんだから」
紫苑の手から傘の柄をむしり取り、ネズミが周囲の様子を窺いつつ、丘を下った道から整備された舗道へと出る。
表情が俄に険しくなった。
明らかに当局の連中と見られる怪しげな男が、雨の中、遠巻きに点在している。僅かに生活路に出ている人たちも、善良な市民に見せかけた局員かもしれない。
無意識に紫苑を傍らに引き寄せて、ネズミが自身の行動にはっとなった。
いや、間違ってはいない。
紫苑は人質なのだ。人質は自分の身の安全のためにも、片時も傍から離してはいけない。鉄則だ。
ポケットの中のナイフを、いつでも取り出せるように一度ぐっと握る。
「それにしても、返って目立つんじゃないか、この傘の色。あんた、本当に趣味悪いな」
「うるさい、これしかないんだから仕方ないだろ」
「セーターといい、傘といい」
「セーターは沙布に貰ったんだ、って、もう、着ておいて文句言うなよ」
「あんたがこれ着ろって言ったんだろ」
「だって、ちょうどそれがベッドにあったから…」
緑の多い道を歩きながら、紫苑が唐突にはっと口をつぐんだ。
前方にある赤い傘を見つめ、瞳を凝らす。  
唇が、呟くように小さく名を呼んだ。
「…沙布」
そういえば、彼女も紫苑と同じく、雨の日は傘を差して歩きたいタイプだった。傘に当たる雨音を聞くのが好きなんだと言っていた。
雨の中、まるで誰かを待つようにゆっくりと歩く沙布の背に、紫苑が切なそうに瞳を細めた。
たぶん、同じように傘を差してくるであろう紫苑が、後から追いついてくるのを待っているのだ。
「さふ?」
ああ、このセーターの…と言いかけて、ネズミが紫苑の横顔を見る。
何を考えているのか、そんなことまではわからない。だが、今まで脳天気だった紫苑の顔が、瞳が、微かな陰りを見せていた。
ネズミが、それらから視線を逸らし、ぎゅっと拳を握り締める。改めて気付いた。
紫苑はもう、たとえネズミと別れて母の元へ戻ったとしても、元の生活には戻れない。
幼馴染みの彼女とも、二度と同じ位置に立つことはない。同じ道を歩くことはない。一度脱落したものには、2度と這い上がるチャンスを与えないのだ、この聖都市は。
隔たりを作ってしまった。
そのことが重くネズミに圧し掛かる。目を伏せた。
「……ごめん、沙布…」
紫苑が赤い傘に向かって小さく呟く。
まるで、決別の言葉のように聞こえた。
「…紫苑、あんたは」
「行こう、ネズミ」
ネズミが何が言おうとするのを遮って、紫苑が意を決したようにきっと前を向き、ネズミの腕を引く。
向かう先は、彼女の進む方向とは逆だった。
背を向けるように、道を逸れる。足早に歩き出した。
突然強さを増した雨脚に、ふいに不安げに赤い傘が振り返る。
誰かに呼ばれたような気がしたのだ。
「……紫苑?」
だけども、彼女が探し求めた姿はそこにはなく、呼ぶ声に答える者もなかった。



学校に来ない紫苑を、彼女はどう思うだろう。
心配するだろうか。
もしかすると、家を訪ねてくるかもしれない。
だとしたら、母は彼女に何と説明するだろう。
ネズミと行くということは、同時に、母は勿論、彼女とも決別するということだ。
このまま一生会えないかもしれない。
考えて、心が揺らぐ。
何一つ言葉も残さずいなくなる自分を、彼女らはどう思うだろう。
せめて何かひとこと、そう思うが、この状況下では無理な話だということも知っている。わかっている。
きゅっと唇を噛み締める。
それでも、ネズミと行く方を選びたかった。
理由は、何だろう。
これまで生きてきた全部捨ててもネズミを選ぶ、その理由は何なんだろう。
自分でもよくわからない。
ただ、その先にあるものに価値を見出しているわけではなくて。
ネズミと別れたくない。
もっと一緒にいたい。
いくら考えても、理由はそれ以外見つからなかった。



無言になってしまった紫苑を気にしながらも、ネズミはこれからのことを考えなければならなかった。
そうだ、天然坊っちゃんは利用するだけ利用したら置いていくだけだ。関係ない。気にするな。
本気でついてくるつもりでいるらしいが、地下の状況を見れば気も変わる。たぶん、入り口で鼻をつまんだまま、1歩も動けなくなるだろう。
紫苑はそこで置いていく。それでいい。
だから、気にしている場合じゃない。
廃棄ルートK0210の入り口は、多分、治安局に先回りして包囲されている。だったら。
頭の中で地図を描く。
K0210から枝分かれしている狭い通路のうちの一つを使うか。L015なら、此処から近い。
小ネズミから得た情報によれば、内部が入り組んでいてかなり狭い。大人では中腰に成らざるを得ないが、子供なら少し屈んだだけで駆け抜けられる。
K0210に合流後は、西へ移動。
さらに別の横穴を通り、森林公園の地下まで辿りついたあとは、車を奪い、ロストタウンを抜けて、ゲートを壊してゴミ処理場まで一気に走り抜ける。
車の運転は数度やっただけだが、仕組みは知っている。動かすくらい、わけない。
大丈夫だ、やれる。
ぐっと拳を握り締めた。
走り寄り、肩に乗ってきた小ネズミにその旨伝え、行けと命じる。チチ!と鳴くと、小ネズミが肩を駆け降り、伸ばしたネズミの指の先から跳び出すと、素早く脇の茂みへと姿を消した。
ややあって、ルートを確認した小ネズミが戻ってき、再びネズミの肩に駆け上がり、盛んに首を振ってチチチと鳴き、報告をする。
よし、とネズミが頷首すると、再び駆け出し、ネズミを追い抜き、茂みへと飛び込んだ。
「走るぜ」
傘を下げて顔を隠し、ネズミが紫苑の耳に囁く。
えっと驚く間もなく腕が強く引かれ、走り出したネズミに引っ張られるようにして、紫苑は道の脇へと進行方向を変えた。
強い風に、空色の傘が煽られ、宙を舞う。
だがもう、気にしている余裕はない。
あとはもう、ただ引っ張られるままに、雨の中、道なき道を走り回った。



小ネズミが見つけたきた地下の入り口は、噴水公園を取り囲む木々の中に存在した。
天気が良ければ、のんびりと犬でも連れて散歩を楽しむクロノスの住人たちに、さぞや怪しまれたことだろう。
マンホールの蓋に手を掛け、慎重に開ける。
長く使われていなかったそれは、周囲が錆びついていた。が、ネズミが渾身の力で引き上げれば、軋んだ音とともにぱくりと開いた。先に小ネズミが入り、内部の情報をネズミ知らせる。
どうやら、このルートはマークされていないらしい。
そもそも、廃棄ルートがどこにどう繋がっているかなど、治安局は勿論、保健衛生局でも把握しきれていないんだろう。
不必要なものの管理など、誰が好んでするものか、このNO.6で。
そうして、汚水はろくに処理もせず、西ブロックに流される。
汚いものは、全部壁の外に捨てればいい。
物も人も。
そうして、内側の衛生と健全が保たれれば何も問題はない、表面上は。
(…傲慢なことだ)
ネズミが忌ま忌ましげに内心で吐き捨てる。
ふと紫苑を見た。
彼もまた、NO.6を象徴するひとつだ。
無知で傲慢で、そして恐怖心もろくに知らない。
怖いもの知らずだ。
自身の夢や希望は、すべて叶えられると信じている。
思い上がっている。
「わ、この穴の大きさじゃ、リュック背負っては無理かな。先に下に落としたほうがいいかな」
「必要ない」
「え?」
「聞こえなかったか? 必要ないと言ったんだ」
ぴしゃりと言われ、紫苑がきょとんとする。
「え、でも。救急ケースも入ってるし、まだ食料も少しなら」
「残った食料は、あんたが家に帰ってから食えばいい。遠足のおやつのあまりだとでも思って」
「…どういうこと?」
「言っただろ。ここで、バイバイだ」
感情を入れずに、ネズミが告げる。紫苑の瞳が大きく見開かれた。
「ネズミ、ぼくは一緒に行くって昨日もきみに…!」
「おれとあんたは互いに相容れない、異質のものなんだ。一生かかっても理解できない、この先も道が交わることはない。だから一緒には行くことはできない」
「ネズミ…」
「あんたはあんたの行くべき道に戻るんだ。多少逸れたとはいえ、今ならまだ軌道修正が可能だろ」
「ぼくは、ぼくの行く道は、きみの進む道とも交わってると思うよ、きっと、だから…!」
「幻想だ」
「ネズミ!」
「夢見がちな坊っちゃん。冒険は終わりだ、もう充分楽しんだだろう。それで満足しろ。ここから先は『冒険』じゃない。生きるか死ぬかの本気の戦いだ。あんたじゃ戦士になれねえよ」
「きみの言いたいことはわかる、ぼくが足手まといだってことも知ってる」
「なんだ、わかってるじゃないか。だったら話は早い。これ以上おれの邪魔をするな」
「きみは一人で逃げたらいい。ぼくは勝手についていく。ゆうべもそう言った。それにまだ先は長いだろ? ゲートを突破するまで、人質がいた方がきっと逃げやすい。必要だって、きみ言ったじゃないか、だったら最後まで有効に使えよ…!」
息つぎもろくにせず、一気にまくしたてる紫苑に、ネズミが言葉を詰まらせ、怪訝そうに眉を潜ませる。
なるほど。ネズミに言われることを予測して、反論する台詞を予め用意していたのか。
まったく、何でも言葉で解決できると思っている、頭の良いお坊っちゃんはこれだから。
こんな状況下だというのに、まったく呆れる。
そして一時、言いくるめられている自分にも驚く。
だが、驚いている場合ではなかった。公園内の入り口から治安局の車が入ってきた。まずい。
「あんたは、そこでいつまでも御託を並べてたらいい」
冷たく言い放つと同時に、ネズミが紫苑に背を向け、大人がやっと通れるほどの狭いマンホールの中へと、ひらりと身を翻す。
はっと振り返り、治安局の車に気付くと、紫苑も遅れてマンホールの梯子へと足を掛けた。狭い穴にリュックが引っ掛かり、邪魔になる。投げ落とそうかとも思ったが、下が水路であることに気付くと腕に掛けた。重みでバランスを崩しそうになる。
そうして、苦労しつつも内側から蓋を閉めると、中は薄暗がりの闇に包まれた。
同時に、目や鼻を汚物の悪臭が襲う。今まで嗅いだことのない強い刺激臭に息が出来ない、目が開けられない。
目を刺すような痛みに涙が滲んだ。胸がむかつく。胃が逆流する。
梯子から、半ばずり落ちるようにして、紫苑は足元のぬかるみに降り立った。途端に、胃が押し上げられ、嘔吐感が込み上げてくる。
「…うっ」
滑った壁に手を掛け、慌てて口を押さえたが間に合わなかった。紫苑は蹲るように身体を折って、その場で激しく嘔吐した。
暗闇の中、ネズミの声がした。
「分かっただろう。あんたには無理だ」
静かな声が頭上から降ってくる。
それは蔑んでいるわけでもなく、罵っているわけでもなく。どこか哀れんでいるような、そんな声音だった。
「あんたとおれでは、住む世界が違うんだ」
その声が、紫苑に現実を突き付ける。
どれだけ求めようと、一緒にいることはできない。頭で考えても解決しない。感情だけではどうにもならない、これが現実なんだ。
「ここまでだ。あんたとは」
まるで自身に言い聞かせるようにネズミが言い、背を向ける。小ネズミが、何か言いたげに足元からネズミを見上げ、小さくチチッと鳴いた。
「ネ、ズミ…」
こんなところに置いていくのは偲びないが、やがて治安局がこの中にも踏み込んでくるだろう。発見されるまで、少しの我慢だ。ネズミが、胸で呟く。
それでも一緒に行きたいと言ってくれた紫苑の言葉は、素直に嬉しかった。
だが、もう充分だ。
「――悪かった。あんたを巻き込んだこと、すまなかったと思ってる」
背を向けたまま、噛み締めるようにネズミが言った。紫苑が荒い息を吐き出しながらも、はっと瞳を見開く。
暗がりの中、向けられたその背がやけに小さく見えた。
「待っ、て」
紫苑がぬかるみの中で、這い擦るようにして手を伸ばした。
このまま、行かせたくはなかった。
「ネ、ズミ…っ」
ネズミが、ビクリと動きを止めた。走ろうとした足首に、紫苑の指が掛かる。
力が入らないまま、それでも懸命に掴んだ。
縋るつもりはない。
待って、というつもりもない。
ただ、伝えたかった。
「ぼくはきみに、謝られることなんか、なにもない…っ! それに」
リュックを足元に捨て置き、吐き気が止まらない口を押さえながらも、紫苑がよろよろと立ち上がった。
「言っただろう。ぼくはぼくで、勝手についてくから、って。まだ、ギブアップ、なんてしてない、無理かどうか、まだわからない、だろ。あんまり、ぼくを、見くびるな…っ」
強気の発言にも関わらず、声は震えていた。膝もがくがく震えている。振り返らなくても、かなり悲惨な有り様だということは安易に予想がついた。
それで、ついてくるだって?
あんた、本当にどうかしてる。
不意に、ネズミが笑った。
だけど。そんなあんただから――。
「なるほど、よくわかった。あんたは、おれが思ってたよりずっと、負けん気が強いんだ」
「今頃、わかったの、か?」
「あぁ、わかった。だったら好きにするといい。おれはおれ、あんたはあんたで勝手にするさ」
「望むところだよ…」
今一つ迫力に欠ける声で返せば、フッと笑って、ネズミが合図のように走り出した。ついてこれるものならついてきてみろ、とそんな風に。
小ネズミが、紫苑を気にしながらも慌ててネズミを追いかける。水先案内人の役目を果たすべく、ネズミを追い越して前方に回った。
紫苑も急いで後を追う。もたついていては、この薄暗がりの中、あっという間にネズミの姿を見失ってしまう。
ぐいと口の汚れを手の甲で拭い、滑る足元にスニーカーの靴底を捕われながらも走り出す。
やがて、暗さに目が慣れてくると、縦横無尽に走る地下水路が闇の中に浮かび上がってくる。嘔吐で汚れたベストを脱ぎ捨てると、少しだけ身軽になった。
鼻も馬鹿になってしまったのか、異臭もあまり感じない。
―行ける、追いつく、絶対に。
唇を噛み締めて、前を見つめた。
ぬかるんだ通路に足を取られ、少し走っては、何度も転んだ。その度、懸命に立ち上がる。身体中が痛かった。でも休むわけにはいかない。
勝手についていくと言ったのは自分だ。ネズミは好きにすればいいと応えた。
その代わり、おれはあんたを助けない。
ついてきたいのなら自分の力で勝手についてこい、と。
だから、そうする。彼にも自分にも甘えない。
足手纏いになるとわかっているけれど、無謀だとわかってもいるけれど、それでも自分の決意から目を背けたくはなかった。
ふいに、足もとでチッと低い鳴き声がした。
小ネズミは先に行ったはずなのにと驚きながら見下ろし、さらに驚愕した。
声の主は、やはり小ネズミではなかった。
それよりもやや大きいサイズの灰色の溝鼠が、隧道の奥から続々と合流してきていたのだ。



地下の廃棄ルートは、治安局が既に包囲網を張っていた。予想に違わず、だ。
地上での移動は正解だった。
だが、クロノス居住区の入出には、ゲートでIDブレスレットを呈示して、居住権があることを証明しなければならない。ゲートを通らないためには、最終的には地下を使うしかない。
つまり、そういうことだ。
上では泳がせておいたらいい。いずれ、地下に降りるしか手はなくなる。
所詮、やつは溝鼠だ。下水道の汚物が好みなのさ。
下卑た嘲笑が聞こえてきそうだ。ネズミが皮肉げな笑みを口元に張りつかせる。
とはいえ、たかが子ネズミ一匹に大仰なことだ。
さぞや上の者は、嘆きの溜息をついていることだろう。
だがこちらも何の策も持たず、地下に降りたわけじゃない。ネズミがにやりと笑む。
もっとも策があろうがなかろうが、一度この廃棄ルートを使ったことのあるネズミの方が、重装備の局員より断然有利なことは間違いなかった。
それに何といってもあの時は、体力が既に限界値を越えていたのだ。
疲労、空腹、そして、傷の痛みと出血。
まだ走れていたのが自分でも不思議なくらいだった。

生きたい、こんなところで死ぬもんか。
そう思いながらも、意識は次第に朦朧となり、じわじわと諦めがネズミの心を侵食し始めていた。
そんな時。ふと疑念が湧いた。
果たして、生き延びて、その先にいったい何があるというのだろう…?
育ててくれた老婆は殺された。還る森は既にない。
残されたのは、西ブロックの地下室と、本と、小ネズミたち。
待つ人はいない、もう誰も。
たとえ生きることを諦めても、咎める人もいない。だったら。
もういいんじゃないか…?
もう疲れた。眠りたい。たとえ泥水の中でいい。休息が欲しかった。
たとえ、それが永遠の休息となっても構わない。
生きることをもう、このまま手放そうか…?
――出逢ったのは、そんな時だった。
窓が開いた。奇跡の窓が開いたのだ。
笑うかもしれないが、紫苑。
あんたは、死の暗闇でおれが見つけた最後の希望の光だった。

暗い隧道の中、次第に近づいてくる複数の足音を聞きながら、ネズミが笑む。
不気味に地下道を反響しながら接近している靴音に、ナイフを取り出し、走りながら臨戦体勢を取った。
間もなく、K0210に合流する。
狭い横穴から、白いコンクリート壁の広い空洞へと猛然と跳び出した。銃口が向けられる。複数の銃から一斉に発砲された。
パン、パンと連続して放たれたそれを、ネズミは素早く身を低くしてかわし、一気に駆け抜ける。ナイフがきらりと鋭く光った。銃を持った男の腕から血飛沫が上がる。
ぎゃあっと悲鳴を上げたのは、別の治安局員だった。小ネズミが目にも止まらぬ早さで戻ってくる。
チチ!とネズミの肩に登ってかん高く鳴くと、次いで、別の場所からも続々と悲鳴が上がった。
横穴から飛び出した灰色の溝鼠が、無数に白い壁を駆け上がってくる。あちらこちらで局員の悲鳴と銃声が上がり、銃弾が跳ねる音がコンクリートの壁に反響した。その中を、ネズミが駆け抜け、奪い取った銃で応戦する。
パニックに陥った局員らが救援を要請したのか、水を跳ねて近づいてくる足音がまた増やされたようだった。ネズミが舌打ちを落とす。しつこい奴らだ。
だが、あまりここで長居していては不利になる。
ネズミは行く手を塞ごうと目前で銃を構えた男に足払いを掛け、バランスを崩して倒れてきたところを鳩尾めがけ、思いきり膝をめり込ませた。男がぐわぁと呻きを漏らし、顔から汚水に落下する。
別の横穴に飛び込んだ小ネズミが逃走ルートを先導し、ネズミを呼んだ。ネズミがそれに応え、踵を返す。
が、男は、思いのほか、体勢を立て直すのが早かった。蹴り倒した男に足首をつかまれる。
「チッ…」
ああまったく。今日はやけに足を掴まれる日だ。
思いながら、だが、男の割れた額を蹴ろうとして、ネズミは一瞬躊躇した。
この靴は、紫苑のものだ。
紫苑が、ネズミにくれたものだ。
この靴をネズミに履かせるためにわざわざ追いかけてきたのだ。
その靴底が、男の流した血で汚れる。
それは、同時に紫苑の白さをも汚すような気がした。
むろん、そんな躊躇の時間は1秒にも満たなかった。だが、その瞬きほどの空白の時間が、戦いにおいては命取りになる。言われるまでもない、そんなことは身を以って知っている。が、結果として、それは僅かな隙をネズミに齏した。
溝鼠に鼻をかじられていた別の男が、その隙をついてネズミへと銃口を向ける。はっとなる。
小ネズミが素早く銃身に飛びつく。
だが、遅かった。間に合わなかった。

――パァン…!

銃声がトンネル内に響き渡った。
ネズミが大きく瞠目する。心臓の辺りがぎりっと痛んだ。

目の前を、
スローモーションのようにゆっくりと、
赤い花のように血が舞った。
紫苑が、
倒れていく。

「紫苑…?」

咄嗟に、倒れ込んできた身体を両腕に抱きとめる。紫苑を撃った男の喉元に、小ネズミが喰らいついた。それを合図に溝鼠たちも男に襲いかかった。悲鳴が反響する。
だが、ネズミの耳にはその声さえ入ってこなかった。
何も聞こえない。
一切、何も。
「紫苑……?」
腕の中でぐったりしている紫苑に、茫然と呼びかける。抱いた手が、べっとりと鮮血に滑った。
ネズミの背をぞわりと冷たいものが走る。それは恐怖と名のつくものだったかもしれない。
「紫苑! 紫苑、紫苑っ! しっかりしろ、紫苑!」
懸命に呼びかける。だが、返事はなかった。
濃灰色の瞳が限界まで見開かれる。

まさか。そんな。
そんなこと、ないよな?
このまま目を開けないなんて、
そんなこと、ないよな…?
あんたがこんなことになるなんて。
おれをかばって、まさか、あんたが。

恐慌がネズミを襲う。
小ネズミがかん高い声を上げた。はっと我に返る。
そうだ、立ち止まっている場合じゃない。
此処に留まっていては、どちらにせよ、二人とも命はない。
先ほど小ネズミが示した横穴へと、紫苑を腕に抱えて猛然と飛び込む。
穴は狭い。子供の背よりも天井は低かった。その分、大人では侵入が困難だ。入り口は、溝鼠たちが護ってくれている。
今のうちなら、少しなら。
「紫苑、しっかりしろ、目を開けろ! 紫苑…! あんた、いったいどうして…!」
「…ネ、ズミ…」
ふいに、ネズミの呼び声に青白い瞼が震え、紫苑が薄く目を開けた。
消え入りそうな声で、ネズミを呼ぶ。 
濃灰色の双眸が大きく見開かれた。
紫苑を腕に抱えたまま、婉曲する壁に凭れ、ずるずると坐り込む。
紫苑が、視点の定まらない瞳でネズミを見上げた。
「けが……して、ない…?」
「おれは大丈夫だ。怪我したのは、あんたの方だ」
言って、切なそうに唇を噛み締める。紫苑が、ほっとしたように肩で息をついた。
「よかった…」
「良くないだろ、ちっとも。なんで、あんたが…!」
悔しげに赤らむ目許に、紫苑が微笑んで、そっと指先を伸ばした。
「ぼくは、だいじょうぶ…かすった、だけ…だから……縫合、の必要も、ない、し……あ、でも、失敗。リュック……置いてきちゃ……た」
「…あんたな」
「まぁ、あっても一緒か、きみじゃ、縫合はできない、よね」
「こんな時に、何言ってんだ。本当に、天然だな、あんた…」
紫苑を腕に抱きしめて、つい涙声になるネズミに、紫苑が安心させるようと懸命に微笑んで言う。
「…あれ? 心配してくれて、るんだ? きみが、心配してくれるなんて、なんかうれしいな……でも本当、大したこと、ない。へーき」
「バカ、平気じゃないだろう!」
ネズミが怒鳴りながら、紫苑のシャツの袖を裂いて傷を見る。確かに弾は掠めただけのようだった。
シャツを引き裂き、止血のため、紫苑の腕を縛る。
傷は浅い。
だが、出血が止まらない。
腕を伝い、あとからあとから滴り落ちていく。
まさか、血液凝固阻止剤が弾に? 
考えてぞっとする。
同じ目に遭わせてしまう。二日前の自分と同じ目に。まさか、そんな。
青ざめるネズミの顔を見つめ、静かに紫苑が告げた。
「ごめん……行って」
「紫苑…?」
「行って、ネズミ」
「…っ」
意味を解して、ネズミがぐっと言葉に詰まった。
置いていけと言っているのだ。
この状況で。
いよいよ足手纏いになると知って。
馬鹿か、あんた。
今ごろ気付くくらいなら、なぜもっと早く気付かない。遅いだろ。
「ぼくは、大丈夫…」
「…あんた」
「約束だから」
「……紫苑」
「置いていって……ネズミ……」
言いながら、紫苑の瞳から涙が溢れた。
わかっている。かなしみの涙じゃない。悔しいのだ、言わなくてもわかる。
紫苑が、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「自分の力で、ついてく、っていったのに、情けない、な……」
涙が、ぽろりと頬を伝い、流れ落ちた。
それでも、紫苑は此処まで自分の力でついてきたのだ。溝鼠たちに護れと命じたが、連れてこいとは言っていない。自分の意志で、足で、暗闇の中、汚物と悪臭の中、懸命に追ってきたのだ。
「…情けなくなんかない、あんたは、充分、すごいよ。見直した」
そして、凶弾の前に、ネズミを庇って飛び出せるほど、勇敢だった。
「……ありがとう、ネズミ」
ネズミがぐっと奥歯を噛み締めた。
礼の言うのはおれの方だ。
生きることを諦めかけていたおれに、あんたは傷の手当てをしてくれて、あたたかい食事と、やわらかなベッドを与えてくれた。
温もりとやさしさをくれた。
生きる希望を与えてくれた。
誰も信じられなくなっていた、おれに。
あんただけが、教えてくれた。
人は、確かに、人に救われることがあると。
「ち、くしょう…っ!」
言うなり、紫苑を腕に抱えて立ち上がる。
これ以上は此処も危険だ。鼠たちはこの間も応戦してくれている。のんびりしている猶予はない。
「ネズ…ミ?」
「掴まれっ」
怒鳴られ、紫苑が瞳を見開かせる。
「ネズミ、ま、待って…ぼくは、置いていってって…」
腕の中で緩く抵抗して、また怒鳴られた。
「うるさい、あんたは黙っておれに掴まってろ!」
「でも…」
反論しようとする言葉に耳を貸さず、紫苑の片腕を首に無理矢理回させる。
「言っただろう、あんたはおれの大事な人質なんだよ! ここでくたばられちゃ困るんだ! おれがNO.6を無事脱出するまでは…」
「ネズ、ミ」
「あんたはおれから離れるな!!」
小ネズミが足元を駆け抜ける。銃声が近づく。
ネズミは紫苑を腕に抱きかかえたまま、狭い通路を猛然と駆け出した。








つづく

星と月のソナタ(インテペーパー再録)



寒空の下、天を仰いだ。頭上には満天の星がある。
西ブロックの夜空は、どうしてこんなに星が近くに見えるんだろう。
どうしてこんなに、切ないほどきれいに思えるんだろう。
空気も凛と澄んでいて、その分冷気が骨身に染みるけど。
それでも此処から見る空が、紫苑は好きだ。
ネズミの住処のある丘を登る道。
これまでも、夜に何度かネズミと歩いた。
並んで歩くというよりは、前を行くネズミの背を追うように。
だけど今夜はその背がすぐ真近にある。密着している。
体温が、冷えた身体に尚一層あたたかく感じられる。
おぶさられた背で、紫苑が、こそり微笑を浮かべた。
なんだか信じられない。ネズミにおぶってもらってるだなんて。
ちょっと恥ずかしい。くすぐったい気分だ。
喜色がつい口元に滲み出る。

今宵は満月。
月もきれいだ。

青白い光を放つそれは、決して手の届かないところにあるけれど、いつも紫苑を見下ろし、見守るようにそこに在る。
(…冷たくてきれいで、なのに、あたたかい。まるできみみたいだ、ネズミ…)
微笑んで、心で囁く。
無言で紫苑をおぶって歩いていたネズミが、ふいに顔を振り向かせた。
「何だ、何か言ったか?」
「うん、言った。月がとてもきれいで、まるできみみたいだ、って」
「……あんた。相当酔っぱらってるな」
紫苑の言葉に、ネズミがやれやれと大仰に嘆息して、両肩を持ち上げる。
確かに、それは否定のしようがない事実だけれど。
でもたぶん、酔っていなくても同じことを言っただろう。
そして、ネズミに馬鹿かと怒られるんだ。考えて、紫苑がくすりと笑いを漏らす。
「笑いごとか」
「ごめん」
「まったく、あんたみたいな坊っちゃんが無理して酒なんて飲むからだ」
「きみだって飲むじゃないか」
「おれは、8つの頃から飲んでるぜ。あんたと違ってアルコールに耐性が出来てる」
「へえ、そうなんだ。すごいな」
本気で感心する紫苑に、ネズミが再び嘆息して、また無言で歩き出す。
そもそも嗜好品は、この西ブロックではほとんど手に入らない。力河のようにNO.6との独自ルートでも持っていなければ、そうそう飲んだくれることもできないのだ。
その力河が、仕事の依頼がてらイヌカシに酒を差し入れ〈余程面倒な依頼なんだろう〉、たまたま犬洗いの仕事に来た紫苑まで御相伴に預かったというわけだ。
乾杯の度に『ハッピーニューイヤー!』と声を上げる二人に、それでやっと紫苑も思い出した。
今日が、新しい年が始まる記念すべきその第一日目だということに。
西ブロックで迎える新年。
何だか感慨深い。
これからも此処で生きていくつもりなら酒ぐらい飲めないとな、と二人にそそのかされ、ついつい口をつけてしまった。
量に関しては既に曖昧だが、さしたる量ではないと思う。
が、日が暮れても戻ってこない紫苑を気にかけ、ネズミが様子を見に来る頃には、すっかり良い具合に出来上がってしまっていた。
さあ立て帰るぞとネズミに不機嫌に言われても、まるで足が立たないぐらいには。
あんた、いっそホテルの客と一緒に泊めてもらえと毒づいたものの、それでも実際のところ、ネズミは紫苑を放って行きはしなかった。
そんなわけで、今こうして、紫苑はネズミの背で月と星の夜空を見上げている。
(本気で置いていかれると思ったけど。そういうところ、やさしいんだ)
紫苑が嬉しそうに目を細め、微笑む。
凍りつく夜の風が、紫苑の火照った頬を撫でていく。
身を切るようなきりりとした冷たさが、だけども熱を帯びた紫苑の肌にはむしろ心地良い。
ネズミの肩で、目を閉じる。
体温が重なる。息が近い。
密着しているせいで、いつもよりネズミの存在を近く感じる。
「今日は怒らないんだな」
「は?」
「いつものきみなら、きっと怒ってた」
「まるで、おれがいつも怒ってるみたいだな」
「違うのか?」
「おれはもともと温厚な性格なんだ。誰かに苛立たせられたり、神経を逆撫でされるようなことがなければ、滅多に怒ったりしないさ」
「…怒らないけど、皮肉は言うんだ…」
ネズミの言葉に、その『誰か』の張本人である紫苑がすねたように口を尖らせ、ネズミの肩に顎をのせる。
「でも、『勝手にしろ』と怒って先に帰るだろうと思ってたから。嬉しかった」
「あんな猛獣だらけの巣に置いていったら、あんた、一晩で骨まで食われちまうだろ」
「猛獣って犬たちのこと? まさか。彼らはそんなことしないよ」
「犬の話じゃない。ホテルに泊まってる客のことだ。まったく、そんな呑気で世間知らずだから、あんたは…」
放っておけないんだ。
呟きは心で留めて、ネズミが背中にある紫苑の体温に目を細める。
「でも、今日から新しい年が始まっただなんて、力河さんたちに言われるまでまったく気がつかなかったな。何だか毎日めまぐるしくて」
「此処じゃ、新年もクソも関係ない。今日を生き延びた者だけに明日がやってくる。その繰り返しさ。NO.6じゃ、盛大に祝うんだろうがな」
「うん、聖なる祝日とクリスマスの次に大きなイベントだからね、ご馳走を食べたりする」
「ママの手料理が恋しくなったろう」
「そういうわけじゃないけど。ただ、母さんには申し訳ないって思ってる。今年は一人で新年を迎えさせちゃったから」
言って、紫苑の視線が俯く。
NO.5に留学中の沙布は、友人たちと楽しい新年を迎えただろうか。
母は、ロストタウンでどんな風に新年を迎えただろう。
一人ぼっちで新年を迎えることになってしまった母には、すまない気持ちでいっぱいだ。
きっと心配をかけている。淋しい想いもさせていると思う。
だのに今、自分は母に心配をかけながらも、こうして満たされている。
(…母さん、ごめん)
声にならない呟きが聞こえたのか、不意にネズミが立ち止まり、ポケットから取り出した小さなカプセルを紫苑に手渡した。
「開けてみろ」
言われ、カプセルを開けて小さな紙片を取り出す。

『ハッピーニューイヤー、紫苑。ネズミと楽しい新年を』

「……母さん」
読むなり、酔いが一気に冷めた気がした。
にも関わらず、頬は先ほどより熱い。
赤らんだ頬に気付かれたくなくて、ふいと横を向く。
ネズミがほくそ笑んだ。
ネズミが今日、どうして紫苑を怒らなかったか、その理由がわかった気がした。
「あんたのママは、おれがいったい、あんたの何だと思ってるんだろうな?」
「え、それは」
揶揄するような口調に、ますます紫苑の頬が赤くなる。
赤くなる理由なんてないのに。
それでも何だか気恥ずかしい。
何と問われても、どう表現したらいいかわからない。
かけがえのない誰よりも大切な存在。それだけは間違いないけれど。
言いかけて口ごもる。
(でも、どうせ、ぼくの片想いだし)

何せ相手は、天上の月だ。
どうやっても手が届く筈がない。
手の届かない相手だとわかっていて慕って、焦がれて。
だからこそ手を伸ばす。
ほんの少しでもいいから近づきたくて。

「そうでもないさ」
「……えっ」
唐突な応えに紫苑がはっとなる。
今のは果たして何に対する答なんだろう。もしかすると、紫苑の心の呟きに対して?
「…もしかして、聞こえた?」
「さあ? 何のことだか、おれにはわからない」
しらばっくれて、と紫苑が胸で毒づく。
だけども、それも何だかいとおしく思えるから不思議だ。
ネズミといることでいつも気付かされる。
自分も知らなかった新たな自身や、内なる感情の揺れとか。
なだらかで平坦だと思っていた自身の感情の波が、他人の言動によってこれほど揺らいだり、穏やかに凪いだりするものなのだと。
そして、言葉とは裏腹のやさしさにも。
一人で新年を迎える母のために、ネズミは、わざわざロボットネズミを向かわせてくれたのだ。
本当にやさしい、有り難い。
「きみは何て書いたんだ?」
「は?」
「母さんに何かメッセージを届けてくれたんだろ?」
「…別に。大したことじゃない。あんたが元気でやってると伝えただけだ」
聞いて、紫苑が泣き笑いのような顔になる。
元気でいるというたった一言が、母にとってどれだけ生きる勇気になるだろう。
「ありがとう、ネズミ」
耳元で涙混じりに囁いて、首に抱きつき、冷たい頬にそっと唇を寄せる。

「ハッピーニューイヤー、ネズミ」
そして、これからもよろしく。

付け加えれば、この酔っぱらいがと悪態をついて、フイと逸らしたネズミの頬が微かに赤らむ。
青白かった月も、今は微かにオレンジがかって空に在る。



―新年の第一夜は、星が天から降り注ぐような美しい夜だった。





終わり

きみに、光が降り注ぐ

*「きみのそばで、きみを見つめる」から続いています。







夜半になると、地下の部屋は、ストーブの火があってもどうしても冷え込んだ。
真夜中の凍りついた大気が、頬を刺すようだ。
ネズミは、その中を幾度となく起き上がっては、ベッドを降り、紫苑の額を冷やすタオルを換えた。
西ブロックの冬は厳しい。
寒さは、これからが本番だ。
もう一台ストーブが必要だろうか。
いやそれよりも、もっと厚手の毛布をもう1枚。
ベッドに眠る紫苑をちらりと見、ネズミが考える。
ふいに、小ネズミのうち一匹が前足を上げ、チチッと鳴いてネズミを呼んだ。
「あぁ、わかった」
応え、ベッドの脇に戻ると、ネズミは横たわる紫苑の首筋へと指を当てた。同時に、額も合わせる。
そして、己の失態だというように舌打ちを漏らした。
やはりだ。熱が上がってきている。
夕食の後、本を朗読するうちに、うとうとと眠りに落ちて行く紫苑を見ながら、ネズミははたと薬を飲ませていないことに気が付いた。
が、あまりにも幸せそうなその寝顔に、無理に起こしてまで飲ませることもないかと断念したのだ。
その前日も、体調のせいでろくに眠れていなかった。だから、睡眠を優先させてやりたかった。
だが、やはりそれは失敗だった。起こしてでも飲ませるべきだった。
本気で相手を想うなら、優先すべきは何なのか、よく考えるべきだったのだ。
甘い、やさしいだけでは、相手を慮ることにならない。
苦しそうに不規則な荒い息を吐き出す紫苑を、自分の方が苦しそうな顔をして見つめ、ネズミがそっと前髪を撫でる。
小ネズミたちも紫苑の周りに集まり、心配げにチチ…と小さく声を上げた。
そのうちの黒い小ネズミが、、テーブルの上に置かれた小鍋を振り返る。
先ほどまで、ストーブの上で煮詰めていたものだ。そろそろ冷めた頃合だろう。
小ネズミに急かされ、ネズミが「わかっている」と返して、煎じた薬草の汁を木の椀に移し、それを手にしてベッドに上がる。
そして、紫苑の背に腕を差し入れると、自分の膝の上へと上体を起こさせた。
「紫苑。飲め、薬草だ」
言って、唇に椀を当てる。
だが、一口流し込んだ途端、その強烈な苦味に、紫苑はぎゅっと眉を寄せ、顔を歪めた。数度むせて、反射的に顔を背ける。
「……もう…いい…」
「まだたった一口だ。ほら、飲むんだ」
「……嫌、だ……にがい……」
「文句を言うな。薬なんだから、苦くて当然だろ」
「…ん……や、だ………ネズ…ミ……」
「ほら、紫苑」
「やだ……ってば…」
朦朧としたまま、紫苑が口をかたく結んで首を横に振る。もう飲みたくないと頑固に拒否するしぐさに、ネズミが呆れたように嘆息した。
「まったく、あんたは駄々っ子か」
子供のような抵抗に、ネズミがやれやれと眉を下げ、苦笑を漏らす。
だが、仕方がないと言ってこのまま寝かせれば、明け方もっとひどい状態になるだろう。一昨日がそうだった。
「紫苑…しおーん、こら、口を開けろ」
指先で唇を軽くノックしして促すが、それでも一度結ばれた唇は頑なに開こうとしない。
ネズミが再び溜息を漏らした。
やれやれ、こうなったら。常套手段だ。
ネズミは紫苑を抱え直すと、椀の中の薬を自分の口に含んだ。独特の苦味とえぐみで口中が一時痺れる。
そのまま紫苑の顎を掬い、中指で支えながら、一指と二指で軽く頬を挟んで口を開けさせた。
唇を合わせ、僅かに開いた隙間に、薬を流し込む。
一瞬の抵抗の後、紫苑の喉がごくりと上下し、飲み下した。
長い睫がゆっくりと持ち上がり、薄く瞳を開く。
間近で自分を見つめる濃灰色の瞳をぼんやりと見つめ返し、数度瞬きした。
「ネズミ…?」
「ん?」
「……今、キスした……?」
唐突な問いに、ネズミが、そっちが先かというように苦笑を漏らす。
親指の腹で、軽く紫苑の唇を押さえた。
「キスじゃない。薬を飲ませただけだ。あんたがちっとも飲もうとしないからな」
「あ…そうなんだ。ごめん」
どこか残念そうに頷いて、それでも肩を抱くように回されたネズミの腕に気付くと、熱を帯びて赤みの増した緋色の瞳でネズミを見上げる。
「薬、まだあるの?」
「もう一口だ。飲めるか」
「うん。えっと、その……きみが飲ませてくれるなら、飲む」
赤面しながら上目使いでそう言われて、ネズミが何とも言えない表情で嘆息する。
「…ゲンキンだな、あんた」
「うん、かなり」
素直に笑顔で首肯されては、笑うしかない。
ネズミはくっくっと喉で笑うと、再び緑の液体を口に含んだ。紫苑の顎を上げさせ、唇を寄せる。
それがしっとりと合わされると、やや遅れて、苦味が紫苑の口中へと流れ込んできた。
微かに眉が寄せられる。
続いて侵入してきたネズミの舌が、その苦さを舐め取るように紫苑の舌の上をなぞった。
ぞくり…と紫苑の背に甘い疼きが走る。
どうしていいのかわからないまま、受け入れ、おずおずと合わせた。
「ん……」
蕩けるような熱とやわらかさで、互いの舌が接する。
ほんのりと軽く吸われた後、ちゅ…と音を立てて、名残惜しそうに唇が離された。
紫苑の頬が、ぱあっと赤く染まる。
「お利口だ。ちゃんと飲んだな」
ネズミに褒められ、薬草の苦味も忘れて、紫苑がはにかむように甘く笑んだ。
「知らなかった」
「何がだ?」
「口移して飲ませてもらうと、薬って苦くないんだね」
しみじみ言われて、ネズミが照れたように困ったようにそっぽを向く。
これだから。この天然は。
「それは、あんたの煩悩のせいだろ」
「…煩悩?」
煩悩って何と問おうとした唇を、ネズミが軽く指で押さえて黙らせ、椀をテーブルに戻した。
「もういい。飲んだら、休め」
言われ、ベッドに横たわらせられるなり、小ネズミたちが紫苑の身体に跳び乗ってくる。
白い小ネズミがネズミを真似て、紫苑の唇に鼻頭を擦り寄せようとするのを、ネズミの掌が遮り、ぐいと退けた。割って入るように、紫苑の隣に自分もまた横たわる。チチチ…ッと、抗議のような声が上がった。
「ん? どうしたんだ、ハムレット」
「さあ。あんたを心配してるんだろ?」
「それだけなのかな。何か言ってるみたいだけど」
「気にするな。何でもない」
ネズミの言葉にもう一声鳴くと、小ネズミたちはストーブの前で眠る犬の背中へと移動した。
そんな小ネズミたちのことを気にしながらも、発熱のせいで悪寒がするのだろう、紫苑が小さく身を震わせ、身体を丸めた。
「寒いか?」
「うん、少し」
「もっとこっちに寄れ。おれの方へ」
ネズミの腕に引き寄せられ、互いの身体をこれ以上ないほどに密着させる。
横になったまま、ネズミの胸に頬を埋める形になって、紫苑が頬を染めて目を瞑った。
「あったかい…」
背中をネズミの腕に抱かれ、笑んで紫苑が呟く。
触れ合った場所から、互いの体温が布ごしに伝わる。人肌のぬくもり。
それが、この世で一番やさしい温もりなのだと、4年前のあの嵐の夜、ネズミは初めて知った。
「あんたの方があったかいぜ」
「きみの方がずっとあったかいよ。人って、こんなにあたたかいんだ…」
紫苑が、ネズミの胸で心音に耳を寄せ、傾ける。
生きて今、二人ここにいる。そんな確かな音。
心地よいリズムを聞きながら、甘えるようにネズミの胸に頬を擦り寄せ、紫苑がうっとりと瞳を閉じた。
「このまま、きみと一つになれたらいいのに」
突然の言葉に、ネズミが内心でぎょっとする。
…あんたな。この体勢でそれを言うか。
この天然め。
胸中で毒づきながらも、煩悩はこの際遠く空の彼方に追いやって、あぁそうだなと軽く流して紫苑の身体を抱き締めた。
眠りを促すように、おやすみのキスを唇に落とす。

こんなところを力河やイヌカシにもし見られたら、『おまえらいったい何をやってるんだー!』とさぞかし大騒ぎすることだろう。
想像して、ネズミが含み笑いを漏らす。
それでも、紫苑がここまで自らを赦すのは、たぶんネズミにだけだ。
ちょっとした優越感だ。それこそ子供じみているが。
自分だけが所有する独占権。
いつか目の前で誇示してやろう。きっと爽快に違いない。
画策して、ほくそ笑む。

「ネズミ…」
「ん…?どうした」
「なんだか、ぼく、今、すごくしあわせだ…」
幸福げな呟きを漏らして、微笑んで、紫苑がとろとろと眠りに落ちていく。
唇からは、やがて、すうすうと甘い寝息が漏れ出した。
ネズミがやさしく瞳を細め、腕の中の紫苑の艶やかな白い髪を撫でる。
何度も飽きることなく。指先で丁寧に梳いていく。
そして、抱擁が少しでも深くなるよう足を絡ませ、より良い眠りをと、まじないのように前髪に口づけた。


紫苑がいとしい。
失いたくない。
この世の何ものにも変え難いほど、大切だと感じている。
例えるなら、自分の命よりも、ずっと遥かに。


この感情に果たしてどんな名がつくのか、つければ良いのか。
友情でもなく、恋情でもなく、家族愛でもなく。
今一つ。ぴったりのものが思い浮かばないが。
だが、それはそれで良い。
言葉でたやすく置き換えられない、そんな絆や繋がりも、この世には無数に存在するのだ。



いつか道が違える時がきて、いつか訪れるであろう別離のあとも。
あんたの明日に光が降り注ぐよう、降り注ぎ続けるよう。
祈りとそれから、歌を捧げよう。
あんたのために。
紫苑、あんたのためだけに。
いつまでも、いつまでも、変わりなく、永遠に。




きみのそばで、きみと見つめる


バザールを抜け、なだらかな丘を登り、夕日に燃える道を塒へと急ぐ。
地下室への階段が見え始めると、無意識に歩を進める速度が上がった。
熱は下がっただろうか。吐き気はどうだろう。大人しく寝ているだろうか。
(…別に、案じているわけじゃない)
心中で、自身にごちる。
朝に、熱さましの薬草を煎じて飲ませた。そのせいか、部屋を出る時、紫苑はよく眠っていた。
今もまだ眠っているかもしれない。
発熱は相変わらずだが、昨夜ほどの高熱でもないし、顔色も幾分ましになっていた。2、3日寝ていればすぐに良くなるだろう。
そもそも、ただの風邪だ。心配するほどのことじゃない。
寄生蜂にやられた時でさえ、しぶとく生き延びたやつだ。
ああ見えて、意外にタフなのだ、あいつは。
身体も、そして心も。
「……」
心、と考えて、不意にネズミの足取りが重くなる。濃灰色の瞳に陰りが落ちた。
原因は明白だ。
まったく、と舌打ちする。
(これだから、厄介だと言うんだ)
少し前までは、他人の心模様など想像したこともなかった。
どうでも良かった。考える必要もなかった。
自分一人、今日を生き延びることだけを考えればよかった。それだけで事足りた。
今思えば、気楽だった。
ところがどうだ。現状は。
投げつけた言葉に、泣き出しそうな顔をされた。たったそれだけのことで、このザマだ。
(馬鹿馬鹿しい。そもそも悪いのはあいつの方だろう。何で、おれがこうも引き摺る必要がある?)
言い過ぎたとは思っていない。間違ったことを言ったつもりもない。
此処で生きていく上での術と正論を述べたまでだ。


事の発端は、昨日の夕刻。
犬洗いの仕事からの帰り道、紫苑は川に落ちた子供を助けようと手を伸ばしたところで、逆に腕を捕まれ、川に引き込まれた。
子供は、瞬時に紫苑の上着のポケットから胴貨を盗み取ると、鮮やかに川を泳ぎきって岸に上がり、笑いながら駆けて行ってしまったという。
イヌカシがつけてくれた護衛の犬が川に飛び込んで助けてくれなければ、紫苑は今頃冷たい流れの中で溺れ死んでいたかもしれない。
風邪をひくどころの騒ぎでは、たぶん済まなかった。
それでも、紫苑を助けた後、子供を追いかけようとした犬を紫苑は止めた。
もういいんだ、追わないであげて、と。
そして、ずぶ濡れのまま、とぼとぼと地下室に戻り、ネズミにこっぴどく罵られた。というわけだ。


『ろくな力もないくせに、中途半端に他人に親切の手を伸ばそうとするのは、偽善以外の何ものでもない。ましてや、自分の身を犠牲にしようとするなど、無知で馬鹿のすることだ!』
いつまでもNO.6でのお坊っちゃんぶりが抜けない、甘い考えを捨てきれない紫苑に対し、むしょうに腹が立った。
『でも、あの銅貨で、もし今夜少しでもあの子がましなものを食べられるなら…それでもいいかなって、ぼくは』
『あんた、いったい何度言わせる気だ!? そんなぽっちの施しで、今日、腹が満たされても明日はどうなる? 一時満たされたら、その分明日の空腹がより辛くなる。そいつの明日のことまであんたが面倒見れるのか!? 飢えたことない人間のそれが傲慢だってなぜわからない!?』
『わからない、わからないけど…! でも、一時の幸せで、それが明日を生きることの力に繋がるかもしれないじゃないか…!』
『その考えが傲慢だって言うんだ!どん底の不幸を知らないお坊っちゃん、教えてやろうか。他人から奪った金をろくでなしの親に奪われ、そいつは何ひとつ口にすることができず、親ばかりが満たされ肥えて、子供は飢えて泣きながら冷たい床で丸くなって眠る。そういうところなんだよ、此処は、この西ブロックは! あんたのきれいな理想なんか、これっぽっちも通用しないんだ! 此処で生きていきたきゃ、いい加減覚えろ!』
『ネズミ…』
『あんたのそういうところ、本気で苛つく…!』
胸に込み上げてきた怒りの感情にまかせ、吐き出した。
他にも何か言ったかもしれないが、激昂のあまり、よく覚えていない。
気がつけば目の前で、紫苑がずぶ濡れのまま、項垂れていた。
はっとなり、とにかくさっさと風呂に入ってこいと促して、その後はほとんど会話のない夕食を済ませ、早めに床に入った。
隣に眠る紫苑の身体が発熱していることに気づいたのは、真夜中になってからだ。


地下室への階段を降りながら、ネズミが考える。
今思い出しても腹立たしい。腸が煮えくり返る思いだ。
だが、自分を憤らせたものは、果たして本当に、紫苑のお人好しな言動故だったのか?
自身に問い正す。
…いや。違うだろう、ネズミ。
丸1日近くが経って、冷えた頭でよくよく考えてみれば、真の怒りの矛先はそこではなかった。

紫苑の無垢な善意に付け込む、この町のすべての悪意が呪わしい。

つまりは、そういうことだ。
ネズミの口元に、皮肉げな笑みが浮かぶ。
まったく、大した過保護だ。
自分の欲の中に、まさか庇護欲というやつが存在するとは、ゆめゆめ思ってもみなかった。
呆れたように溜息を一つ落とし、今のは無意識の溜息ではないと己に言い訳しながら、扉のノブに手を掛ける。
ふと、その足元にある草の束に気付いた。屈み、手に取り、匂いを嗅ぐ。
濃灰色の瞳が驚きを映した後、フ…ッとやさしげに細められた。
鍵を開け、扉を開く。
ギッ…と軋んだ音が響き、灯りの落ちた部屋の中で、ベッドの上で丸まっていた影が微かに動いた。


「…おかえり、ネズミ」
少し掠れた声が言い、上体を起こそうと身じろぐ。
「外、寒かった? ごめん、ストーブ、いつのまにか消えちゃってる」
「ああ、いい。おれがやる。あんたは寝てろ」
起きようとするのを制し、ネズミが市場で買ってきたものをテーブルに置いて、素早くストーブに火を入れる。
燃える炎に、一瞬、部屋の中がオレンジに染まった。
ランプにも灯りを入れ、ネズミが、ベッドに横たわる紫苑を振り返る。
「具合はどうだ」
「うん、ちょっとまし…かな」
とはいえ、答える声は、まだ少しつらそうだ。
ネズミがベッドの脇に屈み、前髪を上げさせ、紫苑の額にそっと自分の額を合わせた。
こうやって熱を計るのだと、4年前、ネズミは紫苑に教わった。
「まだ、高いな」
それでも、ゆうべよりは大分下がっている。薬草が効いてきたのだろう。
「ん。でも、朝より大分楽になった。きみが薬を飲ませてくれたから」
「苦いと文句を言って、何度も顔を顰められたけどな」
「でも、全部飲んだ」
「ああ、おりこうさんだ。夕食の後、また飲ませてやる」
「うわー…」
苦さを思い出して、紫苑が顔を顰める。それがおかしくて、ネズミが小さく笑いを漏らした。
紫苑がそれを見上げ、ほっとしたような顔になる。
「…良かった」
「何だ?」
「まだ、きっと怒ってるだろうって思ってた」
「別に。おれは最初っから怒ってなんかないぜ」
「嘘だ。ぼくが馬鹿だから、きみを怒らせた」
「あんたの馬鹿さ加減にいちいち怒ってたらきりがない。おれも、そんなに暇じゃないさ」
「…ひどいな」
ふて腐れたように頬を膨らませる紫苑に、ネズミが笑いながら、ベッドの端に腰掛ける。指先がそっと、熱を帯びて赤さの目立つ、紫苑の頬の痣にふれた。
紫苑が瞳を閉じ、笑みを浮かべる。
「どうした?」
「ネズミの手、冷たい」
「あぁ、悪い」
外気ですっかり冷えていたのを思い出し、ネズミが慌てて手を引こうとする。それを紫苑の手が止めた。
「いい。このままにしてて」
「気持ちいいか?」
「うん」
大きな掌で熱を帯びた額を覆うようにしてやると、紫苑が目を閉じたまま、ふっと身体の力を抜く。ややあって、何かに気づいたようにはっとなると、泣きそうな顔で微笑んだ。
「…ごめん、ありがとう」
「ん?」
「犬洗いの仕事、代わりに行ってくれたんだ…」
しみじみ言われて、ネズミが瞠目する。そして、やれやれ参ったというように肩を竦めた。
「鼻が効くようになった。大したもんだ」
「朝のこと、ぼく、あまり覚えてないんだけど。仕事があるって、きみに言った?」
「ああ。熱があるのに、犬洗いの仕事があるからどうしても行くって、あんた大暴れしたんだ」
「うわ、ごめん…。それで、代わりに?」
「もっとも3時間で首になったぜ。あんたに比べて、仕事が荒くて大雑把すぎるとさ。それに、おれだと犬共が反抗的でやりづらくてな。まぁ、イヌカシとは本気でやり合ったこともあるからな。奴らも、いつ身体を洗うふりをしておれに皮を剥がれるかと、気が気じゃないんだろうぜ」
ネズミのふざけた言いように、紫苑が声を上げて笑いを漏らした。
寒かった部屋の中にも、ストーブの温もりがじわじわと広がっている。
紫苑の代わりに仕事に来たと仏頂面で告げたネズミを、イヌカシはあんぐりと大口を上げてしばし見つめ、その後盛大に笑いころげた。
予想できた反応だけに、ネズミはそれに一瞥をくれただけで仕事に取りかかったが、3時間でクビになったのは犬たちとの相性のせいばかりではなかった。
『…おまえ。天然坊やのことが気になるんだろう。いいから、さっさと帰ってやれ』
心此処に有らずなネズミに、ついには呆れたようにそう言うと、紫苑に見舞いだとイヌカシは1枚余分に賃金をくれた。
まあ、犬洗いの仕事から開放されたのは、ネズミにとっても犬たちにとっても幸いだったろう。
「ありがとう、ネズミ」
「礼を言われるほどのことじゃない。さあ、飯にするぞ」
照れ臭さを隠すように視線を逸らし、ネズミが立ち上がる。
スープは、昨夜の残りがあった。紫苑の食が進まなかったせいで、まだ鍋にたっぷり残っている。
ネズミは、その中に固いパンをちぎって放り込んだ。そのまま、ストーブの上でコトコトと煮込む。
ほどなくして美味しそうな香りが漂い、紫苑の空腹の胃を刺激した。
ぐうう…と腹のなる音が、静かな部屋に響き、ベッドで一緒に眠っていた小ネズミたちが驚いたように跳ね起きる。
そんなに驚かなくてもいいのにと赤面する紫苑に、ネズミがくっくっと笑いを漏らした。
紫苑の瞳が不思議そうにネズミを見る。
何だか妙に機嫌が良い。めずらしい。
ここのところ、苛立っているネズミばかり見ていたから、余計にそう思うのかもしれない。
(…苛立たせているのは、きっとぼく、なんだろうけど…)
昨夕の激昂するネズミをふいに思い出した。そっと毛布を引き上げて、表情を隠す。
怒るだろうと覚悟していた。叱られても仕方ないと思っていた。
彼の言葉は辛辣で時に乱暴だけれど、いつも真意をついていたから、返す言葉も見つからなかった。
だけど。

『あんたのそういうところ、本気で苛つく…!何もできないくせに、知識や道徳ばかり振りかざして! あぁそうだ、おれが一番嫌いなタイプの人間だ!』

瞬時、はっと息が詰まり、身体が硬直した。
『嫌い』という言葉の剣先が鋭すぎて、かわすことも出来ないまま、それは、ぐさりと紫苑の胸に突き刺さった。
自己嫌悪に陥ってる際中だっただけに、痛みはあっという間に胸いっぱいに広がった。気持ちは重く沈んだ。
何も今そんなことまで言わなくてもいいのに、と目前で向けられたネズミの背を睨めば、じんわりと悔し涙が溢れてくる。
泣いてしまうのも悔しくて、紫苑は唇を噛み締めて両の拳をぎゅっと握った。
『いいから、とっとと風呂に入れ』
冷たく命じられ、その後は、夕食の時も床についてからも、ずっと無言のままだった。心配そうにする小ネズミたちと紫苑の間で、ささやかな会話が成された程度だ。
なかなか寝付けず、身体がだるい、熱っぽいと気付いたのは、やっと眠りについてしばらく経ってからのことだった。
その後、どうやら一気に高熱に達したらしく、意識が朦朧としていたせいで、朝のことはあまりよく覚えていない。
何か喚いて暴れたことだけは、うっすらと記憶にある。
どうやら、何がなんでも仕事に行くと言い張ったようだけれど、実際のところは、そうやってネズミを困らせたかっただけなのかもしれない。
そんな子供じみた方法で、報復しようとしただなんて。
考えて、恥ずかしくなる。
「どうした?」
「えっ」
「顔が赤いぞ。熱が上がってきたんじゃないか」
「あ、いや。ちがうよ、これは」
弁解するより早く近づいてきた手に、赤らんだ頬を撫でられる。冷たい手にふれられて、紫苑の頬はますます熱を帯びた。
怒られることはしょっ中で、さすがにもう慣れてきてしまったけれど、こんな風に甘やかすようにやさしくされるのはごく稀で、おかげでちっとも慣れてはいない。
なんだか、どうしていいかちょっと困る。
思ったままの呟きが、つい口をついて出た。
「明日は、きっと雨だろうな…」
「は? 何だ、藪から棒に」
「きみがやさしい」
紫苑の言葉に、再び鍋を掻き回し始めたネズミが背を向けたまま答えた。
「おれはいつだってやさしいぜ? あんたを甘やかしてばかりいる」
「そうかな」
「そうだ。そのせいで、あんたが風邪をひいた」
「……えっ」
「馬鹿だからと侮っていた。反省している」
「どういう意味だよ、それ」
「そのままの意味だ」
「馬鹿は風邪を引かないっていうから侮ってた、ってこと?」
「なんだ、知ってるのか。せっかく教えてやろうと思ったのにな」
「それくらい、ぼくでも知ってる」
「あぁ案外賢い。いや、もともと頭は良いんだったな」
「頭でっかちって言うんだろう。知識ばっかりで実践が伴わない。何もできないくせに、知識や道徳ばかり振りかざして」
「わかってるじゃないか」
「きみの……一番嫌いな人間、なんだろ? ぼくは」
ふざけて言い合っていた筈が、ふいに語尾が震え、涙声になってしまった。
しまったと紫苑が慌てる。
別に、こんな風に言うつもりじゃなかった。
どんな人間を好きだろうが嫌いだろうが、それは彼の自由であって…。
「は?」
突然涙ぐんで言葉を詰まらせる紫苑に、ネズミが驚いたように振り返った。
「何だ、それは」
「何って、だから、きみが昨日、ぼくに」
「おれが? あんたに何か言ったか?」
「な、何かって」
ベッドの傍に近づき、いぶかしむように覗き込んで、ネズミの指が紫苑の眦に溜まった涙を拭う。
本気で驚いているような瞳に、紫苑が困惑したように瞳を瞬かせた。
「きみに、嫌いだって言われた。…あ、少し違う。きみに、嫌いなタイプの人間だって、そう言われた」
「おれが、あんたを?」
「もしかして…覚えてない?」
「覚えがないが」
あっさり言われて、紫苑が何ともいえない表情になる。
覚えてないと言うならまだしも、覚えがないと言われてはどうしようもない。
今日1日、熱に浮かされながら、ベッドの中で悶々としていたのはいったい何だったんだろう。
紫苑が脱力したように、はあと一つ溜息をつく。
昨夜は、たまたま少し心が折れかかっていて、その上体調も悪かった。だから、いつもより堪えたんだろうか。それだけのことだったんだろうか。
よくよく考えれば、その程度のことは今までも言われてきた気がする。
見かけと相反したネズミの口の悪さは、今に始まったことじゃない。
出逢った4年前のあの夜から、彼はこんな風だった。
鋭くて険しくて辛辣で粗暴で。
そして、たまにやさしい。
「…紫苑」
やや神妙な顔つきになって、ネズミが紫苑を呼んだ。ベッドの端へと腰掛ける。
「おれがあんたに何を言ったか知らないが。おれには生憎、あんたみたいなボランティア精神なんてものはこれっぽちもないからな。もしあんたが本気で嫌いで面倒だと思っているなら、どれだけ熱があろうが死にかけていようが、自分のベッドを半分譲ったりしない。それどころか、とっくに追い出してる」
「…うん」
「知識や道徳ばかり振りかざして何もしない人間は確かに嫌いだが、じゃあ、あんたはどうなんだ?」
「ぼく? ぼくが何?」
「何もしない人間なのか? そうだったか? だとしたら、昨日のことも間違っていたと後悔している筈だ。何もしないで放っておくべきだったと」
問い詰められて、紫苑が首を横に振る。
「ぼくは、間違っていたとは思ってない。でも、結果的に、きみやイヌカシに迷惑をかけた。ぼくを助けてくれた『彼』にも風邪をひかせていたかもしれない。軽率だった。それはすごく反省してる」
彼、と呼ばれて、床に寝そべっていた犬が、クゥンと鼻先を上げた。そんな心配などご無用だとそう言っているような顔に、ネズミがそら見ろと笑む。
「あんたは、方法は拙いながらも、ちゃんと動いてきただろう。ただの頭でっかちとは違う。そのことに、もっと自信を持てばいい。もっとも、おれに反論されたぐらいで怯むようなら、最初から何もするな」
「…何か、矛盾してる気もするけど」
「ああ、そうだな」
矛盾していることは、自覚している。だが、何もするなというのも、好きにやればいいというのも、どちらもネズミにとっては本心だ。複雑だが、それが真実だ。
短的に言ってしまえば、紫苑が無事ならどちらでも良い。そういうことだ。
「それに、あんたのお人好しが、気まぐれに、こんな結果を生むこともある」
言って、ネズミがぱさりと野草の束をベッドに投げた。
「これは?」
「扉の外に置いてあったぜ。森の奥で取れる薬草だ。風邪に効く」
「そうなんだ。でも、いったい誰が」
「さあな? だが、誰かがあんたのために、わざわざこれを取りに森に入ったってことは確かだろ?」
ネズミに言われ、紫苑が野草を手に取り、匂いを確かめる。
(そうか。ネズミの機嫌の良い理由は、これだったんだ…)
考えて、嬉しくなる。
ネズミが自分のことを想ってくれていたことが、たまらなく嬉しかった。
野草を届けてくれたのは、もしや、昨日のあの子だろうか。
笑いながら逃げて行ったと思ったけれど、紫苑が無事に岸に上がるのを、どこかで見ていてくれたのかもしれない。
冬のさなか、ずぶ濡れになってしまった紫苑に、少しでもその小さな胸が痛んだのなら。
それはそれで、良かったのかもしれない。
紫苑が思う。
もっとも、西ブロックではそんな痛み、返ってこの先、生きる邪魔になるのかもしれないが。
それでも、とネズミが思う。
うわべだけのものじゃない真直ぐで純粋な想いは、たまに、気まぐれに、人の心を揺り動かすこともある。
―こんな荒廃した西ブロックでも。
それを知った。
また、紫苑に教えられた。


「さあ、飯にしよう。起きられるか?」
「え、あ、うん…!」
ネズミの腕に支えられながら身を起こし、ベッドの端を椅子代わりに坐る。テーブルが近づけられ、ストーブも近くに移動した。
「寒くないか?」
「うん。平気」
「無理をするな」
言いながら、ネズミの手が、愛用の超繊維布を紫苑の肩に掛けてくれる。
「あ、ありがとう」
なんだか、やさしすぎて逆に居心地が悪いなと戸惑いながら、紫苑がストーブの上の鍋の中を首を伸ばして覗き込む。とたんに満面の笑顔になった。
「わあ、パン粥にしてくれたんだ。美味しそう…!」
紫苑のお腹は、すでに盛大に空腹を訴えている。
小ネズミたちも駆け寄って来て、紫苑の肩や膝に跳び乗った。
ネズミが木の器を取り、そこに粥を盛り付ける。歯がたたないほどの固いパンが、スープで煮込まれ、とろとろに蕩けていて、いかにも美味しそうだ。
「熱いぞ、気をつけろ」
器を渡されるなり、紫苑がわくわくと木の匙で粥を掬う。
「ん、あちっ」
が、一口食べる以前に熱さに悲鳴を上げて、粥の入った器はすぐさまネズミの手に奪われた。
「あぁもうあんたは…。寄越せ、冷ましてやる」
ネズミが一匙掬った粥にふうふうと息を吹きかけ、冷ましてくれる。
その何でもない所作がきれいで、紫苑はついぼんやりと見とれてしまう。
「何やってる。早く口を開けろ」
「へ?」
はたと気づくと、目の前に匙が差し出されていた。紫苑の瞳がそれをじっと凝視する。
「何だ」
「まさか、食べさせてくれるのか? ネズミが?」
天地がひっくり返るほど驚いて問えば、憮然とした声が返ってくる。
「あんたにやらせてたら朝までかかる」
「え、でも」
「嫌なのか? だったら良いが」
「え! いや、そんな、とんでもない!」
慌てて、紫苑がネズミの腕を掴んで、雛鳥のように大きく口を開けた。ネズミがフ…と笑むと、親鳥よろしくそこに冷ました粥を流し込む。
紫苑の口中に、まろやかな味が広がった。舌の上でパンが蕩ける。
西ブロックに来て初めて、頬が落ちそうなほどおいしいと言えるものを食べた気がした。
いや、今まで生きてきて一番かもしれない。(母さん、ごめん)
「うまいか?」
「うん、すごくおいしい…!」
きみが食べさせてくれるから余計に、と言おうと思ったが、それはやめた。
きっと照れたネズミは天の邪鬼になって、そんな調子の良いことが言えるくらい元気なら自分で食べろと、逆に匙を押し付けてくるに違いない。
思い、大人しく食べさせてもらっていれば、やけに満足げに微笑まれた。
口の端から溢れるスープを、ネズミの指が度々やさしく拭ってくれる。
なんだか、夢を見ているようだ。
「ずっと、熱が下がらないといいのに」
つい本音を漏らせば、あっという間にからっぽになった器をテーブルに戻し、ネズミがやれやれと肩を竦めた。
「冗談じゃない。この時期、熱さましの薬草を手に入れるのも一苦労なんだぜ」
「…いや。そういうことじゃないんだけど」
イヌカシにはずんで貰った金で買った葡萄の房を、二つに分けながらネズミが訊く。
「じゃあ何だ。理由は?」
「きみにやさしくしてもらえる」
片方の房を紫苑に手渡したところで、ネズミがぴたりと動きを止めた。
「…ママが恋しくなったんだろう、あんた」
「どうしてそうなるんだ。きみは母さんじゃない」
葡萄を受け取り、一つもいで、紫苑が口を尖らせる。
「当たり前だ」
その手からネズミの指が葡萄を奪い取ると、紫苑の口に放り込んだ。指先が唇にふれる。紫苑の胸がどきりと鳴った。
少しまだ固いが、種がないので食べやすい。
ネズミも同じように口に入れた。皮は薄いのでそのまま食べる。
「きみが母さんなら、こんな風にどきどきしないよ」
紫苑が、隣に坐ったネズミを見上げ、責めるように言う。
ネズミが表面上は変わりなく、内心ぎょっとしながら紫苑を見下ろした。
熱で潤んだ瞳がまっすぐにネズミを見つめている。桃色に染まった頬も、何だかやけに艶っぽい。
「あんたなぁ…」
言葉と同時に、盛大な溜息が漏らされた。
「言語能力の問題以前だ。もう少し、よく考えてからものを言え」
「うん?」
憮然として言われ、紫苑がきょとんと小首を傾ける。
やけに可愛らしいしぐさからフイと視線を逸らすと、ネズミは自分の葡萄を一つもぎ取り、再び紫苑の口へと押し込んだ。
「いいから、あんたは黙って食べてろ」
「う、うん」

テーブルの上では、同じく小ネズミたちが、じゃれるようにしながら葡萄にかじりついている。
鍋の代わりにストーブに置かれたケトルの口からは、白い湯気が細く上がり出している。
二人で並んで黙々と葡萄を食べながら、ネズミは、紫苑が西ブロックに来てからの数週間を思い返していた。

生きていく術をこの町で骨身に染みて体感しながら、それでも紫苑は、基本的には此処にきた当初と少しも変わらない。染まっていかない。
それをネズミは、心のどこかで誇らしく思っていた。
人は変わる。生活が荒めば心も荒み、物が無くなれば余裕が無くなる。
誰かを助けられる、救えるなどという甘い考えは、NO.6に住むような余裕が有る人間の驕りだ。
自分が生きることだけで精一杯のこの町では、誰だってそんな風にはいられない。
そう思っていた。
だけど、それでも紫苑は、たとえ自分の身を削ってでも、誰かを助けようとする。
罵られても、笑われても、皮肉られても、決してやめようとしない。
そうやって、目の前の人間に手を差し伸べずにはいられないのだ。
4年前の、あの嵐の夜のように。

「4年前の嵐の夜。もしも」
「…もしも?」
「あんたの部屋に飛び込んだのがおれじゃなかったとしても、あんたはやっぱり傷の手当てをして、シチューとケーキをご馳走したんだろうな」
一人言のような呟きに、紫苑がふっ…と目を閉じ、微笑を浮かべた。
情景を思い浮かべてみたのだろう。
「…そうだね。そうかもしれない。きっと、そうしたと思う」
その言葉にちくりと、ごく小さな痛みがネズミの胸を突いた。
「…あぁ」
そうだ、たぶん。侵入したのがネズミじゃなかったとしても、紫苑は助けただろう。
同じように手当てをして、同じようにケーキとシチューを振る舞い。
そして、同じように笑ったのだろうか。二人で。
手を繋いで。
「でも、あの夜出逢ったのが、もしきみじゃなかったら。4年もずっと、ぼくは想い続けてなかっただろうな…」
「…え」
ネズミが、はっと瞠目する。
「もう一度会いたいって、ずっと想ってた」
4年の想いを辿るように、紫苑が深い眼差しになる。その想いを溜めた瞳のまま、ネズミを見上げた。真直ぐに、これ以上なくまっすぐに見つめる。
「きみじゃなかったら、こんなに惹かれることもなかった。誰かを想って、心がざわついて、苦しくて泣きたくなることもあるんだって、きっと知らないままだった」
告白を終えて、緋色の瞳がしっとりと潤んで熱を帯びる。
見つめられたまま、逸らすことも出来ず、たじたじとしながらネズミが返した。

「…あんた。もしかして、また発熱してるだろう」

原因の違う熱かもしれないが。
いやむしろ、こっちの方が発熱しそうだ。
めずらしく、喜色が滲み出るのを押さえきれず、心中でネズミがごちる。
「うん、そうかも。何かふわふわしてる。あれ? もしかして、きみにも感染しちゃったかな。なんだか顔が赤いけど」
「ストーブを近づけたせいだ。よしてくれ、おれはあんたみたいにヤワじゃない」
片手をひらひらさせて、ネズミが、顔を覗き込んでくる紫苑から瞳を背ける。
「あ、でも良く考えたら」
「え?」
「あの夜の侵入者がもしきみじゃなかったら、怪我の手当てとかどうこう言う前に、ぼくは、あっさり殺されてたかもしれないんだ」
「…おい」
話題が変わったのはいいが、それこそやめてくれと真剣に思う。想像したくない。
確かに、その可能性は無きにしもあらずだが。
「きみで良かった」
紫苑がしみじみ言って、ふふっと微笑む。
あたたかな指先が、ふいにネズミの頬にふれた。熱を帯びた甘い指先。
「ぼくと出逢ってくれてありがとう。ネズミ」
「…紫苑」
見つめ、濃灰色の瞳が細められる。
無垢で純粋で真っ直ぐな好意。
だが、こういうのはおれだけにしておいてくれと切実に願う。
誰も誤解させるな、頼む。
ネズミの指が紫苑の細い顎へと伸べられた。軽く掬う。
そして、唇がそっと、一瞬だけふれ合った。
「おやすみのキスだ。そろそろ休め」
「……うん」
耳元で静かに囁かれ、はにかむように甘く笑んで、紫苑が肯く。
葡萄を食べ終えた紫苑の指先を拭い、空になった皿をテーブルに戻すと、紫苑の薄い背にネズミが掌を添える。静かに横たえた。寒くないように、肩までしっかりと毛布を掛ける。
さりげないやさしさに、紫苑がまた笑みをこぼした。
「イヌカシの天気予報じゃ、明日は午後から雨らしい。良かったな、犬洗い仕事はなしだ」
「それは良かった。これで、明日もきみに代わりに行ってもらわなくて済む」
「おいおい、おれはもう御免だ。早いとこ元気になって、あんたが行ってやれ。その方が犬共も喜ぶ」
ベッドの脇に寄せた椅子に腰かけ、ネズミが読みかけの本を手にする。
それを見て、クラバットとハムレットが、ネズミの肩へと駆け上がった。どうやら朗読をせがむ気らしい。
ツキヨは、紫苑のベッドへと潜り込んだ。
「ひさしぶりに、きみの朗読が聞きたいって」
「それは、あんたからのリクエストか?」
「ぼくと、それからクラバットとハムレット」
「大入りだな」
「頼むよ。ねっ、きみたちからも」
お願いしてよと言われ、小ネズミたちが前足を上げて、チチッ、チチッと声を上げた。やれやれとネズミが笑む。
「…陛下の仰せとあらば」
徐に本を開いて、ページを捲る。
ふと、ネズミの手が止まった。
「紫苑」
ふいに呼ばれ、紫苑が視線を上げる。
本で顔を隠すようにしながら、ネズミが言った。
「本を読む前に、言っておきたいことがある」
「何、あらたまって」
「あんたは、あんたのままでいい。器用になれないところは、おれが傍で助ける。だから」
「ネズミ…?」
「あんたは、そのままでいろ」
それだけだと言って、ネズミの手がページを捲る。しおりを挟んだところで止まった。
やや遅れて、うんと答える紫苑の声が涙でくぐもった。
ネズミは本を掲げると、『マクベス』の朗読を始める。
マクベスならすべて暗唱できる筈だが、今、本は手放せないのだろう。
そんなネズミに笑みを漏らすと、紫苑が横たわったまま、手を伸ばし、本を持たない側のネズミの手にそっとふれた。ぎゅっと握る。
ややあって、同じ強さで手が握り返されてくる。紫苑が嬉しげに微笑んだ。
あの夜も、繋いだ手から互いの想いが伝わっていた。
初めて出逢ったばかりの互いの手が、なぜだかとても大切に思えた。
誰よりもいとおしいと感じた。
それは、今も少しも変わらない。



きみのそばで、きみと見つめる明日がある限り。
ぼくは、ぼくで有り続けることができる。そう思う。
あの日からずっと、ぼくはそう思ってきたんだ。
そして、きっと、これからも、ずっと。





はじまりの朝と、さよならの月夜(4)




これで良かったんだろうか…?
治安局との連絡を終え、その車を見送った後。
火藍は、リビングに戻ると、脱力したようにソファに坐り、凭れ込んだ。ひどく疲労していた。
長い1日だった。そして、夜はまだこれからが長い。
「…紫苑……」
どこにいるの。どうしているの。酷い目に遭っていたらどうしよう。怖くて泣いているんじゃないのかしら。
だけど、疲労は、息子の安否を心配する心痛とは、また別のものだった。
『ご心配なく。我々は、息子さんの身の安全を最優先にVCの確保に努めます』
治安局員は、神妙な顔で火藍にそう言った後、『場合によっては、VCは射殺しても構わない』と部下に命じた。
人質の安全を最優先に、と繰り返し続いた言葉に、なぜか火藍は強い不快感を覚えた。
VCを射殺する。
その口実を与えてしまったように感じたのだ。
どうしてだろう。
あの人たちは、息子・紫苑を犯罪者の魔の手から、確実に救出すると約束してくれている。
だのに、

『――心配するな。必ず無事返す』

背を向けた少年の言葉の方が、火藍にはずっと重みと誠実さを感じられた。
嘘は言っていない。そう思った。
紫苑とそう変わらない年頃の、こんな少年がVC? なんだか信じられなかった。
それに、言葉ほどの卑劣さも非情さも少年からは感じなかった。
それでも迷った挙句、治安局に『息子がVCの人質にされている。脅されている』と通報したのは、彼が火藍にそう告げたからだ。
治安局のやつらに伝えろ、と。
確かに彼は言った。
しばし逡巡する。
普通なら、逆じゃないだろうか? 
人質の命が惜しかったら通報するなと。黙って見逃せと、そういうべきじゃないのか。
そもそも、紫苑は治安局に疑われていた。
VCの隠匿と逃亡の幇助。自らそれに関与したのではないかと。
だが、人質として無理矢理連れ去られたのであれば、紫苑は間違いなく被害者だ。協力者ではなく、被害者である。
それを伝えろと言われた気がしたのだ。
彼は、紫苑を庇おうとしてる? まさか。
(……考えすぎかしら)
良い方向に考えすぎだろうか。判断は間違っていなかっただろうか。不安が募る。
それどころか、本当に脅されて連れていかれたのかもしれない。今まさに、酷い目に遭っているのかもしれない。
だけど、信じたかった。
一瞬だけ垣間見えた少年の灰色の瞳は、強い光を宿しながらも、ひどく穏やかに凪いでいたから。
人を愛することが出来る者の瞳だと思ったのだ。








シェルターの冷たい床で、すやすやと眠っている紫苑の髪の先に、ネズミが血の滲んだ指先をそっとふれさせる。
濃灰色の瞳が、穏やかに細められた。
そして、考える。
この感情は何だろう。
なぜ、どうしてこうまで、この少年のために懸命になっているのだろう。
不意に戒めのように、老婆のしゃがれた声が頭の隅の方で聞こえた。

よせ、ネズミ。近寄るな。
これは魔だ。
手を差し伸べてはならない。隙を見せてはいけない。
棄てろ。
今すぐ捨てろ。
この先も生き抜きたければ、捨てておけ。

(ああ、そうだ。その通りだ、お婆。わかっている)

決して荷物を背負いこんではならない。身軽でなければならない。
お婆は、そうも言った。
ならば、問いたい。今更だが。
なぜ。お婆はおれを背負って逃げた? 
おれはお婆の荷物じゃなかったか?
一人でも逃げられた。いや。一人の方がなお安全に逃げられた。その筈だ。だのに、なぜ。
誰かに託されたのだろうか。
最後の一人になった『歌う者』を護れ、と。
いつか『彼女』を鎮める歌が必要になった、その時のために。
強く生きぬく術を、この子に教えて――と。

じっと紫苑の寝顔を見つめて考えに耽っていたネズミの足もとで、ふいに小ネズミがチチ…と鳴き声を上げた。
はっとネズミが我に返る。
その眼下で、紫苑の長い睫が震え、ゆっくり持ち上がった。
丸い茶色の瞳が、きょとんと目の前のネズミを見る。見つめる。
あまりに凝視されるので、どうにも落ちつかなくなったネズミの方が、フイとバツが悪そうに視線を逸らした。
「ネズミ…!! 何それっ!」
「はっ?」
何が何それだと聞き返す暇もなく、紫苑ががばっと身を起こし、ネズミの両腕を強く掴んだ。突然のことに、ネズミがぎょっとなる。
「あー! もう何それ、何だよ、傷だらけじゃないか!!!」
「え、いや、おい」
「うわあセーターも泥だらけだし、ほつれてるし! あああ、あちこち血が出てて、もう、ひどい有り様だ!!」
盛大に嘆かれ、その言われように、ネズミがついむくれ顔になる。
ひどいのは、どっちだ。
「って、あんたな。いったい誰のために、おれがこんな…!」
言いたくないが、言いたくもなる。
が、紫苑はにべもなかった。
「そんなのいいから!」
「そんなのって、おい、紫苑」
良くない。ちっとも良くない。そんなのって何だ。
そもそも、あんたが追ってきたりしなかったら、こんな苦労などせずに済んだんだ。それを何だ。
ネズミが、心中で毒づく。
わざわざ言葉にしなかったのは、しなかったのではなく、そんな暇さえ与えられなかったせいだ。
「早く手当てしなくちゃ…!」
言いながら、自分のリュックを片手で乱暴に引き寄せる。小ネズミが紫苑の剣幕に驚いて、さっとネズミの肩に逃がれた。
それにしても、ぼくのためにこんなひどい怪我を…と泣きべそをかかれることを多少なりと想像したが〈期待したわけじゃない、断じて〉、相変わらず紫苑のリアクションは予想の斜め上をいく。
ネズミが辟易としているうちに、紫苑は再びリュックの中から救急セットを取り出すと、はいと手を差し出した。
「ほらネズミ、見せて」
「大した傷じゃない」
「わかってるよ、縫うほどの怪我はないって。でも消毒はした方がいい」
「縫うほどの怪我じゃなくて、残念だったな」
「強がり言ってないで、ほら、袖まくって」
「…あんた、おれのママかよ」
「うるさい、早く。バイ菌入っちゃったら大変だろ」
「今更だ」
「もうほんとに、ああ言えばこう言うんだから、きみは」
まるで昔からネズミを知っているかのような口調でそう言うと、救急ケースを開き、消毒液とコットンを取り出し、紫苑がてきぱきと手当てを始める。
「すっかり手馴れたな」
「きみのおかげでね」
「嫌味の言い方も板についてきた」
「それもきみのおかげだよ。ありがとう」
「へいへい、どういたしまして」
返して、ネズミが両肩を軽く竦める。
「それにしても、もうっほんとに、こんなにケガして血だらけで。ぼくのあげたセーター、台無しじゃないか。沙布にもらった誕生日プレゼントなのに、もうこんなにぼろぼろにしちゃって」
「…あーそー、悪かったよ。何なら今すぐ脱いで返すぜ」
「いいよ、今更返してなんかいらないから。きみにあげたんだし、それに」
「それに、何だよ」
「セーターより、きみがぼろぼろの方が、ぼくは」
ぶつぶつ文句を言っていた口が、そこまで言って、きゅっと真一文字に結ばれた。そのままぐっと息を止め、無言になる。
「紫苑?」
「何でもない」
「なんだ、泣いてるのか?」
「泣いてないよ、ばか!」
涙ぐんでしまいそうになるのをぐっと堪えて、目許を赤く染めた紫苑が怒鳴る。
そして、そんな自分に自分で驚いたかのようにはっとなると、慌てて口をつぐんだ。
「ごめん、怒鳴るつもりじゃなかった」
「いや、あんた、怒った顔もなかなかいけてる」
「茶化すなよ」
「褒めたつもりだが?」
「…心配、したんだ」
俯き加減に、紫苑が小さく呟くように言う。ネズミがすっと瞳を細めた。
「小ネズミと遊びながらか?」
それでも口調は変わらず、からかうように言われて紫苑がむっとなる。
「小ネズミと遊びながらだって、心配はできる」
「へえ、開き直りも覚えたんだ」
大したもんだと笑われて、ますます紫苑の頬がむくれて膨れた。
それが面白くて、怒らせると知りながらも、ネズミはついからかってしまう。無意識の照れ隠しであることには、まったく自覚なく。
そんなネズミを睨むように上目使いで見上げると、紫苑が報復のように、消毒液を含ませたガーゼをぺたん!と腕の傷口へと勢いよく押し当てた。
「てっ、おい、乱暴だな」
「この程度で大袈裟だよ」
紫苑がさらりと返して、包帯を取り出し、くるくると腕へと巻き付ける。手際がいい。
自分ならこんなにきっちりと巻けないなと思いながら、ネズミがつい紫苑の手元を見入ってしまう。 
「彼が行くなって伝えにきた。ネズミがそう言っているって」
彼と呼ばれて、小ネズミが前足を上げてチチッと鳴き、紫苑を見上げた。肩口へと駆け上がり、肯定のようにまたチチ…と鳴く。ネズミが、いぶかしむように眉を寄せた。
「言葉、理解できたのか、あんた」
「言葉…なのかな。よくわからないけど、確かにそう言ってるってわかった。だから、待つって決めたんだ。きみとも約束したしね、信じて待つって。でも」
「でも、何だよ」
「知らなかった」
「何が」
「ただ待つだけが、こんなにつらいって」
手を止め、絞り出すように言って、ぎゅっと唇を噛む。肩で小ネズミが見守る。ネズミは、一瞬詰めた息を吐き出した。予想外の言葉だった。
もっとも、紫苑の言葉はネズミにとって、ほとんどがそうだけれども。
「あんたがちょろちょろしたところで、この小ネズミほども役に立たない。此処で大人しくしてくれてて正解だ」
淡々とネズミが返す。
怒るかと思ったが、紫苑はそうだねと呟くように答えただけだった。
ネズミが、ふとその横顔を見つめる。
何か決意めいた光が、垣間見えた気がしたのだ。紫苑の瞳の中に。
「…紫苑?」
「はい、手当て終わり」
包帯を巻き終わり、先を結んでハサミで切る。問おうとするより早く、紫苑が笑みを返し、救急ケースが閉じられた。
何かはぐらかされた気分になりつつも、ネズミが『あぁ…』と肯いて返す。
「あ、そうだ。おなかすいてない?」
「は? ああ。そりゃあ」
「だよな。よし、じゃあ、晩ごはんにしよう」
笑顔で言って、紫苑がリュックの口を大きく開き、ごそごそと中を物色し始める。
ネズミが、目の前でくるくると変化する紫苑の表情に、我知らずと笑みをこぼした。
まあ、良い。こういう顔をしてくれていた方が、心がざわめかずに済む。
ネズミが、今巻かれたばかりの包帯の白さを見つめ、安堵のように瞳を細める。
そんなネズミの胸中も知らず、紫苑は広げたランチョンマットの上に、楽しげに食べ物を並べ出した。知らないうちに、ペーパートレイや紙ナプキンまで登場している。用意周到だ。
「えーと、ロールパンとハムとスライストマトとチーズと、ハッシュポテトにフライドチキンと、あとリンゴにクッキーとチョコレート…」
「あんた、何それ。本気でピクニックのつもりか?」
「とりあえず、朝ごはんの用意が冷蔵庫にあったから、母さんには悪いけど、それを拝借してタッパーに詰めてきたんだ。あ、カフェオレは、母さんが寝てからぼくが作った。飲む? ちょっと冷めてるかもしれないけど」
言って、携帯用のポットから蓋になっているカップにカフェオレを注ぎ込む。湯気が上がった。
「甘そうだな」
「ココアほどじゃないけど。はい、どうぞ」
「どうも」
一口飲んで、ネズミが息をつく。あたたかい。ちょうどよい甘さだ。
「おいしい?」
「あぁ、うまい」
「良かった」
「あんたも飲む?」
「うん、ありがとう。飲む」
カップが一つしかないため、3口ほど飲んで、紫苑の手に戻す。ネズミの唇がふれたのとほぼ同じ位置に、紫苑はそっと唇を寄せた。
ネズミがはっとし、慌てて一点を凝視していた瞳を逸らした。
(何を見てるんだ、おれは)
頬のあたりが熱く、胸の鳴る音も、なぜだかいつもより大きく聞こえた。
隣でネズミが一人赤面しているとも知らず、紫苑が、こくりとカフェオレを飲んで満足げに微笑む。その肩で、チチッと小ネズミが鳴いた。
「ん? おまえも、おなかがすいたのかい?」
葡萄色の瞳が紫苑を見つめ、チチチッと鳴く。
「わかった。ほら、チーズがあるよ。食べるだろ?」
チーズを小さな一かけにして手渡すと、小ネズミは鼻先を紫苑の頬に寄せ、嬉しそうに声を上げた。
「わ、あはは、わかったわかった、くすぐったいよ! お礼はいいから、早くお食べ」
楽しそうに笑いながら小ネズミと戯れる紫苑に、ネズミが眉を潜めてそれを見つめる。
「え、何?」
「いや。そいつ、おれ以外の人間には慣れない筈なんだがな」
「え、そうなの?」
信じられないというように、紫苑が自分の肩先にいる小ネズミの額を撫でる。小ネズミは指にじゃれるように前足を上げると、また嬉しそうにチチッと鳴いた。
「まあ、いい。とにかく腹ごしらえだ」
「うん! さあ、ぼくらも食べよう」
紫苑が、切り込みを入れたパンにスライストマトとハムを挟んでネズミに手渡す。同じように自分の分も作ると、二人同時にパンにかぶりついた。
何しろ、今朝から何も食べていないのだ。今まで空腹を忘れていられたのが不思議なくらいだ。
マットの上にセットされた食べ物は、おやつ類とりんごを残して、あっというまにたいらげてしまった。
最後のチキンを口に放り込み、油のついた指を舐める。ネズミがそうするのを見て、紫苑も同じようにした。火藍が見たら、行儀が悪いときっと笑うだろうけど。
「はぁ、おいしかった」
「あっというまに食べちまったな」
「うん。おなかすいてしね。ぼく、おなかが鳴る音って初めて聞いたよ」
「お幸せなことだ。NO.6の坊っちゃんには、人が極限の空腹に陥った時、いったいどんな行動を取るかなんて、まったく想像もつかないだろうからな」
「…どういうこと?」
「あんたは聞かない方がいい。せっかく食ったものをリバースされちゃ堪らない」
だったら言うなよ…と小さく反論して、紫苑が壁に凭れて膝を抱える。
おやつ類は、またリュックにしまい込んだ。
日もちの良い食料は、これから重宝する。少しずつ食べなければ。
「ところで、これからどうするつもり?」
同じく壁に凭れるネズミに、紫苑が尋ねる。そういえば、どこに向かうのかさえ、まだ聞いていなかった。
「いつまでも此処にいたって埒があかないからな。明日の朝、ここを出て地下水路の入り口へ向かう」
「入り口って、どこにあるんだ?」
「この丘のずっと下った辺りだ。クロノスの西の端。つまり、あんたのせいで、おれは真逆に来ちまったわけだ。登る必要のない丘を登って」
「あ、そうなんだ。ごめん」
悪びれず、さらりと詫びられて、ネズミがやれやれと両の肩を竦める。まったく責め甲斐がない。
「目的地までは、クロノスの居住区を横切ることになる。この際だから、人気の多い時間帯を選ぶつもりだ」
「クロノスの人たちが行き交う、その中に紛れて移動するのか」
「そうだ。高級居住区の住人たちを危険に晒すわけにはいかないからな。居住区内では、やつらも下手な手出しはしてこない。あんたという、大事な人質もいるしな」
「えっ」
「そうあんたは、地下水路の入り口に辿りつくまで、おれの人質になってもらう」
「だいじな、人質…」
「待て」
ネズミの顔が、一気に怪訝そうになる。
「え、何?」
「あんた、おかしいだろ。何でそこで顔を赤くする必要がある」
「え、えっ? いや、別に、そんな、ことは、ただその…!」
なんだ、そのリアクションはと指摘されて、どうやらうっとりした表情をしたらしいことは自分でも想像がついた。
紫苑が慌てて弁解する。
だけども、『大事』という言葉と、『人質』という危険で甘い匂いがするワードに反応してしまったのは間違いなかった。
真っ赤になっている場合じゃないのに。
だが、その甘い幻想も、僅かな時間で憂いに変わった。
そこまで、ということは、そこから先はない。
ネズミの言葉は、案にそういうことを含んでいる。
「そこで、あんたと分かれる」
きっぱりと宣言され、紫苑の胸はずきりと重い衝撃を受けた。
言葉が胸に突き刺さる。本当にそういうことがあるのだと、紫苑は12年間生きてきて初めて知った。
わかっている。わかっていた。
だけど。
現実として突き付けられると、あまりにもつらい。
無言になってしまった紫苑を、ネズミの濃灰色の瞳がちらりと視界の隅で窺う。
腕で自分の体を抱くようにして項垂れる紫苑に、ネズミもまた視線を落とした。
仕方が無い。
どう考えても、地下の下水道を紫苑を連れて移動することは不可能だ。まちがいないく足手纏いになる。
きれいなところでしか生きたことの無い温室育ちの坊っちゃんに、汚物と悪臭の中を走らせるなどどう考えても無理だ。
仮に下水処理場まで辿りつけたとしても、その先はもっと過酷なのだ。
いづれ別れるなら、断然、紫苑の身がより安全な方法が良い。
朝の人の流れのある時間帯なら、治安局もそうそう強引な真似は出来ないだろう。
犯罪がないと人々に信じられているこの聖都市で、まさか治安局自ら、銃を携えて子供を狙い撃つなど有り得ない。
だから。
そこで、お別れだ。
「寒いのか?」
「え。あぁ、うん」
めずらしく、やさしく声をかけられて、紫苑がはっと顔を上げる。気遣うようなネズミの声音に、無理にでも薄く微笑んでみせた。
「さすがに、夜になるとちょっと冷えるね。あ、そうだ」
言うと、リュックを引き寄せ、一番底の方へと手を差し入れる。引き出されたものに、ネズミが呆気に取られてそれを凝視した。
「やっぱり持ってきて良かった。薄手だけどあったかいんだ、このブランケット」
「あんたのリュックの中は、いったいどうなってるんだ。まさか4次元に繋がってるのか?」
「まさか。そんな魔法のリュック、あったらぼくも欲しいけど。きみ、そっち持って」
「って。まさか一緒に被れってのか。おれは必要ない」
「遠慮はいらない。一緒にくるまった方があったかいだろ。はい、持って」
「…あんた、本当強引だな」
「うん。自分でも驚いてる」
「あぁ?」
「今まで、そういうことなかったから。本当、きみといると、自分でもびっくりすることばかりだ」
しみじみと言って、紫苑が微笑む。
「きっと、誰かとそんな風に関わったことがなかったせいだろうな」
沙布の意見に微笑んで肯き、友人たちの意見にも特に反論もせず、ただ微笑んでいた。
それは違うんじゃないかと思っても、押し切る力に反発するほどの熱い気持ちもなかった。
きっと紫苑にとっては、さほど重要じゃない、言ってみればどうでもいいことだったんだろう。
そんな煮えきらない態度に付け込むように、クラスメイトの男子たちは、紫苑に面倒な係や役割を押し付けた。
それでも微笑んでいた。
別に嫌じゃなかったし、面倒だなあと少し思う程度のことだったから。断る理由も思いつかなかった。
だけど、沙布はそのことにしょっちゅう立腹して、他の男子らとやり合った。
あんたたち、ずるい、卑怯、いい加減にしろ。
だのに、紫苑はといえば、激高する沙布の後ろで、ただおろおろするだけだった。
その後、男女逆転カップルなどとからかわれたり、ひどい時はノートにいたずら書きをされたり、無視されたりもした。
もしかするとあれは、俗に言う『いじめられていた』ということなのかもしれない。
でも、正直、どうでも良かった。
その程度には、他人に無関心だったのだろう。
「あんた、やっぱり変わってるな」
渋々持たされたブランケットの端を肩に掛けて、ネズミが言う。
「そう? そうかな。そんなこと今まで言われたことないけど」
「周りの目が節穴ってことさ。あんたみたいに変わってるやつ、そうそういないだろ」
「うーん。NO.6には、ってこと?」
「NO.6以外でもだ。稀少価値だぜ」
言って、ふっと笑う。何かを思い出したらしかった。
きっとあれだ。ゆうべ台風のさなか、絶叫していた紫苑の姿を思い出したにちがいない。
紫苑は軽く赤面すると、ぷいとネズミから顔をそむけた。
そしてふと。ずっと聞いてみたかったことを口にした。
「ネズミ。きみは、いったいどこから来たんだ?」
「聞いてどうする」
隣で笑っていた顔が、急に真顔になる。
紫苑ならずとも、ネズミもまた短時間で表情がよく変わる。たぶん、本人は少しも意識していないだろうけど。
「聞いちゃマズいのか」
「別に。だが、あんたの知ったことじゃない。おれが何処から来たのか、何処に行くのか」
「ぼくには関係ない?」
「ああ、そうだ」
「でも」
「でも、何だ」
「知りたいんだ」
「は? 何だって」
「きみのことが、もっと知りたい」
頬がくっつくほどの至近距離で、紫苑のまっすぐな瞳が濃灰色の瞳を見つめる。
今まで何もかもに無関心だったことが嘘のように、紫苑のすべての関心は、今、目の前のネズミに集中していた。
心の奥底でずっと眠っていた、紫苑の好奇心が疼く。
知りたい、知りたい。どうしても知りたい。一部じゃ嫌だ。全部知りたい。
ネズミ、ぼくは、きみの全部が知りたいんだ。
それは一度覚醒してしまったら、留まることを知らなかった。
懸命なほどまっすぐに見つめてくる瞳に、表面上は淡々とネズミが返す。内心は、かなりたじろいていた。
「知ってどうする」
「ただ、知りたいんだ」
「だから、知って、それでどうするつもりだ」

「ぼくも、きみと行く」

口調は強く、きっぱりとしていた。
「――今。何て言った?」
空耳か?
再度、問う。
だが、空耳でも幻聴でもなかった。
「きみと一緒に行くことにした」
「……は?」
近くで聞こえた筈の紫苑の声が、ネズミの鼓膜を突き破って、脳内で遠くこだまする。雷鳴のようだ。
「きみをここで待つ間、ずっと考えてた。どうしたら、もっときみと一緒にいられるだろうって。でも、よく考えたら簡単なことだった。ぼくが、きみの行くところについて行けばいい」
ネズミが呆気に取られる。
驚きのあまり、嘲笑さえ出てこない。
「…あんた、正気か?」
「もちろん」
自信たっぷりな紫苑の言葉に、ひとつだけわかったことがあった。
一人で此処において行ったのは、どうやら失敗だった。
小ネズミが、その足元で肯定のようにチチッと鳴く。
ネズミは、脱力したように肩で大きく溜息をついた。
いったい何度めの溜息だろう。
お婆。おれはいったい何度、禁を破った? 内心で問う。
「おれは、まだあんたに、どこから来たのかもどこに行くのかも言っていない。なのに、よくそんなことが言えるな。さすが、NO.6育ちの人間は違う。まったくもって、無知で傲慢で鈍感…」
「西ブロック」
「え?」
「そうなんだろ? きみが向かおうとしている所」
ネズミの目が、瞬時に小ネズミをぎろりと睨みつける。小ネズミははっとなると、違う違うと反論するように声高に鳴き、頭を激しく上下させた。
「あ、彼に聞いたわけじゃないよ。ただ、きみが向かっていたルートと方角から推察して、地下の廃棄ルートを使うつもりなら、向かう先は西ブロックしかないかなと思ったんだ。もし、地下でどこかに枝分かれしたルートがあるのなら別だけど」
ネズミがやれやれと肩を落とし、頭を抱えた。これだから、頭のいいやつは厄介だ。
「なら聞くが、西ブロックがどんなところか、あんた知ってる?」
「治安がひどく悪いって聞いた。あと生活環境も劣悪だ、と」
「その通りだ。貧困と暴力が横行する町。銃の所持が許されているのは、ここNO.6じゃ狩猟クラブだけだって、あんた言ったよな。だが西ブロックじゃ、おれたちより小さい子供が銃を持ち、場合によっちゃあ、それで相手を射殺する。そうでもしなくちゃ生きていけないからだ。自分が生きるために、他人の命を奪う。生きることに貪欲なやつだけが、明日も生きられる。そんな町だ」
辛辣な言葉に、紫苑の眉がしかめられる。表情が曇る。
確かに、想像もつかない現実があるのだ、NO.6の外には。
「あんたなんか、それこそ1秒と持たずに殺されてる」
そして、ネズミの言う、それもまた現実なのだろう。
だけど。
「それでも」
きっと顔を上げる。
だからこそ、知りたいのだ。
『現実』を、この世界の本当のすがたを。
自分の目で確かめたい。ネズミの傍らで体感したい。
このNO.6が紛いものの世界なら、リアルというものがどんなものか知りたい。

「ぼくは、きみと行く。もう決めたんだ」

そこにどんな困難が生じても。危険だらけだとしても。
「たとえ、たった数秒の人生だとしても。きみと離れて、永遠を一人で生きるよりはずっといい」
赤面しそうな告白の言葉に、ネズミはあきらめたようにただ笑んだ。
「…好きにしろ」
「いいの?」
当然来ることを覚悟していた罵詈雑言は、予想外なたった一言であっさりと決着した。
やや肩透かしな反応に、紫苑が思わずきょとんとなる。
「ああ、勝手にすればいい。ただし、おれがあんたの身を守るのは、地下水路の入り口までだ。そこから先のことはおれは知らない。あんたが勝手に追ってきて転ぼうがおれを呼ぼうが、おれは顧みない。あんたを助けない。おれはおれで勝手にやる。ここまできて捕まるわけにはいかないからな」
「うん、わかってる。脱落したら、そこで置いていってくれて構わない」
「まあ、いい。あんたが『現実』ってもんを知るいい機会だ」
「どういうこと?」
「下水処理場の汚水の中を泳ぐんだぜ。顔も手足も口の中まで汚れた油やヘドロでべったべたになって、しばらく目もろくに開けられない。清潔な水しかしらないあんたにそんなことができるか?」
「それは…やってみなくちゃわからない」
「そう思うところが、お坊っちゃんなんだ」
そこまで言って、何となく察した。
本気にされていない。
ネズミは、本気にしていない。口だけだと思っている。
やってみて、どうしようもならないと知ったら諦める。そう思われている。見くびられている。
もっとも、本当にできるかどうかなんて、紫苑にさえわからないのだが。
だが、やりもしないで出来ないと尻ごみするのと、実際やってみて出来ないのは違う。
やってみせる。ネズミと一緒に、逃げきってみせる。
決意のように、ぐっと拳を握りしめる。
その腕に、昨日まで紫苑のすべてを管理していたIDブレスレットはもうない。
「紫苑、IDブレスレットのことなら心配ない、あれは」
言いかけたネズミの言葉を、紫苑は笑顔で遮った。
「あれは、もういいんだ」
もしかすると、あれがないせいでクロノスには帰れない。紫苑がそう案じているのでは、とネズミは思ったようだった。
だが、違う。ブレスレットがあろうがなかろうが、選択は変わらなかった筈だ。
「いいって、紫苑」
「取って、手首が軽くなってせいせいした。だから、もういらないんだ」
手首をぶらぶらさせて笑む。
事実、ブレスレットのなくなった腕は、手枷を外されたかのように自由だった。





「星、きれいだね」
「…ああ」
「こんなにあるんだ。星って。知らなかった」
「あんたらの生活じゃ、夜に星を見ることもままならないのか」
「夜間の外出は市の許可がいるし、夜に窓を開けると侵入者と間違われてセキュリティシステムが誤作動を起こすんだ。母さんは、それが嫌で、時々システムそのものをオフにしてた」
「なるほどな。ま、それでも、この都市で見える星空なんて、おれに言わせれば全部紛いものだ」
「どういう意味?」
「天空には、星なんて、もっと無数にあるってことさ。光をまとった街の中からじゃ、遠い光なんて見えやしない。せいぜい2等星どまりだろ」
「きみの住んでる処からなら見えるのか? もっと小さい星も」
「ああ。弱い光もはっきりとな。闇が深ければ、たとえ消え入りそうな光でも自然と目に入る」
静かに言う横顔を見つめ、ふいに紫苑が呼ぶ。
「ネズミ」
「何だ」
「手、繋いでいい?」
「なんで、手なんか繋ぐ」
「いちいち理由がいるんだな、きみは」
「はーん」
「なんだよ」
「こわいんだ?」
「えっ」
「こわくなってきたんだろ」
「え、違うよ、何を言ってるんだ、そんなわけ…!」
「じゃあ、あれだ。ママが恋しくなってきたんだ」
「それもちがうっ! もうきみは本当に」
「何だよ」
「鈍感」
「はぁ?どうい意味だ」
「もういい」
「何、怒ってんだ」
「別に。もういい、寝る」
「…へんなやつ」
「あ、でも、やっぱり手は繋ぐから。左手貸して」
「って、おい…! まったくあんた、本当に強引だな」
「うるさい、おやすみ」
強引にブランケットの中で手を繋ぎ、紫苑が壁に凭れたまま、くるりとネズミに背を向ける。
チチっと小ネズミが鳴き、ネズミではなく、紫苑の側のブランケットの内にささっと潜り込んだ。
呆気に取られている間に、僅か数分もしないうちに、やわらかな寝息が耳に聞こえてくる。
ネズミは、くくっと笑いを噛み殺した。
寝つきの良さは、超一級だ。大したもんだ。
よくぞ、こんな状況下で、しかもあたたかなベッドもやわらかな布団もない場所で眠れると感心する。
お坊っちゃん育ちのくせに、案外図太い。逞しい。
こんな神経の持ち主なら、もしや大丈夫なんじゃないか?
無意識に、ふと考えてしまい、はっとなる。
即座に打ち消した。
何が大丈夫なんだ? まったく甘いことを。
甘ちゃん坊やに触発されたか。しっかりしろ、ネズミ。
自身を心中で叱咤する。
そんな筈がないだろう。
そもそも人間が生きられる環境下じゃないあの場所で、すべてが整えられ、何不自由なく暮らしてきた紫苑が生きられるわけがない。
到着して僅か数分で、クロノスに帰りたい帰してくれと泣きつかれ、困り果てるのがオチさ。
(…それに、約束もある)
こいつの母親に。
必ず無事返すと、約束した。
約束は違えない。
それは、たった一つ。ネズミが生きる上で護ってきた、自身に課せた掟のようなものだ。
出来ない約束なら最初からしない。守る気のない約束もしない。
それが故に、今まで誰かと交わした約束は、片手の指で充分足りるほどの数だ。
だからこそ。守らねばならない。絶対に。
あの母親は、こちらの思惑通りに動くだろうか。いや、思惑などに気付かなくていい。
子が命の危険に晒されていると知ったら、誰だって助けを求める、守ろうとする。その衝動のまま行動してくれればいい。
治安局は、紫苑をVCの協力者ではなく被害者と断定し、もし万一しくじって捕らえられた時でも、紫苑だけは無罪放免、無事母親の元に帰されるだろう。
それでいい。
無論、しくじるつもりなんてない。何が何でも生き延びる。そのための逃走なのだから。

眠ってしまった紫苑の肩から、ブランケットの端がずり落ちかけている。直してやろうと、繋いだ手を離そうとすると、身じろいで、やけにかなしそうな顔をされた。
舌打ちし、紫苑の右手を自分の右手に持ち代え、自由になった左手で紫苑の肩を抱くようにしてブランケットを掛けた。
その動きに誘われるように、紫苑の身体がネズミにぐらりと凭れかかり、頬がネズミの肩へと乗せられる。
やわらかな息が、ネズミの頬を甘く掠めた。
紫苑の肩を抱くネズミの手に、ぎゅっと力が込められた。
そっと。
ためらいがちに、一瞬だけ、そっと。
唇を重ねる。
刹那の口づけに、胸の奥は切なく痛んだ。


紫苑と、もしも一緒にずっといられたら。
笑って暮らせるのだろうか。
もう一人のつめたさにうちひしがれることもなく。


いや、幻想だ
人が冷たさに打ちひしがれるときは、ぬくもりがなくなった時だ。
失ったものがあるから、その冷たさにうちひしがれる。
だったら、最初から無いほうがいい。
失うものがなければ、温もりを知ってしまわなければ。
冷たさに泣くこともない。


でももう。
手遅れじゃないのか…?


紫苑はあたたかい。
ネズミは、それを知ってしまった。
知らなかった頃にはもどれない。
しらなかったふりなんて、できない。


幻想を抱いている。
紫苑と二人で西ブロックに戻り、お婆が見つけてきたあの本だらけの部屋で、二人一緒に暮らす夢を。


手放したくない。離れたくない。ずっとこのままこうしていたい。
心の中で誰かが懸命に叫んでいる。



だが、ネズミは敢えてその声に、きつく耳を塞いだ。




西ブロックで見上げる夜の空は、空気が凛と張りつめていて澄んでいて、そこに無数の星があることを教えてくれる。
だが。
NO.6で見る夜空も、まんざらじゃない。
紫苑の体温を腕の中に抱き寄せ、髪の先にそっと口づけて、ネズミは濃灰色の双眸に星空を映した。


この空を、星のさざめきを、永遠に忘れないように――と。













(つづく)



はじまりの朝と、さよならの月夜(3)


丘を斜めに下って、再び森に入る。
突然、小さな生き物が茂みから飛び出して、ネズミの足元から駆け上がるようにして肩に回った。ネズミが、それに囁くように唇を動かす。
そいつは、『了解した』というようにチチッと鳴いた。
「行け」
命じるとともに、ネズミの肩から飛び降り、目にも止まらぬ速さで丘の上へと疾走していく。頼んだぞと背で呟いて、ネズミは逆に下を目指した。
まずやるべきは、紫苑のいる丘から治安局の目を遠ざけることだった。
が、こちらには紫苑のIDブレスレットがある。囮になるのには、それは好都合なことだった。
やつらは、人の顔などろくに見ない。記憶しない。記憶するのは、脈々と連なる数字、データだけだ。
そうして、そのすべてをNO.6で完全管理出来ていると思い上がっている。
それが、つけいられる弱点となるとは知りもせず。
(さて……しかし、こいつをどうする…)
紫苑から受け取ったブレスレットを、濃灰色の瞳がちらりと見遣る。
投げ捨てるのは簡単だ。だが今それをすることは、紫苑の未来をも投げ捨てることになる。
―自分のために、紫苑が未来を失う。
それだけは、どうして避けなければならなかった。
ネズミにとっては忌まわしいだけの聖都市も、紫苑にとっては、これからも生きていかなくてはならない場所なのだ。奪い取ることは出来ない。
ということは。
(…一芝居うつか…)
今後の紫苑のためにも。
(まったく…何をやってるんだ、おれは)
一人でこのまま、とっとと逃げれば、楽に逃げられるものを。
みすみす自ら危険に飛び込むような真似をするなんて、馬鹿みたいだ。
明日にはもう、別れが待っているだけなのかもしれないのに。
思い、瞑目する。
閉じた瞼の裏に、紫苑の顔が浮かんだ。
(―それでも)
ネズミの濃い灰色の双眸が、決意のように開かれる。
大丈夫、うまくやるさ。
紫苑に言ったのと同じ言葉を、ネズミは自分に言いきかせるように、胸の中で反復させた。





シェルターの白く無機質な壁に凭れ、紫苑は自分の頬にそっと指の先で触れてみた。そこは、微かに熱を帯びている。
ネズミの唇が、淡くふれていった場所。
まだその感触がはっきりと、紫苑の肌に残っている。
(…そういえば、昨日。沙布もぼくの頬にキスをした。母さんと同じことを、ぼくに)
ネズミも同じことをした。同じように、頬に、キスを。
だのに、変だ。
どうしてネズミのは。
ネズミのだけ、違うんだろう。
どうして、あとからじんじんと、こんな風に熱をもってくるんだろう。
どうして頬だけじゃなく、胸の奥まで熱くなってくるんだろう。
そしてぼくは、うれしい、と感じている。
ネズミの唇が、ぼくの頬にふれたことが。
(なんか……恥ずかしいな……)
思い返しただけで、頬が赤らむ。
そんなことを悠長に考えている場合ではないのに。
いや、それどころか、今まさにネズミは命の危険に晒されているのかもしれない。
追われ、銃を付きつけられて。
はっとなる。
こんなところで、じっとしていいのか。自分だけ安全な場所に逃れていていいのか。
思い、熱を持っていた胸の奥が、ひやりと冷たくなる。
ネズミは、待てと言った。
信じると紫苑は答えたけれど。
そもそもネズミは、自分のために危機に晒されているんじゃないか。
ネズミ一人なら、もっと楽に逃げられただろうに。のこのこ付いてきたばかりにこんなことに。
(ぼく、足手纏いになってるんだ…)
今更ながらに気付いて愕然とする。
そんなつもりじゃなかったのに。ただ、うまく逃げてほしかったんだ。
どこへ向かうのか、どうやって逃れるのか、手段も行く先も何も知らないし、聞かなかったけれど。
昨晩。紫苑のベッドでさっさと眠ってしまったネズミの寝顔を見て、何か手助けをしたいと思ったのだ。思ってしまった。



(寝ちゃった…)
突然、窓から入ってきた侵入者は、シチューとチェリーケーキを食べた後。
眠たいと言って、あっさり紫苑のベッドで眠ってしまった。
紫苑の首を恐ろしい力で絞めた冷たい指が、今は温かみをもって紫苑の手を握りしめている。
(あったかい…)
生きてる人間ってあったかいんだ、そうネズミは言った。
それが何を意味するのか、幼い紫苑にはまるで想像がつかなかったけれど。
でも、そんな彼が、無防備に自分のベッドで眠っている。
それがどうしてだか、とても嬉しいことのように思えた。
ぺたんとベッドの上に坐り、すうすうと寝息をたてて眠るネズミの顔をそっと覗き込む。
ぎらぎらと光る濃灰色の瞳が閉じられると、彼はなかなかに美しくやさしい面立ちをしていた。
紫苑の丸い瞳が、じっと見つめる。いくら見つめていても飽きない顔だ。
まだ少し顔色は良くないけれど、腕の傷の出血は無事止まったようだし、部屋に入ってきた時の青白さに比べれば、かなり頬にも赤みがさしていた。
(……良かった)
微笑んで、それから、額にそっとおやすみのキスをする。
よく眠れるように、と。
「………う…ん」
唇が離れるなり身じろぎしたネズミに、はっと我に返り、紫苑の両頬がぽっと赤くなる。慌てて、ネズミの傍を離れた。
(ばか、ばか、何で赤くなるんだ。おやすみのキスぐらいで)
せっかく繋いでいた手も自ら離してしまい、ちょっと残念な気がして、紫苑が広いベッドの隅で膝を抱え、はぁと溜息をつく。
――に、しても。
逃げられるのかと聞いた紫苑に、ネズミは自信たっぷりに勿論と答えた。
それがあまりに自信ありげだったせいで、きっと大丈夫なんだと信じたけれど。
でも食べるものもないし、救急セットだって。またもし出血したらどうするんだ。
ああ、それに裸足だ。靴さえ履いていない。
セーターはこのままあげるにしても。
(そうだ…!)
寝息をたてているネズミの顔をもう一度そうっと覗き込んで、起こさないように細心の注意を払いながら、紫苑がクローゼットの中から大きめのリュックを取り出す。
(うん、これなら…! たくさん入りそう)
そうして、逃亡のために必要なものを、紫苑はネズミのためにせっせと用意し始めた。



それがまさか、こんなに大荷物になるとは思わなかったけれど。
そのうえ、荷作りに夜遅くまでかかったせいで、あろうことか寝過ごして。
紫苑が目覚めた時には、もうとっくに傍らにネズミの姿はなく、開け放った窓を見て呆然とした。
用意したリュックも、当然そのまま。
だけど、落胆しながら手を伸ばしたシーツの上には、まだぬくもりが残っていた。
まだそんなに時間が経っていないのかも。今からなら間に合うかもしれない。
庭のセキュリティが解除されたままだということを確かめて、荷物と靴を持って、まるで家出のようだと思いながら自分の部屋のバルコニーから飛び降りた。(正確には、落ちた)
そうして、ネズミの足取りを追って、森に入った。
近隣の森は、まだ幼かった頃の紫苑の絶好の遊び場だった。
高級居住区クロノスは、居住権のない者の侵入を決して許さない。そのため、子供が一人で森で遊んでいようと、あまり心配されることもなかったのだ。
もっとも、そんな子供はクロノス中探しても紫苑のほかにはいなかったし、成長するにつれて、次第にそんな時間もなくなっていったけれど。

(だけど…。これじゃあ本末転倒だ)

ネズミを安全に逃がすために、追いかけてきたはずなのに。
逆に、ますます危機に陥れている。
いけない。
こんなところで、ぼんやりしている場合じゃない。
何かできるはずだ。
自分にだって、きっと、ここにこうしているよりは、役立てることが、たぶん有るはず。
キッと唇を結び、決意して立ち上がる。
そして、紫苑がシェルターの横穴に向かおうと屈んだ、その時。
「うわっ」
何か灰色の小さなものが、いきなり穴からいきおいよく飛び出してきた。紫苑が驚きのあまり、思わず尻もちをつく。
「な、な、何…!?」
そのまま、ずるずると後退する紫苑の足元で、その小さなやつがチチ…ッとかん高い鳴き声を上げた。
「え……?」
それは、ネズミの瞳の色によく似た濃灰色の小ネズミだった。葡萄色の小さな瞳が、じいっと紫苑を見上げている。
「うわあ、小ネズミだ…! わあ、わあっ、かわいいな。ほら、こっちへおいで」
初めて見る小さな生き物に、紫苑が我を忘れて興奮する。この都市には存在しないはずの、パソコンの画面上でしか見たことのない生物。
身を屈め、怖がらせないように注意しながら、そうっと床の上で手を差し伸べる。
それはやや警戒したようにしばし鼻を動かし、用心深く紫苑の掌を見つめた後。
やがて、その上にそろりと前足をかけると、紫苑を見上げ、何事かを告げるようにチッチッ…と鳴き声をあげた。
 




予想通り、庭の警報システムは切られたままだった。
猫が塀を越えただけでも高らかになる警報アラームの音を嫌って、紫苑の母は日常的にこのシステムを解除しているらしい。
もしかすると、クロノスのどの邸もそんなものなのかもしれない、とネズミが思う。
犯罪など無縁に近いこの市で、さらに万全のセキュリティ下におかれている高級居住区では、ほぼ必要ないものなのかもしれなかった。
もっとも、そのおかげで、ネズミは再び易々とこの庭に忍び込むことが出来たのだが。
紫苑の部屋の窓は、ゆうべのように全開とまではいかないが、控えめに薄く開かれていた。ネズミが用心深く、バルコニーを伝い、窓に接近する。
室内には人影があった。紫苑の勉強用のデスクに向かい、項垂れている人影。
あれが紫苑の母親・火藍か?
ネズミが、窓越しに盗み見る。
息子の身に、突然何が起こったのか。身を案じながらも苦悩しているような背中だ。
いったい何が違えたのか。特別コースに進むことが決まった息子は、ゆうべも、レポートに精を出していたはずではなかったか。だのに。
治安局から付きつけられた現実は、『VCの隠匿。その逃亡の幇助』。
しかも、現段階では行方知れず。
VCに同行しているのか、はたまた連れ去られたのか。それ以前に無事でいるのかどうなのかさえ、定かではない。
だが、治安局は前者を疑っている。もともと部屋の異物探索システムが切られていたことから、怪しいと疑いの目を向けられている。
息子から連絡が入ればすぐに当局に通報するよう、厳重に言い渡して、治安局の車は去っていった。
だが、そんなことがあるだろうか。まさか、あの子に限って。
「紫苑…」
沈痛な面持ちで呟かれた名に、ネズミの双眸が険しくなる。そして、ふらふらと部屋を出ていこうとした火藍に気付くと、素早く窓際からその背後に迫った。殺気に、火藍がびくりと振り返る。
「…VC…!」
ネズミを発見するや、声にならない悲鳴を上げ、とっさに壁の操作パネルに手を伸ばす。緊急警報システムのスイッチを入れようとしたのだ。
ああそうだ。それが侵入者を発見した時の正しい行動だ。悲鳴を上げ、逃げ、そして治安局へ通報。
紫苑はどれもしなかった。至って落ち着いていた。いや、落ち着いてはいなかったか。瞳が好奇心でらんらんと輝いていたから。
ネズミは、余裕で火藍の腕を後ろ手に拘束し、膝を付かせ、その首にナイフの刃を押し当てた。
「動くな」
低く耳元で囁かれ、身震いするほどの冷たい感触と突然の恐怖に、火藍がひっ…と息を詰める。
『慣れてるんだ、こういうこと』
紫苑の言葉を思い出した。
そう、慣れている。大人を拘束するのも、こんな風にわけなく出来る。
脅すことも。
「あんたの息子のIDブレスレットだ」
火藍の目前に、これ見よがしに銀のリングを放り投げた。火藍の瞳がさらに大きく見開かれる。ネズミの手の中で、火藍の身体ががたがたと恐慌に震えた。
「―どうして、これを…! 紫苑は、紫苑はどこ…!?」
「おれが預かっている」
「そんな…! どうして、何のために…!?」
絞り出すような叫びとともに、顔が歪んだ。瞳が震え、全身がわななく。
最愛の息子が、無理やり手首からこれをもぎ取られる姿でも脳裏に浮かんだのだろう。
確かに、自ら望んでこの聖都市の市民権を放棄する者など、きっとどこを探しても他にいない。
(…そんな変わったやつは、あんたの息子ぐらいだ)
大きなリュックを背負って、よたよたと森の中を駈けてきた紫苑の姿を思い出し、ネズミが思わず笑ってしまいそうになる。いっそ事実を教えてやりたい誘惑にもかられたが、堪えた。
それでは、IDブレスレットをわざわざ此処に届けにきた意味がなくなる。
ネズミがつい緩んでしまいそうになる口元を一度くっと結び、視線を鋭くさせた。声を低めて言う。
「あんたの息子には、おれが無事NO.6から脱出するまでの人質になってもらう」
「そんな…! お願い、紫苑…! 紫苑を返して!!」
悲痛な火藍の叫びが、部屋に響く。どこかに盗聴マイクが仕掛けられているのかもしれない。望むところだが、これ以上留まっているのは危険だ。近くに局員が潜んでいる可能性もある。
「逃走の邪魔をするようなら殺す。治安局のやつらにもそう伝えろ」
抑揚なく言い捨て、用心深くあたりを見回しながらナイフを下ろし、踵を返す。非情な言葉に、火藍が青ざめ、震える手で口を覆った。茫然自失といった体で、力なくその場に坐り込む。
それを肩越しに振り返り、、開いた窓に手をかけたところでネズミが低く呟いた。聞こえるかどうかの小声で。
「――心配するな。必ず無事返す」
「え…っ」
火藍が驚いた表情で振り返る。舌打ちが漏れた。
「あんたらが下手な真似をしなきゃな、って話だ」
言い捨て、バルコニーへと駈け出し、猫のようなしなやかさで手摺りを飛び越える。ざざっと木の葉が揺すれる音がしたと思えば、ネズミの姿は瞬く間に木々の狭間へと見えなくなっていた。





治安局の車を右往左往させた挙句、最終的にうまく撒ききるまでには、相当な時間を費やした。
IDブレスレットを手離したことで、逃走は幾分楽になるかと思われたが、どうやらVCチップもまったくのおもちゃというわけではないらしい。接近しすぎれば、やはり的確に感知された。
そして、追っ手とのある程度の距離を保ちながらの囮目的の逃走は、予想以上にきつかった。半日にも及ぶ長時間の鬼ごっこは、ネズミから根こそぎ体力を奪っていった。

だが、逃げきるしかない。
シェルターに一人残してきた紫苑のために、何が何でも捕まるわけにはいかなかった。
どうにか治安局の目を欺き、撹乱に成功し、ネズミが紫苑の待つ穴ぐらに戻る頃には、既に月は頭上にあった。




月明かりが差し込むシェルターの中は、壁の白さもせいもあり、仄かに明るかった。ぼろぼろになり、そちこちから血を流しながら、びっこを引きつつ、壁伝いに歩く。
チチ…ッと小さく呼ぶ声が聞こえ、小ネズミがネズミの肩に飛び乗ってきた。ネズミの指が労うようにその頭を撫でる。
ネズミの表情が、初めてふわりと和んだ。尖っていた瞳が細められる。
小ネズミのせいではない。
床に丸くなってすやすやと眠っている、あまりに無防備な姿に。
「……あんたなぁ…」
小ネズミが事の次第を説明するかのように、ネズミの耳元でチチ、チチと鳴き声を上げた。
「人が苦労して駆けずり回ってたっていうのに、小ネズミと遊び疲れてうたた寝って、どうよ」
呆れたように言いながら、眠っている紫苑の傍に片膝をつく。
とはいえ、小ネズミはうまく紫苑を足止めしてくれたようだった。
後を追ってこようとするのではと危惧していたが、意外にも紫苑は小ネズミの言葉を理解したらしかった。
(…あんた。本当に変わってるな…)
くすくすと笑みを漏らし、血の滲む手を伸ばす。そっとやわらかな髪にふれた。
「…ん……ネズミ……」
甘やかな声に呼ばれ、自然とネズミの目許が和らぐ。瞳を細め、ふっ…と笑んだ。
疲労感が瞬く間に薄れていく。消えていく。
固く緊張していた身体がほぐれる。心がほどけていく。




人は、人に救われることがある。
それを紫苑に教えられた。
12年間生きてきて、紫苑だけが教えてくれた。
そして、今また気付かされる。

人はこんな風に、人を癒すこともできるのだ。






(つづく)




夢のように僕たちは(最終話ネタバレ注意)


眼下には、信じ難い光景が広がっていた。
崩れ去った壁。変わり果てた世界。
泣きたくなるような、荒廃した夕焼けの空。

壁の残骸の向こう側でもこちら側でも、未だ小規模の爆発が続いている。
それでも、ひとまず聖都市はこれで完全に沈黙した。
一部のものたちが唱えた理想都市は、ついに崩壊したのだ。

やがてこの地に夕闇が訪れ、夜を迎え、そして、明日。
世界は、生まれ変わった新しい朝を迎えるだろう。


矯正施設の焼け落ちた跡に立ち、ネズミと紫苑は、その光景を見つめていた。
壁のあった場所へと、内側と外側から赴く人々の影が、遠く大地に連なっていくのが見える。
そこで、人々はどんな真実を見、知るだろう。
真実は。
正しくも美しくもない。
ただ、苦いだけだ。苦く、つらいだけだ。
それでも、知らないよりはいい。ずっといい。
紫苑もまた、それを望み、求めてきた。

『ぼくは真実を知りたいんだ。ネズミ…!それがどんなものだろうと』

だけど。真実はあまりにも残酷だった。
予想はしていた。
だが、それを遥かに凌駕した。
自分の甘さ、愚かさを思い知る。
「あんたにこの光景を見せたかったんだろうな。エリウリアスは、沙布は…」
紫苑の心を知るかのように、静かにネズミが言った。
いたわるような、あたたかな声音で。
紫苑が掲げた『壁を無くす』という”第三の道”は、ネズミが理解し導き、沙布が伝え、エリウリアスが実現させた。
果たして、それが今後人々にどういった未来をもたらすのか。
今はまだ、何もわからないけれど。

わかっていることは、たった一つだ。
人は愚かだ。そして弱い。
それを思い知った。
「ネズミ…」
苦しげな声が、傍らのネズミを呼ぶ。声が震えた。
「ぼくを、赦さないでくれ」
「…紫苑?」
「ぼくは、きみに、ひどいことを言った…。すまない。いくらあやまっても、あやまりきれない」


『きみは、利用したのか。そうだ、利用したんだ…! きみの目的は最初から矯正施設の破壊だった! 沙布の救出は口実に過ぎなかった!! きみは沙布を利用したんだ…!!』
現実を受け入れられない苦しさから一時逃れたくて、激情のまま、思いついたままを口にした。
ネズミは一度目を伏せ、そして皮肉げな笑みをはりつかせてこう言った。
『そうだ。その通りだよ紫苑』


耳の奥で、頭の底で、自分がネズミに放った言葉が、まだ木霊のように響いている。戒めのように。
「ぼくは…最低だ」
絞り出すように告げて、項垂れる。
ネズミを傷つけるものは許さない。そう思っていたはずなのに。
誰より紫苑自身が、深く傷つけた。
自分が許せない。血が滲むほど、きつく唇を噛み締める。
「何の話だ? あんたは4年前と同じように、またおれの命を救ってくれた。あやまるようなことがあるか?」
「それだって、ぼくを庇って撃たれたんだ! あんなひどいことを言ったぼくを、きみは庇って…!」
自分の身を盾にして護ってくれた。
紫苑の眦が赤く染まる。こぼれ落ちそうになる涙を、かろうじて堪えた。
「あんたは、事実を言っただけだ。何も違えていない」
「嘘だ…!」
「嘘なもんか」
「嘘だ。ぼくは君をなじった! 自分の手は汚さず、きみにマザーを破壊させたくせに、全部君のせいにした!」
「事実だ。おれのせいだ」
「違う!!」
きつくかぶりを振る。涙が飛び散った。
「紫苑、聞け! おれは」
「ぼくは、自分の掲げた理想がどれだけ甘かったか、どれだけ無知で傲慢だったかを思い知らさせて、打ちのめされていた、だから、だから…!」

『大したジョークだな。最高の夢物語だよ』

自らを嘲笑うような紫苑の言葉を聞いて、ネズミは涙さえ浮かべ目を見瞠った。
それをあんたが言うのか。その顔で、その声で。
あんたがそんなことを言うなんて、おれは信じたくない。
そんな心の声が聞こえた。
自らの甘さに罰を与えるように理想を否定した紫苑に、ネズミは悔しさを滲ませたのだ。
まるで、自分が紫苑にそう言わせてしまったかのように苦しそうな顔をして。

矯正施設への潜入は、互いの利害が一致した結果だったのかもしれない。確かに、それだけだったのかもしれない。真実は、最初はそうだったのかもしれない。
だけどもネズミは、きれいごとだ夢物語だと皮肉って笑いながらも、紫苑の『理想』が現実になる可能性を常に考えてくれていた。
そのためなら、たとえどんな汚れ役だろうと悪役だろうと、茶番を演じようといとわない。たとえ紫苑に恨まれえることになっても。
ネズミには、最初からそれだけの覚悟があった。
紫苑には覚悟が足りなかった。
それが結果的に、大切な人たちを傷つけた。
あの時。紫苑の中にあったのは、きれいな理想には程遠い、醜く渦巻く破壊衝動だけだった。

「壊したかったのは、ぼくだ! なのに、全部! 全部全部なにもかも! きみが悪いみたいに責めて、きみを罵った! きみをなじった、ぼくは最低だ、ぼくは、僕は!」
「紫苑!」
「きみが言ったみたいに、ぼく自身がまさにNO.6そのものだった! 愚かで無知で傲慢で…!!」
「違う! 聞け、紫苑!!」
「違わない!! 沙布じゃなく、いっそ、ぼくがいなくなれば」
「紫苑!!!」
それ以上言わせないというように、ネズミの手が紫苑の頭を強く胸へと抱き寄せる。力強い腕に抱き竦められて、紫苑は途端に、”うわああっ”と大声を上げて泣き崩れた。
背が大きく波打つ。涙が止まらない。
感情が抑えられない。苦しい。
胸が痛い。灼き切れるように胸の奥が熱い。
この苦しさに打ち勝つ覚悟も、受け入れる覚悟も、事実から目を逸らさない覚悟も、できてはいなかった。
だから、だから、こんなことに。
「あぁああ……っ、うわああぁああ……!」
あの嵐の夜と同じだ。自分の中の衝動を抑えきれない。吐き出さなければ飲み込まれる。引き込まれる。
何か、暗い闇の中に。
怖い…!
「紫苑…」
あたたかな声が、耳元でそっと、紫苑の名を呼んだ。紫苑がはっとなる。
「…っ」
墜ちていこうとする闇の中に手を伸ばして、紫苑を抱き寄せ、引き上げてくれる。
暗闇から護ってくれる、やさしい腕。
ネズミの手が泣きじゃくる背を撫で、髪を撫でる。
涙にぐっしょり濡れた白い頬を、赤い痣を、いとおしそうに掌で包んだ。
「泣くな、紫苑」
「ネズミ…っ」
「泣くな…泣かなくていい。あんたは何ひとつ悪いことなんてない。自分を責めなくていい」
「だめだ、ネズミ…」
腕の中で、ネズミを見上げる。懇願のように言った。
「ぼくを、甘やかさないでくれ、ネズミ。甘やかしちゃ駄目だ…」
「ったく、あんたは。言ってることとやってることが、まるで真逆だ」
言いながらも、ネズミの背にぎゅっと強くしがみついてくる紫苑に、ネズミが思わず苦笑を漏らした。
何がおかしいのかと、ぽろぽろと涙をこぼしながら、紫苑が不思議そうな顔をする。
無意識だとしたら、それはそれで願ってもないが。
これだから。あんたにはかなわないんだ。
胸でネズミがこそりと呟き、また笑みを漏らす。
「いろいろなことが一度にあって、あんたは少し疲れてるんだ。大丈夫、もう壁はなくなった。早くママのところに戻って、思いきり胸に抱きしめてもらうといい」
揶揄を含んだネズミの台詞に、紫苑が少し不服そうに上目使いになった。
「違う、ぼくは…」
ぼくが抱きしめてほしいのは、母さんの胸じゃない。甘えたいのも、母さんにじゃない。
誰の慰めもいらない。誰もいらない。
きみ以外の誰も欲しくない。
そう言いたいのに、まだ感情の波が落ち着かず、うまく言葉にならない。できない。
「ぼくは……ネズミ、きみじゃ、なきゃ、いやだ……っ」
駄々をこねる子供のような涙声に、泣き顔に、ネズミがいよいよ呆れたように笑い出す。
「よしよし、泣くな」
言いながら、ぽんぽんとあやすように背を叩き、前髪を上げさせて額にキスする。
「あんたはいい子だ。ほら、もう泣くな」
「ひどいな、そんななぐさめ方じゃ……よけい涙がとまらなくなる」
「ぜいたくだな」
「うん、ぜいたくだ」
言って、ネズミの胸に濡れた頬をきつく寄せた。心臓の音を確かめるかのように、目を閉じる。
このまま、ネズミの胸に顔を埋めたまま、泣いて眠ってしまいたかった。
涙はもう、この胸でしか落とせない。この腕の中にしか、本当の安息はない。
くるしくなるほどの、想いも。

だのに。
二人の道は、違えようとしている。
今、それを感じている。

「…ぼくは沙布を失って。今また、きみさえも失うのか」
ぼんやりと紫苑が、ネズミの胸で呟いた。
「いや。あんたはおれを失ったりしない。たとえこの先、何があっても」
「ネズミ…?」
紫苑が顔を上げて、ネズミを見る。
「この世界のどこにいても、魂は、いつもあんたの傍らに在る。おれはいつだって、あんたのものだ。出会ってから再会するまでの4年。あんたのことを考えなかった日は一日もなかった。これからも、そうだ」
「ぼくも。この4年、いつも、片時も、きみのことを考えなかったことはなかった。きっと今も、別れた瞬間から、きみに会いたくて、焦がれ続ける」
「…紫苑」
「きみがそばにいない日々なんて、もう考えられない」
見つめてくる赤い星のような瞳に、濃灰色の瞳が静かに伏せられる。
愛の告白のように、紫苑は言った。
「ずっと一緒にいたい」
「それはだめだ」
「どうして…!」
懸命に言い募る紫苑に、ネズミは瞳を開けると、肩を竦めて笑ってみせた。
「あんたが、おれに骨抜きにされてしまう」
「……えっ?」
唐突な語句に、紫苑の瞳が丸くなる。思わず声が裏返った。
「そ、それどういう意味…」
「困るだろう、あんたも」
ずいっと接近されて、紫苑がなぜか、ぎょっとなる。焦ってしまう。
「べ、べつに困らないけど、ぼくは、えっと…!」
「おれは困る。これ以上あんたに惚れられては、イヴのファンの女と気軽に寝られなくなる。あんた、妬くとおっかなそうだからな」
「ば…」
紫苑の顔が、ぱあっと耳まで真っ赤になった。
反論しようにも何と言ったらいいのかわからない。口をぱくぱくさせる紫苑に、ネズミがおかしそうに声を上げて笑い出した。
「ネズミ…! 笑い過ぎだ。こんな時にからかうなんてひどいじゃないか…!」
「あぁ、悪い」
むくれる紫苑の顔が可愛いくて、ますます笑いが止まらなくなる。
そんな二人の横顔を、沈んでいく夕日が赤く照らし出した。
今日、最後のかがやき。
長かった一日が、ついに終わる。
明日からは、太陽の光も、きっと違って見えるのだろう。
NO.6にも西ブロックにも、同じ朝が訪れるのだ。
「あんたには、NO.6だった場所に戻ってやるべきことがある。おれはおれで、やるべきことがある。おれたちは所詮、同じようには生きられない」
山々の向こうに沈んでいく夕日を見つめ、静かにネズミが言った。
「壁は無くなったのに?」
「壁の内と外では、人も生き方もモラルも違う。そんなにすぐにうまく行く筈はない。しばらくは混乱と混沌が続くだろう。その調整役には、あんたのように両方の世界を知ったものが適任だ。あんたもそれを望んでるんだろう?」
確かにそうだ。そう願っていた。
ネズミの言葉に、紫苑が頷く。
「きみは、西ブロックに戻るのか?」
「おれは森の民だ。風に誘われるまま、自由に生きるさ」
紫苑の問いに、さらりとネズミが答えた。
これもまた、偽りのない答え。
「あんたは、誇りを持って、自分の仕事に専念すればいい」
「ネズミ…」
「その頬に、風がそよぐ日も凪ぐ日もあるだろう」
「もしも嵐がきたら?」
「そうだな。そんな夜は、窓を開けておくといい」
「風が、ぼくのもとに吹き込んでくるように?」
ああと肯き、ネズミが微笑む。

そうして、別離の時は訪れた。

ネズミが紫苑の傍らから、ゆっくりと立ち去る。
幕が下りた後の舞台から去るように、風のように優雅な足取りで。
ネズミのぬくもりが離れた途端、夕闇の寒さが紫苑の痩せた体を冷やした。
「ネズミ…!」
堪らず振り返り、耐え切れずに呼んだ。ネズミが振り返る。
だけど、もう何も言えない。
これ以上。引きとめる言葉もない。
どうしていいか、わからない。
別れのつらさに、ただただこぼれおちる涙をこらえようと、紫苑がきつく目を閉じ、唇を噛みしめる。
泣き顔は見せたくないと思った。
だけども、笑えるほど強くもない。
かなしみにじっと耐えて震える細い顎に、ふいに力強い指が掛けられた。
はっと瞳を見開くなり、赤い双眸に、濃灰色のやさしい瞳が映り込む。

「……っ」

口づけは、一瞬だった。
誓いのように、たった一度。
だけども、紫苑にぬくもりを与え、勇気づけるには充分だった。

言葉ではどうにも足りないと、ネズミの瞳が見つめてくる。
初めて見る、ネズミの包み込むようなやさしい瞳。
寒さに凍える紫苑の胸に、あたたかな火が灯るようだった。



「あんたなら、大丈夫だ。必ず、成し遂げられる」
「もし成し遂げたら。そのときは、きみと行くことを赦してくれるか」
「わかった。必ず迎えに来よう」
「約束だ。絶対に」
「ああ。おれは、一度交わした約束を違えたりしない」



―――再会を、必ず―――


それは、二人の、未来に繋がる、まさしく誓いの言葉だった。

















「夢のように僕たちは」


夢のように僕たちは
生きてきて ここへ来た
時間も涙も苦しみも みんな
遠く霞がかかった辺りに
おいてきた



歩いてきたのに
まだ歩くみたいだ
きっとずっと同じかもしれない

同じかもしれないね



時間なんかおいてこれるはずないじゃないか
涙だって
苦しみなんかもっとさ



夢のように僕たちは悲しくて
夢のように僕たちはうちふるえて
夢のように僕たちはひとりぼっちです



(詩:銀色夏生)


はじまりの朝と、さよならの月夜(2)

気付かれたかもしれない。手遅れかもしれない。だが、どちらにせよ躊躇している余裕はなかった。
ともかく治安局員に気付かれないうちに(気付かれていないとするのならば)、森の中に身を隠してしまわねばならない。
「急げ…!」
「ちょ、ちょっと待ってネズミ」
力まかせに腕を引っ張られ、足元の濡れた落ち葉に足をとられ、紫苑の上体がつんのめる。
「うわっ」
手を差し出す暇もなく、ネズミの背後で紫苑がべしゃりと顔面から落下した。
「何やってんだ、あんた」
「きみが引っ張るからじゃないか!」
「あんたがもたもたしてるからだろ!」
怒鳴り返され、紫苑が憮然としながらも顔の泥を拭い、立ち上がる。膝が伸びるなり、途端に顔を顰めた。
「…っ」
「どうした、怪我したのか」
「いや。膝を擦り剥いただけだ、大丈夫」
「血が出てるぞ」
白い両の膝小僧から流れる血を見て、ネズミがやや心配げに言う。紫苑はむすっと頭を振った。
ゆうべのネズミの怪我に比べれば、まったく心配されるような傷じゃない。それなのに、痛みについ顔を顰めてしまった自分が何だか情けなく思えたのだ。
「平気だってば。それより行こう、ネズミ」
軽くびっこを引きながら、先に立って歩き出す紫苑の背に、ネズミが溜息を一つつき、肩を竦める。ゆうべも思ったが、顔に似合わず案外気が強い。
そして、一度振り返り、治安局の車が向かった先が紫苑の邸だったことを確認する。
まずい。このままでは、すぐにこの森にも捜索の手が伸びるだろう。
ネズミは、足早に紫苑を追い越すと、その前へと回り、背を向けて腰を屈めた。紫苑が驚いたように立ち止まる。
「掴まれ」
「え?」
「ほら。おれの肩に掴まれって言ってるんだ」
「きみにおぶされって言うのか」
「ああ、そうだ」
「ぼくは大丈夫だって言ったじゃないか」
「あんたがそんな風にのたのたしてたら、あっというまに捕まるだろうが」
「で、でも」
ネズミの背を見下ろし、たじたじと後退しそうになる紫苑に、やや苛立ちながらネズミが声を荒げる。
「のろま! さっさとしろよ!」
「だって、きみの方が背が小さ…、うわあっ!」
紫苑の言葉の終わりを待たず、ネズミが紫苑の両腕を強引に引き、自分の肩へと担ぎ上げる。投げ飛ばされそうな勢いに、紫苑の腕が反射的にネズミの首へと回された。無意識に思いっきりしがみついてしまい、紫苑の頬が自然と赤らむ。
「それでいい」
「ネズミ…っ」
「走るぞ! ともかくあんたはそこでじっとしてろ!」
言うが早いか紫苑の両腿を身体の横で抱え直して、ネズミが猛スピードでなだらかな丘を駆け出した。
リュックを背負っている上、手に靴まで持った紫苑を小さな背に担ぐのは、どう考えても困難のように思えたが、ネズミは軽々と紫苑を抱え、一気に斜面を駆け上っていく。ふらつきもしない。
「ネズミ! きみ、怪我してるのに、こんなこと、して、また傷が開いた、ら、どうす……っ」
「うるさい、だまってろ! 舌かむぞ」
「……もう噛んだよ」
「は!?」
「…今、噛んだ」
答えてきた情けない声に、ネズミが一瞬ぽかんとし、それから走りながら肩を震わせてくくっと笑う。
まったくもって、笑っている場合ではないのだが。
こんな時にでも発揮される、紫苑の天然っぷりがおかしかったのだ。
そうして走っているうち、もともと自身が計画した逃走ルートから大きく外れていることに気付いたが、それでも、どうしてだか逃げのびられる、そんな気がしていた。
紫苑となら、このままどこまでも行ける気がしたのだ。二人なら。
それこそ、この青い空の果てまで駆け上がって行けそうな――。
が、無論それは妄想で、現実的にはかなり危機的状況であることは確かだった。
このまま丘を上りつめても勝算はない。
それどころか、目指す地下水路の入り口まで、気の遠くなるような遠回りをしなければならなかった。
「ネズミ、ネズミ」
ネズミの耳元で、紫苑が呼ぶ。
「何だ」
「丘のてっぺんの方に、丸い形のこんもりした茂みが見えるか。ほら、あれ。アオウミガメの甲羅みたいなカタチ」
「アオウミガメの甲羅がどんなかおれは知らないが、あれがどうした?」
「あそこに向かって走ってくれ」
「は?」
「いいから!早く!」
耳元で声高に命じられ、ネズミがむっとなる。
「ヒトにおぶさられてる割には態度でかいな。あんた」
「いいから急いで。あっちだ!」
言われるままに大きな丸い茂みに辿りつき、こっちだと指差す方向へと向きを返る。確かに大ウミガメの甲羅のような形をしている。
「山側の方に、子供がやっと通れるくらいの抜け道があるんだ」
「妖精が通る道か?」
「さあ、それはどうか知らないけど」
「で?」
「この奥だ。あ、ここで降ろして」
「おい、こら」
しゃがんだネズミの頭の上をぴょんと飛び越え、紫苑が素早く身を小さく屈めて茂みの奥へと分け入っていく。何が何だかさっぱりわからないが、ネズミも仕方なく後に続いた。
「あった…!」
かなり奥に入った辺りで、紫苑が嬉しそうな声を上げた。手招きされて近づけば、足元に丸いマンホールのような蓋が見える。
「なんだ、これ」
「ちきゅうのふた!」
「は、蓋?」
「って、ぼくは呼んでるんだけど」
「開くのか?」
「前やってみた時は開かなかった。…う、やっぱり固いな」
「どけ、おれがやる」
紫苑に代わって、ネズミが蓋にある二箇所の錆びた取っ手に指をかける。息を吐き、思いきり引き上げた。
「うわー開いた!!」
持ち上がった蓋を見て、紫苑がすごいすごいと手を叩き、歓声を上げる。ネズミは蓋を横にやり、注意深く中を覗き込んだ。
まるで地中深く埋め込まれた煙突のようだ。だが、遥か下方に微かに光が見える。
いぶかしむネズミを置いて、意気揚揚と紫苑が穴へと滑り込んだ。内側にある梯子にそろっと足を下ろす。どうやら崩れ落ちはしなさそうだ。
「中に入るぞ。ぼくが先に行く」
「ちょっと待て、大丈夫なのか。此処はいったい」
「うん、たぶん大丈夫。入るのは初めてだけど」
「中に何が…おい紫苑。リュックが引っかかる。おれに寄越せ」
「ありがとう」
紫苑の手からリュックを受け取り、上から注意深く下を見ながら、ゆっくりと、人一人がやっと通れるくらいの直径の、特殊コンクリートの筒状の穴の中を、今にも折れそうな鉄梯子を伝い降りていく。人の気配はない。
「ここさ、沙布のおばあさまから、ずっと前に聞いて」
「さふ?」
「あ、友達なんだ。幼馴染みの女の子。その子のおばあさまが、このあたりの地下には旧式のシェルターが埋まっていて子供の頃よく遊び場にしてた、って言ってたんだ」
「シェルターだって?」
「うん。ぼくも聞いた時はもっと小さかったから、よくわからなかったけど。おばあさま、今はおっとりした雰囲気の人なんだけど、大昔はおてんばだったんだって」
「へえ」
そんなばあさんのことなど知るかと思いながら、やっと深い地下に降り立てば、穴は今度は真横へと続いていた。
二人で顔を見合わせ、今度は四つん這いで横穴に入る。ほどなくして、大人が立てるくらいのドーム型の部屋に出た。案外広い。
部屋の奥には古い扉があった。錆びたそれを開けば、コンクリートで作られた棚があるだけだ。どうやら貯蔵庫に使っていたらしい。
壁に埋め込まれた操作パネルは、旧式過ぎて紫苑たちにはさっぱり理解できそうにない。
もっとも、仮にどんな高性能な設備が整っていようが守りが頑丈だろうが、一切無駄ごとのように思われた。
見上げれば、その天井には、ぽっかりと丸い穴が空いていたのだ。
長く時間が経つ間に、自然と崩れてきたのだろう。
だが、光が差し込む分、明かり取りにはちょうど良かった。
もっとも雨が降れば、中で傘をささなければならないけれど。(水はけは良好のようだ)
「すごい、おばあさまの言ったことは本当だったんだ」
「しかし、よく正確に場所まで覚えていたな」
「うん。おばあさまの記憶力はすごいんだ」
「じゃなくて、あんただよ。子供のころに聞いたきりだったんだろ。ましてや、今、どうなっているかわからない」
「うん。でも実は、前に一度この茂みまでは来たことがあったんだ。でも、どうしてもあの蓋が開けられなかったからあきらめて。そのまま、ついさっきまで忘れてた」
「それが、おれなら開けられたわけだ」
「うん?」
「あんたの力じゃ、さっきも開かなかった。けど、おれの方がチビだって言ったくせに、おれの方があんたより腕力があったってことだろ」
「…こだわるなぁ」
リュックを床に置いて、紫苑が壁にもたれて腰を下ろす。ともかく、ちょっと一息つきたい気分だった。
隣ではネズミが、紫苑が持ってきた靴に足を入れているところだった。にやりとする。
「あんたみたいななまっちろいガキに、チビとか言われたくないからな。言っとくが、今にあんたの背を抜くぜ。ほら、見ろよ。おれの方が足がでかい」
「うそ、本当に!?」
確かに紫苑の靴は、ネズミには窮屈なようだった。紫苑がぷいっとそっぽを向く。
「足が大きいからって背が伸びるとは限らないだろ」
「けど、統計的にはそうだ。ま、せっかくだから有難くもらっとくけどな。ちょっと窮屈だが我慢してやる」
「本当に、きみは感心するほど口が悪いな、ネズミ」
「それはどうも。けど、あんたもそんなに人のことは言えないぜ?」
「え、そうかな? はじめて言われたけど」
その言葉を肩を竦めてやりすごし、ネズミが膝を伸ばして坐っている紫苑の前に回る。リュックを指差した。
「救急ケースは持ってきたのか?」
「ん? あるよ。ほら」
引き寄せたリュックの中から、見覚えのある白いケースが登場する。ネズミが、そこから消毒液と綿とガーゼを取り出した。何も言わず、紫苑の膝の傷の手当てをはじめる。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。しかし、用意周到だな、これ」
「だって。またきみが怪我をしたら困るだろ」
「それはありがとう。っていうか…あんた、おれが怪我をするのを期待して追いかけてきたんじゃないのか」
「へ? まさか」
「そうかな。ゆうべ血管縫合してた時、あんた、相当顔がにやついてたぜ?」
「ま、まさか、そんなことないよ。必死だったんだからな。そりゃあ、ちょっとは興奮したけど…!」
弁解しながら、紫苑の顔がかあっと真っ赤になる。くすりとネズミが笑いを漏らした。
「ちょっとでも充分だ」
そら終わったぞと、ケースを紫苑の手に返す。驚くほど手際がよかった。
「ところで、これからどうする。VCチップが、まだきみの体内にあるんだろ?」
「取り出す手術をしてやるとか、恐ろしい発想はなしにしてくれよ」
「さすかにそこまでは」
「それは助かるな。もっともあんたに手術してもらわなくても問題ない。今は作動していない。本来、犯罪者を識別するためのものでしかないからな。探索システムを使ったところで、正確な追跡は不可能だ。もし確実に追跡できるなら、おれの潜伏場所を特定するのに一晩もかかったりしない。あんたの邸に忍びこんで一時間もしない上に、治安局がどかどか邸に押し行っている筈だ」
「なるほど」
「想定外のことには弱いのさ。この聖都市は」
そして、物事の表面。きれいなところだけしか見ようとしない。目に見えないところにある汚れは、最初から視界に入れず見ようともせず、なかったものとして処理される。それがNO.6の正体だ。
もっともそのおかげで、地下の下水道や廃棄ルートやこの旧式シェルターなどが充分に活用できるわけだけれど。
「だから問題は、おれのVCチップじゃなくて…」
ネズミが、そこでいったん言葉を切った。
濃灰色の瞳が一瞬だけ鋭くなり、紫苑の腕のブレスレットを見遣った。
NO.6の市民登録番号が刻まれたブレスレット。これだけは、市により徹底管理がされている。
つまり紫苑といる限り、ネズミの居場所も治安局に筒抜けというわけなのだ。ほどなくして、此処も発見されるだろう。
ネズミに要求されるニ者択一は、以下だ。
紫苑を此処に置き去り、一人で逃げる。
もしくは、そのブレスレットを捨てさせ、紫苑とともに逃げる。
選ぶべきは、当然前者の方だった。
迷わずそうするべきだと、ネズミ自身が一番よく知っている。
連れていったところで、紫苑の身を危険に晒すだけだ。今なら間に合う。
このまま放置していっても、治安局が安全に保護するだろう。今の状況では、紫苑は犯罪者に連れ回されたただの被害者だ。(紫苑が余計なことを喋らなければ、という注釈はつくが)
――だが。
身体の横で、ぎゅっと拳を握る。
相反する心の声も、ネズミには聞こえていた。

ずっとじゃないことは、わかっている。
西ブロックにつれていけないことも知っている。
だが、一度別れたら二度と会えないかもしれない。
だったら、せめて、あと少しだけ。

だが、その少しが命取りになる。それも良く熟知していた。
ましてや市民権を放棄させることは、それこそ紫苑の未来をこの手で潰してしまうことになる。一度捨てれば、紫苑は二度とNO.6の市民権を得られない。
唇をきつく噛み締める。考えている時間はない。
(―だめだ。やっぱりここで別れるしかない)
苦悩するネズミがやっと意を決し、顔を上げた瞬間、紫苑が立ち上がり、にっこりと微笑んだ。
ネズミの目前で、静かに腕からブレスレットが外される。
濃灰色の瞳が驚愕に見開かれた。
「待て、やめろ! 何、やってんだ、あんた…!!」
止めようとするネズミの手を制して、紫苑が首を横に振る。か細い悲鳴のようなエラー音とともに、ロックが解除された。
「ぼくたちが生き延びるためだろ、ネズミ。だったら、代えられるものなんかない」
微笑さえ浮かべてきっぱりと言う紫苑に、差し出されたブレスレットをネズミが震える手で受け取る。
「馬鹿だ、あんた…! 何もかも、今日までの何もかもを失うことになるんだぞ…!」
「覚悟してきたつもりだけど」
「二度とママのところに戻れないかもしれない」
「それは…母さんに申し訳ないと思うけど。でも」
「…でも?」
惑う眼差しの前で、紫苑がまっすぐにネズミの瞳を見つめ返して、凛として告げた。

「きみといたい」

「…紫苑」
「うまくいえないけど、今は、それだけだ」
告白に微笑む紫苑とは裏腹に、やや苦しげに、絞りだすようにネズミが言う。
「きっと後で後悔する」
「後から悔やむから後悔っていうんだろ。でも、今はずさなかったら、きっともっと後悔する。なんであの時、あんなものにしがみついてたんだろうって」
「…あんた。見た目と違って、意外に肝が据わってるな」
「そう? そうかな」

あんなもの、か。
NO.6の住人でありながら、そう言いきれるあんたの強さは何なんだ。

胸中で呟き、くすりと笑む。
天井から入ってくる風が、肩まで伸びたネズミの髪をふわりと揺らした。
「わかった。あんたの悪いようにはしない」
決意のように紫苑の瞳を覗いて、静かな声音でネズミが言う。瞳から惑いは消えていた。
「うまくやるさ」
「ネズミ?」
「ここで一人で待てるか?」
不敵な笑みを浮かべた唇で告げ、ネズミが踵を返す。
「どこに行くんだ。僕も…!」
「いや、あんたはここで待て」
きっぱりと言われ、その顔に決意めいたものを見て、紫苑が思わず両手でネズミの腕を掴んだ。
「一人で危険に飛び込む気なのか! だめだ、そんなこと!」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない、一人じゃだめだ!」
「必ず帰ってくる」
「ネズミ…」
不安に揺れる瞳を諭すように見つめて、ネズミの手がそっと紫苑の肩にかけられる。見つめてくる濃灰色の瞳は、初めて見るほど静かな深い色をしていた。
一瞬波立った紫苑の心が、ゆっくりと、やさしくなだめられていく。
「大丈夫だ。必ず、あんたのところに帰ってくる」
ネズミのきれいな指がそっと紫苑の髪を撫で、その身体を腕の中に包むように抱き寄せる。
ほんの少し踵を上げると、紫苑の額に誓いのようにキスをした。
「約束する」
紫苑が目を閉じ、はにかむように微笑んだ。頬が桃色に微かに色づく。ゆっくりと瞳を開いた。
「わかった。きみを信じる」
「ああ」
「けど、無茶はしないでくれ」
「わかってる。ま、あんたほどの無茶なやつなんて、そうそういないけどな」
「ネズミ…!」
「夜には戻る」
そう言い残すと、もう一度紫苑の腕を引いて頬に口づけ、素早く背を向けた。紅潮している横顔を紫苑に気付かれたくなかったのだろう。
再び地中に埋まった煙突をよじ昇り、地上へとひらりと踊り出る。
見れば、予想通り、治安局の局員たちは丘を登り始めているところだった。
その視界に入るように、ネズミが猛然と走り出す。
追っ手を撹乱するためには、少なくともこのあと半日、ネズミは走り回らねばならなかった。
だが、紫苑がいる。
それだけで、地球の一周でも全力疾走できそうなほど、ネズミの全身は躍動し、心は躍っていたのだった。



(つづく)





はじまりの朝と、さよならの月夜 (1)

嵐の後の空は、抜けるような青空だった。台風の過ぎ去った空の色。
陽の入る窓、カーテンの隙間から覗くその青さを、たぶん一生忘れないだろう。
思いながら、ネズミは紫苑のベッドをそろりと降りた。起こさないようにと細心の注意を払いながら。
そうして、おそるおそる振り返れば、ベッドの上では両手両足を存分に伸ばして、紫苑が軽い寝息をたてていた。
思わず、笑いがこみあげる。
(リラックスしすぎだろう。まったく、あんたには緊張感ってもんがないのか)
VCを匿った上、そんな『犯罪者』の隣でここまで安眠を貪れるとは。
こいつ、天然な上に、かなりの大物だな。
感心したように胸で呟き、ネズミが腕を組んであきれたように紫苑を見下ろす。
…いや、違う。馬鹿なんだ。きっとそうだ。
でなけりゃ怪我をしたVCを、それと知って庇ったりしない。
正常な思考回路の持ち主なら、そんな面倒事に巻き込まれるのはまず御免だろう。
それに、回避するチャンスもあった。
食事を取りに行った時に、母親を通じて治安局に連絡を取る時間はあった筈だ。
ネズミ自身も、その危険性は充分考慮していた。いつでも窓から再び飛び出せる、心の準備はあったのだ。
が、どうしてだか紫苑はそうしなかった。
逆に、空腹のネズミに、チェリーケーキとシチューを運んできてくれた。
この世に不幸なんてものは存在しないと信じている、クロノス育ちのおぼっちゃん。
血反吐を吐くほどの苦しみも、胸を突き破り、骨が軋むほどの悲しみも知らない。
そして、たぶん、これからも。
(…だが。あんたはそれでいい)
心で呟いて、そこを離れる。
そんなものとは無縁でいい。
苦しみにも悲しみにも、耐え難い痛みにも打ちのめされることなく、穏やかな日々を過ごしていってほしい。
その天然のまま、笑っていてほしい。どんなときも。
思い、口元に微苦笑を浮かべる。
(らしくない)
他人にそんな感情を抱くのは、初めてのことだ。
他人に抱く甘さは命とりだと、ネズミを育てた婆はいつもそう言っていた。
生き延びたければ、他人をあてにしてはしけない。信じてはいけない。弱みを見せてはいけない。決して。
そして、その言葉はいつの時も正しかった。だから、守った。守らねばならなかった。
だのに、ずっとかたくなに守ってきたその戒めが、ここにきて崩れた。
他人を信じ、弱みを見せた。
たとえば食事に睡眠薬が混入してある可能性もあったのに、ネズミは毒味もせず、あっさりを全てたいらげてしまったのだ。
その上、部屋の住人を放ったらかして、とっとと先に寝入ってしまった。
何たる警戒心の無さ。自分で呆れる。
かなりどうかしていた。今までのネズミなら、まず在り得ない。
(だがそれも。ここまでだ)
ネズミの表情がにわかに厳しくなる。
室内のセキュリティは、昨夜のままオフになっている。それを確認した上で、ネズミは静かに窓を開いた。
昨夜紫苑が叫んでいたバルコニーへと駆け出し、ひらりと手すりを越えて飛び降りる。そのまま邸を囲む森の中へと、素早く身を翻した。一気に駆ける。
ここから先は、また命がけの逃走だ。
生きるための戦いが開始された。
自然と口元が引き締まる。
この森を抜けて、地下水路の入り口まで逃げ込めば、当初の予定通り活路は開ける。
もっとも水路はすべてNO.6の地下で繋がっているわけではないから、西ブロックに向かう道中で何箇所かは地上に出るしかない。
逃走経路を頭で計算しながら、注意深くネズミが辺りの様子を伺う。はっと緊張が走った。
丘の下に治安局の車が数台見えた。こちらに近づいている。
まだ早朝だというのに出勤とは。ご苦労なことだ。
ネズミが、奥歯をぎりっと噛み締める。
生きてやる。生き抜いてやる。
何としても、このNO.6から生きて脱出する。
あんなやつらの好きにされてたまるか。
(生きて、おれは必ずこのNO.6に報復する…!)
濃灰色の双眸が空を見上げる。
絶望していたのが嘘のようだ。不思議なほど身体中に力が漲っている。傷の痛みももうほとんど感じない。
一夜の安息と、食事と、手厚い介抱。
それがネズミを生き返らせた。
太陽さえ、昨日までとは違って見える。
地上に連れ出され、久しぶりに浴びた陽の光はじりじりと肌を刺し、目を射抜くように凶々しく思えたのに。
今、森の中を疾走するネズミの肩に降り注ぐ光は、眩しくて、あたたかい。
あいつ、みたいに。


忘れない。
あんたの手のぬくもり。
ずっとおぼえてる。
一緒に笑ったことも。
ずっと。この先。
一生忘れない。


誓いのように、走りながら胸に手を置く。
だが、後悔もある。
災厄を自ら呼びこんだあんたは、今後何らかの代償を負うことになるだろう。失うものもあるかもしれない。
せめて、それが最小限で済むように。
一刻も早く、此処を去らねば。
VCを匿った者に、治安局はどんな処罰を与えるだろうか。いくら何でも、クロノスの住人をいきなり強制連行はしないだろうが。
生活水準の格下げは、余儀なくされるかもしれない。エリートコースから外れることにもなるだろう。
おれが、自分が生きるためにしたことが、あんたの一生をメチャクチャにしてしまったかもしれない。
考えて、ネズミの表情が曇る。
詫びてすむことじゃないが。
(…ごめんな…)
脅されたから仕方がなかったとか、殺されるんじゃないかと怖くて家族にも言えなかったとか。
どうか、うまく言い逃れてくれ。
ああでも、あんた馬鹿だからな。
馬鹿正直に言っちまいそうでヤバい。
けがをしてたから。同じ年頃の子供だったから。あとは、理由は自分でもよくわかりません、とか。
そんな間抜けな答えをしちまいそうだ。
嘘がつけない純粋培養ぼっちゃん。天然で、お人良し。
だけど。
どうか無事でいてくれ。

(……紫苑)

と、ネズミが心でその名を呟いた瞬間。
まるで答えるように、不意に誰かに呼ばれたような気がした。
はっと立ち止まり、表情を険しくして辺りを伺う。ネズミの五感が、接近してくる気配を察知した。
クロノス区画内の森はよく手入れされていて、無駄に生い茂ったりしていない。追跡してくるものがあれば、かなり遠くのものでもネズミなら肉眼で発見できる。
だが、違う。
治安局の者が近づいてきたのなら、全身の体毛が逆立つほどの嫌悪で気付く。高性能のレーダーより正確だ。
(違う。これは)
とりあえずは敵のものじゃない。物々しさも殺気も感じない。
だが、だったら、いったい。
クロノスの住人が、まさかこんな早朝に森の中をピクニックか? まさか。
考えて、さらに警戒を強める。ナイフの刃のように濃灰色の双眸が鋭くなった。

「………は?」

その瞳が一瞬にして丸くなった。

まさか。
うそだろ?

ネズミが呆気に取られたように近づいてきた人影を見る。かなり間の抜けた顔になっていたに違いない。
「おーい…」
森の中をよたよたと駆けてくる小さな影が、呑気にネズミに向かって笑顔で手を振っていた。
逆光とはいえ、誰だかすぐに思い当たった。
が、待て。
なぜ、此処にいる?
「おーい、ネズミー」
はあはあと息をきらしながら、ネズミの前で息を整える少年を、ネズミは未だぽかんとした顔で見つめていた。
「あーよかった間にあった」
「…はあ?」
「きみ、足早いな。ぜんぜん追い付かなくて、どうしようかと思った」
「……」
追い付かなくて? 
つまり、追って来た、と?
「あ、これ」
「これ?」
「くつ。履いてなかっただろ。ぼくのだけど、サイズ同じくらいかと思って」
「あ、あぁ?」
目の前ににゅっと差し出されたスニーカーに、ますますネズミが呆然となる。
くつ? 持ってきた?
何のために。
「あと、抗生剤。やっぱり飲んでおいた方がいいよ。傷にさわるから。はい、飲んで」
「…おい」
「熱はもうなさそうだな。あ、そうか。薬飲むのに水がいるね。ちょっと待って」
ネズミの額にこつんと自分の額を当てて熱を計り、一人納得して紫苑が背中に背負っていたリュックを降ろした。中から水筒を取り出す。
というか、なぜリュックを背負っている?
「いや、待ってじゃなくて。あんたな…!」
さすがに呆然としている場合ではないと気付いて、ネズミが、コップに水を注ごうとしている紫苑の手を掴んだ。
「じゃなくて! なんで追っかけてきたんだ、あんた!!」
「なんでって?」
「自分が何してるかわかってんのか!?」
「えっ?」
きょとんとなる瞳に、苛立つようにネズミが声を荒げる。両手で細い肩を掴み、揺さぶる。
「え、じゃないだろう!わかってんのか、VCを匿っただけでもあんた充分やばいって、ゆうべもそう言っただろう!? なのに、こんな」
「だって、逃げるのにせめて靴はいるだろう?」
当たり前のように言われて、ネズミが思わず頭を抱えた。
「…ぁああああ!! なんであんたは、こんな時まで天然なんだ! いったいどこまで馬鹿…」
そこまで言って、はっとなる。冷たい汗がネズミの背を伝った。
治安局の車だ。すぐそこまで接近している。
そうだ、近づいてきていたのだ。すっかり忘れていた。
「…チッ」
舌打ちと同時に、ネズミは反射的に身を翻していた。ほとんど無意識に紫苑の腕を引っ張る。
「ネズミ…!?」
「っ、ちっくしょう…! ともかく、あんたも来いっ!!」
リュックを背負ったこの格好で、紫苑を森の中に放置していけば間違いなく怪しまれる。
かと言って、連れて逃げるのも間違いなく怪しげな状況ではあったけれど、この場合致し方なかった。
ネズミの思考回路は、突然現れた紫苑によって完全に混乱していたのだ。
耳元で怒鳴られた紫苑は、なぜかやけに嬉しそうに笑んで、うん!と力強く肯いた。
笑ってる場合か、まったく。あんたどこまでも大物だな。
いや、違う。だから馬鹿なんだって。救いようがない天然。
それより現状をどうする。いや。どうするも何も。
過去に、こんな馬鹿げた危機的状況には遭遇したことがない。
内心で静かにパニックを起こしながらも、それを隠すように、乱暴に紫苑の細い腕を引っ張り、勢いよく丘を駆け上る。
そうして、地下水路とはまったく逆の方向に走っていることにネズミが気がついたのは、それからしばらく経ってからのことだった。


(つづく)



tag:NO.6

眠りにつく前に

「王妃は彼に、おまえは自分が誰にものを言っているか忘れてしまったのかいと尋ねた。ハムレットはこう返した。『ああ!忘れることができればどんなにいいことか! あなたは王妃です。そして、あなたの夫の弟の妻です。そして、私の母上です。そうでなければよかったのに』。それを聞くと王妃は、『そうかい。もしそんなに私を馬鹿にするんなら、ちゃんとおまえと話せる人をここに呼んでこよう』と言い、王がポローニアスを呼んでこようとした」
 そこまで読んで、開いたままの本を胸の上にそっと置く。紫苑は欠伸を噛み殺した。
 そして、眠そうに目をこすって、横たわった肩のあたりに留まる小ネズミに懇願する。
「…続きは明日。そろそろ寝かせてくれよ、ハムレット」
 白い小ネズミはチチッと鳴いて、微かに首を横に振ったようだった。紫苑が、溜息をついて苦笑を浮かべる。
「ええっ、まだ読むのか。さすがに、もう勘弁。続きは明日必ず読んでやるから。な?」
 なだめるように葡萄色の小さな目の間を指先で撫でられ、ハムレットと呼ばれた小ネズミは、チチッと鳴いて本棚の上へと退いた。
 どうやら聞き分けてくれたらしい。紫苑は微笑を浮かべると、ベッドの上ではあ…と一つ息を漏らし、目を閉じた。
 今日は一日、イヌカシの所で犬洗いの仕事をした。おかげで、くたくただ。もっとも、心地よい疲労感ではあったけれど。
「それで?」
「ん?」
 すぐ隣から発せられた声に、紫苑が薄目を開く。紫苑の好きな美しく甘いテノール。
「あんた。いつまでここにいる気だ」
「ここって?」
「読書が終わったんなら、自分の寝床にとっとと戻れ」
 言って、きれいな顎で古びたソファを差し示す。
 声は良いが口は悪い。力河の言うことは確かに当たっている。
「眠いんだ」
「だから、眠いなら」
「今日はここで寝る」
「って、あんたなあ…!」
「いいじゃないか、ネズミ」
「ちっとも良くない。狭い。そもそも、俺のベッドまで来て、わざわざ本を読むことはないだろう、あんたも」
「君も本を読んでいたから」
「それが理由か」
「君の隣に寝そべって、僕も本を読んでみたくなったんだ」
 その言葉に、ネズミがいまいましげに眉間に皺を寄せた。
「迷惑だ」
「一人で読みたかったのか?」
「当たり前だ。気が散る。あんたのへたくそな朗読のおかげで、俺の貴重な読書タイムが台無しだ」
 憮然とした横顔に、それを見上げて紫苑がくすっと笑んだ。
「聞いてたんだ」
「こんな真横で読まれたら嫌でも聞こえる」
「うるさかった?」
「当然」
「でも、やめろって言わなかった」
「あ?」
「嫌ならやめろって怒るだろ。ネズミ」
 屈託無く言われて、ネズミが呆れたように溜息をつく。
「…で? それと、あんたが俺のベッドから立ち退かない理由とどんな関係がある?」
「同じかなって」
「は?」
「だから、ここで寝る。おやすみ」
「ちょ、待て、おい、紫苑」
 だから今、怒っているだろう。何がどう同じなんだまったく。だが、意義を唱える言葉の前に、慌てたような間抜けな声を返してしまった。
 怒鳴るタイミングを逃して、ネズミの眉間の皺がますます深くなる。
「もう今日はくたくたなんだ。動くの、かったるい」
「すぐ目の前のソファまでだろうが。3歩もあれば充分だ」
「その3歩が面倒なんだ」
「どれだけ怠け者なんだ、あんた」
「君が抱いて運んでくれるならいいけど」
「…あのな」
 心底呆れたような顔に、くすくすと肩をすくめて紫苑が笑う。ネズミがその顔にフンとそっぽを向いて、吐き捨てた。
「馬鹿馬鹿しい。どうして俺があんたにそこまでサービスする必要がある」
「うん。そうだね」
 他愛もない言葉遊び。戯れ。
 心地よい穏やかな空気が部屋を満たしている。ストーブの明かりにも似たあたたかい、それ。
 二人のやりとりを書棚の上で見守っていた小ネズミたちが、声を潜めて小さくチチッと囁き合った。
 パチパチとストーブの火のはぜる音だけが、静かな部屋に響いている。
 憮然としながらも、再び枕の上で本を開いたネズミの肘に、紫苑が頭を寄せていく。本に没頭し始めたのか、ネズミはもう何も言わなかった。
 とろりと半分に閉じかけていた紫苑の瞼が、睡魔との戦いに負けてゆっくりと閉じていく。
 ややあって、薄く開いた唇から寝息がこぼれた。
(……わずか一秒で爆睡とは。器用だな)
 傍らで、早くもくうくうと可愛い寝息を立て始めた紫苑に、ネズミが我知らずと笑みを漏らす。
 見下ろせば、そこに子供のような紫苑の寝顔がある。ネズミは、濃灰色の双眸をやさしく細めた。

 4年前の嵐の夜を思い出す。
 この4年の間に、何度も何度も思い返した。
 あの夜。そして、嵐が明けた朝。
 はっと眠りから覚めたネズミの隣で、紫苑はこんな風に安らかな寝息をたてていた。それはもう驚くほど無防備に。
 呆気に取られた。
 紫苑ではなく、自分自身に、だ。
 生きた人間の傍らで安眠を貪ったことなど、かつて記憶にすらない。
 そんなネズミが、出会ったばかりの他人の体温の傍らで、泥のように眠りに落ちた。夢も見ないほど深く。
 逃亡と怪我のため、極度の疲労状態だったことを差し引いても、在り得ないことだった。

 読みかけの本を閉じ、そっと腕を伸ばしてテーブルに置いた。紫苑の胸の上にある本も取り上げ、同じようにする。
 紫苑を起こさないように細心の注意を払っている自身になど、まるで気づきもせず。
 そうして、枕に肘をつき、身体を横にして紫苑の寝顔を見遣った。
(本当に子供みたいに無防備に眠るんだな、あんた…)
 年齢よりも幼く見える童顔は、眠っているとますます幼く、あの夜とそう大して変わらない気がする。
(なかなかの間抜け面だ)
 見つめて、くっくっと喉元でネズミが笑った。
 ストーブのオレンジの炎が映り込み、紫苑の輪郭をそっとなぞる。
 やわらかな面立ち、やわらかな髪、やわらかな頬。
 やわらかそうな唇。
(……)
 光沢のあるきれいな白い髪をそっと撫で、頬の赤い痣を親指の腹で辿って、額にかかる前髪を指先でそっと上げさせる。
 滑らかな額に唇を寄せた。それから頬に一つ。
 薄く開いた唇にも、掠めるように一つ。
 ママの代わりに、おやすみのキスを。
「良い夢を。……紫苑」
 囁き、一度離れ、もう一度、啄むように口づける。
(…これは、ママの代わりじゃないからな)
「…ん………ネズミ………」
 紫苑が夢の中で幸せそうにその名を呟くと、ころりと身体を返し、甘えるようにネズミの胸へと額を寄せた。
 薄い紫苑の背を抱き寄せ、ネズミもまたゆっくりと目を閉じる。
 腕の中の紫苑のいとしい体温は、あの夜とはまた違う安らかで幸福な眠りに、瞬く間にネズミをも誘っていった。



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